冬の分を、秋に売ります
「この林檎を干すのは、もったいないですね」
翌朝、干し果実工房の主人は、リディアが持ってきた林檎を一口食べてそう言った。
昨日、果樹園で食べたのと同じ、大きく赤い実だった。
「干し果実には向きませんか?」
「作れますよ。ただ、水が多い。乾かすのに時間も燃料も掛かる。それなら生で売った方がいい」
主人は作業台に並べた別の林檎を取った。
昨日なら、安値でしか売れない側に入っていたものだ。
小さい。
形も少し歪んでいる。
皮には枝擦れの跡まであった。
「むしろ、こっちです」
切り分けてもらい、リディアも食べる。
昨日の林檎より酸っぱい。
甘さも少し弱い。
生で食べるなら、迷わず昨日の方を選ぶだろう。
「これを干すと、ちょうどいいんです。水分が少なくて乾きやすいし、酸味も残る。見た目の傷は皮を剥けば関係ない」
農務局長が、二つの林檎を見比べた。
「市場では、こちらの方が安いんですが」
「市場ではね」
工房主は笑った。
「市場の値段と、俺が欲しい林檎の値段は同じじゃありません」
その一言で、昨日までの問題が一つほどけた。
見栄えのいい林檎から順に高く売り、売れにくいものを全部加工へ回す。
それでは駄目だった。
売り先によって、欲しい林檎そのものが違う。
リディアはすぐに尋ねた。
「この辺りの品種なら、どれを干したいですか?」
工房主は迷わなかった。
農務局が持参した見本を次々に分けていく。
これは生で売った方がいい。
これは干したい。
これは柔らかすぎる。
これは酸味が足りない。
最後の籠を見たところで、隣にいた果実酢工房の女主人が手を伸ばした。
「それ、うちなら買いますよ」
干し果実工房の主人が振り返る。
「これを?」
「酢なら問題ない。むしろ、少し熟れた方がいいものもあるからね。ただし腐ったのはいらないよ」
「そこは当然です」
二人が言い合う横で、農務局長が分類を書き直し始めた。
生で価値のあるものは市場へ。
市場では安くても乾燥に向くものは、干し果実へ。
干すのには向かないが醸造できるものは、果実酢へ。
それでも食品にできないものだけは、飼料や堆肥へ。
リディアが決めた分類ではない。
現物を知る人間たちが、その場で決めた。
けれど、その答えを聞いた瞬間には、次に必要なものが見えていた。
「どれくらい作れますか?」
干し果実工房の主人が答える。
「今の設備なら、いつもの冬仕込みに上乗せしてもこのくらいです」
数字を紙へ書く。
酢工房も続けた。
「うちはこっちまで」
量は、南部全体の余剰林檎を飲み込めるほどではない。
だが、一農家を助ける程度でもなかった。
複数の工房を使えば、かなりの量が動く。
農務局長が紙を見ながら言う。
「これだけ加工しても、売れなければ工房に在庫が残ります」
「はい」
リディアもそこを見ていた。
昨日までは農家の木に残っていた。
加工するだけなら、売れ残る場所を工房へ移すだけだ。
「ですから、作る前に売りましょう」
工房主が顔を上げた。
「まだ作ってないのに?」
「見本だけ作っていただけますか」
リディアは昨日見た冬の購入記録を思い出す。
「買っていただきたい相手は、もういます」
昼過ぎ。
工房を出るところで、一台の荷車が止まっていた。
荷台には空になった籠と、数本の縄しか残っていない。
果実酢工房へ瓶を届けてきた車だという。
リディアは御者へ声を掛けた。
「帰りは空ですか?」
「ええ。町まで戻ります」
「荷物を積めるなら?」
御者は当然のように答えた。
「帰り道なら積みますよ。空で走るよりいい」
農務局長が、そこでリディアを見た。
「加工品を?」
「それもです」
リディアは空の荷台を見る。
生の林檎を遠くの市場へ運ぶから、今は運賃まで払うと赤字になる。
けれど果樹地域へ来る荷車そのものはなくならない。
塩も瓶も布も道具も、村には必要だからだ。
なら、その帰り道は空いている。
「帰り便を使える業者だけ、一覧をください」
「今日中に出します」
それだけで十分だった。
細かな運賃計算は運送担当へ任せればいい。
使える道があることさえ分かれば、あとは実際の値段で確かめられる。
三日後。
公爵家の会議室ではなく、農務局の小さな応接室に三人の買い手が集められた。
北部鉱山の食料担当。
冬季の街道作業員へ食料を納める商人。
複数の宿へ保存食を卸している商人。
いずれも、昨冬に領外産の干し果実を買っている。
机の上には、今回の林檎で作った試作品が置かれていた。
エルハルトは来ていない。
リディアが来なくていいと伝えたからだった。
公爵本人が座っている前で、
「買わなくても構いません」
と言われても、商人がどこまで自由に断れるか分からない。
