Ⅱ
──リーファスの妊娠が発表されてから、半月ほどが経って。
ゴルネイの拠点の中はまだソワソワとした空気が流れていた。
今は地震で傷んだ施設の修繕中で、業者や関係者以外に島の外からの来訪者もなく、ほとんど身内同然の者しかいないせいもある。放っておけば、ここの誰よりも働きすぎる彼らのマスターの身体を労わり、そして祝意を表すのに何の気兼ねもいらないのだから。
ヒュドラ復活後のダンジョンに入って魔障に当たってはと──、身重の間は決してダンジョンの下層域に立ち入らないことを、リーファスは伴侶であるレオスに約束させられていた。
しかし、何かあればそれを平然と破りかねないのが彼らのマスターで……。
その為、パットがわざわざ本土のレイブン家にまで出向き、彼の兄であるイヴリールに一筆認めてもらう始末であった。
ギルドマスターとダンジョンの管理人については休業中でも、彼は他に何かと作業を見つけてはそれに没頭していた。
何やら長い時間、書き物をしているかと思えば、はたまた新しく弟子となったクィルとともに、ラボにこもって薬草の研究をしていたり。別に病気ではないので、適度に動き回っている分には別にいいらしいのだが、仕事以外は無趣味といおうか、放っておけば妊娠前までとほぼ同じような働きぶりを見せていた。
ヒュドラダンジョンの第五層以下の地図の作製は、ヴォルフ以外のリーファスの元仲間たちが中心となって続けられ、そのいずれにも、冒険者登録をしたばかりのクィルが、いずれ星三つ以上の職位になって白魔法使いに昇格するための修行を兼ね、同行させられていた。
白魔法というのは主に、治癒や強化、防御などを施す補助系の魔法を指す。
クィルが持つ魔力回路はかなり特殊で稀有なものなのだが、その得意とする魔法も広義でいえば白魔法なのだ。
以前なら、魔界そのものから直接魔物を召喚することが可能であったが、それも、ホーンオウルの刻印があってこそ。リーファスの手によって刻印が剥がされた今は、魔力消費が著しい召喚魔法を闇雲に行使するのは、ただの自殺行為である。
それでも、よからぬ事を企む輩というものは常にいて。
──ひと月ほど前のこと。
ようやく刻印から解放された息子の魔力回路を狙う者らが既に不穏な動きを見せていると、ある筋から知らされたクィルの両親は戦慄した。
そして、彼らは再びリーファスを頼ったのだ。ゾット夫人は、今回については自分でもその理由はよくわからないが、とにかくそうすべきだと直感した、と話した。
『ならば、ご子息のことはしばらくこちらで引き受けましょう』
と、リーファスはほとんど迷う素振りもなく、あっさりとそう言った。
『ここが完全に安心な場所だとは申しませんが、それなりに守りは堅いので』
ヴォルフは、冬至の祭りのあと、一時的にパーティから離脱している。
年に一度、この時期になると彼は必ず、生まれ故郷である大陸北部の小国ミルドがかつてあった場所へと帰るのだ。
彼は、レオスと出会う前。冒険者登録をする前の若き日に、故国と妻と幼い子供を亡くしている。
ミルドは常に隣国からの軍勢に脅かされていて、ヴォルフも十代の頃から一歩兵として戦っていた。
しかしその抵抗も虚しく、強国に占領されたミルドの国名は、今や大陸の勢力図上からは完全に消え失せ、新しい地図にもその名が記されることはなかった。
以来、ヴォルフは傭兵となって大陸中の争乱を渡り歩くことになるのだが、ひょんなことから冒険者になりたてのレオスと知り合い、そのまま行動を共にするようになった。
その間の約二十年。新しく年を迎える頃になると彼は必ず、故郷があった場所へと一人帰っていく。
彼が仲間の元に戻ってくるのは、春が間近になる頃のことだ。
➕ ➕ ➕
ある晩、イコが両親に向かって唐突に訊ねた。
「ねえ、父上と父さんって、どんな風にして知り合ったの?」
──訊いてしまってから、イコは「あっ」という顔をしたが、レオスは軽く受け流した。
