第11話 関宿城の同僚たち
春まだ浅い関宿。
利根川と江戸川の濁流がぶつかり合う要衝・関宿城は、北条家の東国最前線として昼夜なく兵が出入りしていた。
戦の匂い。
湿った板間。
積み上げられた兵糧俵。
その隅で、小田氏治は大の字になって寝転がっていた。
「……狭い。」
誰に言うでもなく呟く。
「実に狭い。」
隣で帳面を広げていた菅谷政貞が顔を上げる。
「三度目です。」
「何がだ。」
「本日三度目の『狭い』でございます。」
「だって狭いんだから仕方あるまい。」
氏治は天井を見つめた。
「小田城はもっと負けやすかった。」
「褒めるところではありません。」
「逃げ道も多かった。」
「もっと褒めるところではありません。」
政貞は額を押さえた。
北条家に臣従した結果、小田家へ与えられた役目は関宿城の在番。
言い換えれば、佐竹軍が攻めてきたら真っ先に潰される最前線である。
「小田城では伸び伸び負けられた。」
「負けを前提にしないでください。」
「ここは逃げ場がない。」
「逃げる話もやめてください。」
政貞は深くため息をついた。
「今日は他家の方々も参ります。」
「少しは威厳を。」
「元大名らしく。」
氏治は起き上がる。
「任せろ。」
「今日は格好つける。」
その瞬間だった。
詰所の戸が開いた。
「失礼いたします。」
静かな声とともに、一人の男が入ってくる。
背筋は真っ直ぐ。
身なりも整っている。
だが顔色だけは死人のようだった。
皆川広照である。
「おお、皆川殿!」
氏治が手を振る。
「また胃が痛そうだな!」
広照は苦笑した。
「ええ。」
「よくお分かりで。」
腰を下ろすなり腹を押さえる。
「佐竹が動くという話があります。」
「宇都宮も油断できません。」
「さらに上方では羽柴秀吉。」
「北条が勝つのか。」
「豊臣が勝つのか。」
「考えるだけで眠れませぬ。」
「胃薬は飲んでおるか?」
「効きません。」
「それは重症だ。」
氏治は真顔で頷いた。
「俺も昔、小田城を落とされた日は腹が痛かった。」
「昔?」
「三日くらい。」
「四回目くらいから慣れた。」
広照は返事ができなかった。
(慣れるものなのか……。)
さらに戸が開く。
今度は足音がない。
黒い僧衣。
丸めた頭。
笑っているのに目だけが笑っていない。
部屋の空気が少し冷えた。
「皆様、お揃いですかな。」
佐野房綱――。
宝庵(宝衍)。
広照が身構える。
「何をしに来た。」
「風の便りを。」
宝庵は笑う。
「北条も永くはありますまい。」
「私はすでに上方と通じております。」
「秀吉公が動けば、関東の景色は変わる。」
「お二人も今のうちに乗り換えては?」
広照の顔色がさらに悪くなった。
「や、やめなされ!」
「壁に耳がありますぞ!」
「聞かれたら皆殺しです!」
宝庵は面白そうに笑う。
「皆川殿は相変わらず肝が小さい。」
「小さくて結構!」
「私は死にたくありません!」
詰所に重苦しい沈黙が落ちる。
その時だった。
氏治がぽつりと言う。
「宝庵。」
「何ですかな。」
「お前も大変だな。」
宝庵が目を瞬かせる。
「佐野家を守ろうとしてるんだろ。」
「だから命懸けであちこち走り回ってる。」
「皆川殿は胃を痛めながら北条へ頭を下げる。」
「俺は城を取られては取り返して、また取られる。」
氏治は笑う。
「みんな必死なんだ。」
「関東の国衆ってやつは。」
部屋が静まった。
宝庵は初めて笑みを消した。
広照も黙って氏治を見つめる。
氏治だけは、いつもの調子だった。
「織田が消えた。」
「武田も消えた。」
「明日は北条かもしれん。」
「俺たちは怪物同士の足元で踏まれないよう逃げ回る虫みたいなもんだ。」
「だったら。」
「笑うしかないだろ。」
誰も返事をしない。
しかし三人とも、どこか肩の力が抜けていた。
「よし!」
氏治が立ち上がる。
「今日は酒だ!」
「同僚の親睦会を開く!」
政貞が静かに言う。
「氏治様。」
「何だ。」
「お金がありません。」
「……。」
「一文も。」
「……。」
氏治は少し考えた。
それから広照を見る。
「皆川殿。」
「はい。」
「貸してくれ。」
「酒代。」
広照は天を仰いだ。
「またですか!」
「利息付きで返す!」
「いつ!」
「次の勝ち戦で!」
「それが信用できないのです!」
広照の悲鳴が板間に響く。
宝庵は腹を抱えて笑い始めた。
政貞はもう諦めたようにため息をつく。
関宿城。
北条家最前線。
明日には佐竹軍が攻めてくるかもしれない。
それでも、この小さな詰所には笑い声があった。
怪物たちが争う戦国の世で、生き延びるためにもがく国衆たち。
その夜だけは、彼らは敵でも味方でもない。
同じ泥の中を這い続ける――戦友だった。




