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不死鳥は何度でも這い上がる 〜戦国最弱の愛され国衆・小田氏治のサバイバル〜  作者: 水川仁


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第12話 戦場なき化かし合い

天正十一年(1583年)。


関東は、不気味な静けさに包まれていた。


北条と佐竹。


両雄は互いに大軍を動かしながらも、決定打を放てずにいる。


関宿城は、その均衡の最前線だった。


今日も城門は開き、兵糧が運び込まれる。


槍の手入れをする兵。


川を行き交う高瀬舟。


一見すると平穏そのものだ。


だが、この城にいる者は誰もが知っていた。


本当に恐ろしい戦は、まだ始まってすらいない。


「小田殿。」


関宿城の一室。


静かに茶を置いたのは、皆川広照だった。


「戦は槍だけではございませぬ。」


「むしろ戦にならぬよう立ち回ることこそ、国衆の務め。」


氏治は団子を口いっぱいに頬張ったまま頷く。


「ほう。」


「北条には従う。」


「されど従い過ぎてもならぬ。」


「宇都宮とも縁を切れぬ。」


「佐竹とも完全には敵になれぬ。」


広照は苦笑した。


「どちらへ転んでも、一族が生き残る道を残しておく。」


「外交とは、そういうものでございます。」


氏治は感心したように団子を飲み込む。


「なるほど。」


「胃が痛くなるわけだ。」


「ええ。」


「毎日です。」


「俺なら三日で逃げる。」


「逃げられません。」


広照は真顔だった。


夜。


関宿城の裏手。


利根川の流れだけが闇の中で鈍く光っていた。


氏治は一人、堤に立っている。


「もう出てきてもいいぞ。」


返事はない。


氏治は笑う。


「隠れるなら風下に立て。」


「匂いで分かる。」


闇が動いた。


黒い僧衣。


音もなく姿を現したのは、佐野房綱だった。


「……恐れ入りました。」


宝庵(宝衍)が薄く笑う。


「小田殿は戦下手と聞いておりましたが。」


「人を見つける勘だけは一流ですな。」


氏治は鼻を鳴らした。


「何度夜襲を受けたと思ってる。」


「寝首を狙う奴の気配くらい嫌でも覚える。」


宝庵は肩をすくめた。


「では。」


「今夜も全部お見通しですかな。」


「たぶんな。」


氏治は宝庵を見る。


「上方へ文を飛ばしたろ。」


宝庵の目が細くなる。


「秀吉か。」


「石田三成か。」


「どっちだ。」


一瞬の沈黙。


宝庵は小さく笑った。


「……さすがです。」


懐から一通の書状を取り出す。


「惣無事令。」


「秀吉公は本気です。」


「関東の私戦を終わらせる。」


「従わぬ者は。」


「北条であろうと討つ。」


川の流れる音だけが響いた。


氏治は答えない。


ゆっくり水面を見つめていた。


北条は強い。


誰が見ても強い。


兵も。


城も。


金も。


秩序もある。


だが――。


「何か。」


氏治が呟く。


「嫌な匂いがする。」


宝庵が首を傾げた。


「匂い?」


「長く負け戦ばかりしてるとな。」


「勝てない戦の前は、みんな同じ匂いがする。」


宝庵は黙った。


氏治は続ける。


「慌ててない。」


「焦ってない。」


「だから怖い。」


「勝てると思ってる奴ほど。」


「一番危ない。」


宝庵は氏治の横顔を見つめる。


そこには名将の顔はない。


策士の顔でもない。


何度も滅びかけながら、それでも今日まで生き残った男だけが持つ表情だった。


「宝庵。」


「はい。」


「俺は戦が弱い。」


「それは存じております。」


「城も守れん。」


「それも。」


「だが、一つだけ誰にも負けん。」


「何でしょう。」


氏治は笑う。


「引き際だ。」


短い沈黙。


「強い武将は踏みとどまる。」


「だから討ち死にする。」


「俺は違う。」


「危ないと思ったら逃げる。」


「城も捨てる。」


「名誉も捨てる。」


「笑われても生きる。」


「だから。」


氏治は空を見上げた。


「まだ生きてる。」


宝庵は息を飲んだ。


その言葉には、一切の虚勢がなかった。


「皆川殿は賢い。」


「だから最後まで計算する。」


「お前は肝が据わってる。」


「だから危ない橋も渡る。」


「俺は違う。」


氏治は笑う。


「嫌な匂いがしたら。」


「一番先に逃げる。」


「武士らしくないですな。」


宝庵が苦笑する。


「武士らしかったら。」


氏治も笑った。


「とっくに死んでる。」


利根川の風が二人の間を吹き抜ける。


遠くで夜鳥が鳴いた。


宝庵は静かに一礼する。


「……小田殿。」


「皆があなたを常敗の将と申します。」


「ですが。」


「あなたほど『滅び』の気配を知る武将を、私は見たことがありません。」


氏治は照れくさそうに頭を掻いた。


「負け続けるのも。」


「案外、悪くない経験だ。」


宝庵は笑った。


その夜、戦はなかった。


槍も交わらず、矢も飛ばない。


だが関宿の闇では、それぞれの国を背負う男たちが、刀ではなく言葉を交えながら、生き残る道を探っていた。


そして小田氏治は、誰よりも早く「時代の風向き」を嗅ぎ取り始めていた。


それは名将の先見ではない。


何度敗れてもなお生き延びた者だけが身につけた――乱世を生き抜く、本能だった。

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