「うん、俺もそこのところの記憶がないから、興味があるな」
リーファスは少し顔を顰めながら、
「……興味って。どうせキリィやパットから聞いているんだろう?」
「でも、お前の口からも聞きたい」
レオスは、イコと同じように碧い瞳をキラキラさせてリーファスを見つめる。
宿屋の食堂。ちょうど、彼ら家族と一緒に夕食を食べ終えたクィルとメグは無言で目配せをしあってから、「ご馳走さまです」と言って静かにテーブルを離れようとする。
「ハーブティーが飲みたいな」
唐突にリーファスが言った。
「あ、ならわたしが淹れてきます!」
ぱっと振り返ったメグが言うと、「悪いな。じゃあ、五人分頼む」とリーファスが微笑む。
「俺も、ヘンドリックさんにデザートを頼んで来る!」
イコとメグがいそいそと連れ立って厨房に向かう背中を、クィルは何とも言えない表情で見送った。
「……あの、先生。僕は……」
「別に、内緒話をするわけじゃない。よければ座って聞いていったらどうだ? まあ、別に無理強いはしないけどな」
と、レオスが口を挟んできた。
「レオの言う通りだ。なんなら、お茶を一杯飲み終わるまででもいい。君も毎日ダンジョンに入って疲れているだろうし、俺も大した話は出来ないからな」
「……まあ、パットさんからポーションは惜しみなく貰えてるので。そこまで疲れてはないです」
ぼそぼそとそう言って、クィルは再び腰を下ろした。
やがて厨房から、大きなトレイを持ったイコたちが戻ってきた。
メグは、慣れた手つきでリーファスが最近好んでよく飲むラズベリーティーの入ったポットと、人数分のカップをテーブルにセットする。
イコのトレイには、八つのギザギザがついた星型の大きな(横から見ると先っぽのない円錐型の)ケーキが載せられていた。パンドーロと呼ばれる玉子をふんだんに使った、この辺りでは主に冬至の日によく食べられるお菓子だ。
フワフワと柔らかく、バニラの香りの粉砂糖でたっぷりとデコレーションされたそのお菓子は拠点の全員の大好物で、材料と時間がたんまりとある冬の間だけ(発酵や焼き上がりまでに二日、その後さらに二日置いてから食べるという手間要りの菓子なため、忙しい時期にはまずお目にかかれない)、ヘンドリックはこれを焼いてくれるのだった。
「イコ。さては、パンドーロがあることを知ってたな?」
「はい、父上。実は数日前からヘンドリックさんが作っているのを見てて、出来上がるのを楽しみにしてました」
「……俺はお茶だけでいいから、レオスとお前たちで分けて食べなさい」
悪阻が治まりきっていないのか、リーファスは口元に軽く手を当てながら言った。彼は、今の食事も半分以上残している。
「大丈夫か? この時期はまだプラムがないのが残念だな」
レオスが案じるように言うと、リーファスは深く頷いた。
「全くだ。イコの時はあれでずいぶん助かったんだが」
すると、イコとメグとクィルが、三人同時に顔を見合わせた。気づいたリーファスが首を傾げる。
「どうした?」
「あの、それ、キリィさんが言ってたから……」
「先生はその、前の時も酸っぱいプラムばっかり食べてたって」
「ああ、なるほど」
リーファスは小さく笑った。
「懐かしいな。……まさか十四年も経って、またこんなことになるとは」
「それは悪かった」
パン切り包丁で、意外なほど丁寧に菓子を切り分けていたレオスが肩を竦める。
「本土の市場になら、もしかしたらプラムがあるかもな。明日にでもお詫びに探してこようか」
「いや、いい。こんなのはじきに治まるから」
リーファスは、ひらひらと片手を振って……。
「ところで、何の話をしていたっけ?」
「だから、父さんと父上が出会った時の話だってば!」
「ああ……。しかし、本当になんということはないぞ? あのとき、俺はまだ駆け出しの冒険者だったし、かたやレオスの方は、あの頃からすでに、その名を大陸中に轟かせている勇者だったしな」
「キリィたちの話では確か、その頃にケルスの爺様が離脱したんだったか?」
「そうだ。だからお前たちは、その代わりの白魔法使いが必要だと言って、ギルドで募集を……」
そう言いさしたリーファスが、ぱちぱちと目を瞬かせる。
「なんてことだ。……クィル、君は今、奇しくもあの頃の俺と同じような目に遭っているな」
「え。そう……なんですか?」
パンドーロにフォークを突き刺したまま、クィルがきょとんとして言った。
確かに、彼の中にも妊娠中の師匠の代わりをしているという自覚はあった。だが、それが師匠が抱いている感慨とどう結びついているのかまでは分からない。
「ああ、あの時の俺と、ちょうど年齢も近いしな。いやはや……、そうか。ふぅん……。これはこれで、まあ、──なのかもしれないな」
「え?」
リーファスが、口の中でわざと小さく呟いた言葉を聞き取れた者は、この場に誰もいなかった。
「おい、それよりも、俺との出会いは?」
「……ああ、なんだかバタバタしていたな、という記憶しか。何せ、ギルドからの紹介で急にお前たちと会うことになって、どうせこっちが断られるものと思って出向いたら、まさかのその場でパーティに入ることになって……」
「おい待て。そこのところはもう少し、情緒的な言い方はないのか? 運命の出会いだった、とか」
「悪いが、その時は全く気づいていなかったんだ」
少し不満げな口ぶりの伴侶に、リーファスも悪びれることなく、澄ました顔で答える。
「まあ、誰しもそんなものだろう?」
「いや、俺は絶対、最初からお前が運命の相手だとわかっていた」
記憶がないはずのレオスは、それでもそこだけは頑として譲らなかった。
「いや、あの時のお前は、俺がオメガだってことは知らなかったはず……」
「それがどうした?」
「…………」
「…………」
「…………」
クィルは、無言でパンドーロを咀嚼しているイコとメグを見遣る。
イコは若干、「こんなはずじゃなかった……」みたいな顔をしているが、長い間ずっと離れ離れで、その上秘密の多かった両親が、今はこうして揃っていることには満足しているようだ。
メグは、素直に皆で美味しいものが食べられて幸せ、といったところか。敬愛するマスター夫妻を前に、犬も食わない何とやらを立派に実践している。意外に即物的と言おうか、見ようによっては賢い娘かもしれない、とクィルは従妹に対する認識を秘かに改めた。
「クィル、楽しそうだね?」
不意に、イコが言った。
「え、そうか?」
「うん」
驚くクィルに、イコはしっかりと頷く。
「口元がずっと笑ってるから」
「それは、この菓子が美味くてつい……」
それと、お前たち二人がそれぞれに可愛らしくてつい……、とは口に出しては言わないが、事実だと認めることについてはやぶさかではなかった。
……今はまだ、顔を合わせてもどこかぎこちない会話になってしまう弟とも、いつかこんな風に気取らずに話せる日がくるだろうか。
「クィル。俺も、来年の今頃には冒険者になってるから」
またもやイコは、唐突に言った。
コイツは一体、どういう思考回路の持ち主なんだろうかと思いながらも、クィルは別に何の面白みもない返答をしてしまう。
「ああ、そうだな。頑張れよ……」
「だから、クィルも早く星三つになって、白魔法使いになって待っててね。俺も父上と同じ歳には勇者になってみせるから」
「お? おう……」
新たな運命の扉が開いてしまったかもしれない? ことに──たった今、決意を込めて宣言した一人を除き──この時は誰も気づいてはいなかった……。
※※※
ずっとどこかで書きたかったヴォルフの過去。
パットとキリィについては、いずれまたどこかで。
リーファスがクィルに感じた【運命】とは、昔の自分のように、動けない仲間の代わりにクィルがレオスたちの仲間になってくれたという【巡り合わせ】のようなもの。
一方、イコはイコで、クィルに対して早くも何か【縁】を感じ取っている……のかもしれないです(笑)