今回は普通の商品として評価してもらいたかった。
「まず食べてください」
三人が試す。
最初に口を開いたのは、街道作業向けの商人だった。
「去年買ったものより酸味がありますね」
工房主が緊張した様子で聞く。
「駄目ですか?」
「いや。外で働きながら食うなら、こっちの方がいい」
鉱山担当も二切れ目を取った。
「うちはもう少し甘いのも欲しい。二種類にできます?」
工房主の表情が変わる。
品質の審査をされている顔から、商談をする職人の顔になった。
「品種を分ければできます」
宿向けの商人は、値段表を見ていた。
「この価格で本当に出せますか?」
「量がまとまるなら」
工房主が答える。
「今年は原料が安い。それに近場の林檎を使えるなら、去年より運ぶ距離も短い」
リディアは補足しなかった。
作る本人が説明できることだった。
商人はもう一度価格を見る。
昨冬に領外から買った保存果実より安い。
工房には利益が残る。
原料を売る農家も、人を雇って収穫した後に金が残る。
無理をしている者がいない。
「では、うちはこの量で」
宿向けの商人が最初に数字を書いた。
街道作業向けが続く。
鉱山担当も、二種類に分けることを条件に購入予定量を出した。
工房主は三枚の紙を見た。
「これ、本当に作っていいんですか」
「契約してからにしましょう」
リディアが答える。
「売れる量だけ作ればいいです」
工房主が少し笑った。
「企画官殿は、ずいぶん順番にうるさいですね」
「売れなかった物を農家から工房へ移すだけでは、解決になりませんから」
契約はその日のうちに作られた。
品質。
価格。
数量。
納期。
必要なことだけを決める。
公爵領による購入強制も、売れ残りの買い取り保証もない。
普通に作る。
普通に買う。
それで成立する条件だった。
買い手が帰ったあと、農務局長は三枚の契約を机へ並べた。
「昨日まで、農家へいくら補助するかを考えていました」
「それも必要なところには使いましょう」
「ええ」
局長は頷いた。
「でも、この分には要らない」
市場へ持っていけば赤字だった林檎がある。
加工工房は、それを原料として買う。
加工工房にも利益が出る。
冬の買い手は、去年より安く保存果実を買える。
誰か一人の損失を、別の誰かへ押しつけていない。
リディアはそのことが嬉しかった。
数字が合うだけではなく、来年も同じ相手同士で取引できる。
そういう仕事の方が好きだった。
翌日から、林檎が動き始めた。
農務局が行ったのは、農家へ新しい売り先を知らせ、希望者を工房側へ繋ぐことだけだった。
参加は自由。
上等品を今までどおり市場へ持っていく農家もいる。
家族だけで食べる分を残す家もある。
加工へ回す量も、それぞれ違う。
それでいい。
最初に訪ねた農家の畑へリディアが戻ると、四日前まで枝に残されていた林檎を、人夫たちが次々と摘んでいた。
あの男も働いている。
リディアを見つけると、手を止めて駆けてきた。
「企画官殿!」
嬉しそうに、紙を見せる。
買い取り票だった。
「これ、見てください。人を雇った分を払っても残るんですよ」
「よかったです」
「去年みたいな値段じゃない。でも、採るほど損はしない」
それで十分だった。
大豊作なのだから、平年より値段が下がること自体はおかしくない。
必要なのは、豊作だったせいで収穫するほど損をする状態を終わらせることだった。
畑の出口には三台の荷車が並んでいた。
一台目には、大きく形の良い林檎が積まれている。
市場へ行く。
二台目には、小さく酸味の強い林檎。
干し果実工房へ行く。
三台目には、少し柔らかくなった醸造向きの林檎。
果実酢工房へ向かう。
昨日までなら、どれも同じ市場へ運ぶか、値段が付かず木へ残されたものだった。
農家の男が三台を見渡した。
「全部、売れたんですか」
リディアは首を横へ振った。
「売れるものは」
食品にできないものまで、無理に金へ変えたわけではない。
腐った実は飼料や堆肥へ行く。
けれど、食べられるのに値段が付かなかった林檎には、ほとんど行き先ができた。
男は少しだけ目を丸くしてから、笑った。
「十分です」
三台の荷車が、一台ずつ畑を出ていく。
市場へ。
工房へ。
醸造所へ。
誰かが号令を掛けたわけでもない。
売る人と買う人が、それぞれ自分に得のある値段で契約した結果だった。
その日の夕方。
農務局へ戻ったリディアの机には、干し果実を買う三者から追加の要望が届いていた。
鉱山と街道作業向けの担当者が、同じことを書いている。
一人分ずつ、同じ量の小袋にしてほしい。
現場で配るたびに量らずに済むからだった。
宿向けの商人からも、旅人が持って出られる小袋があると扱いやすいという意見が来ている。
農務局長が言った。
「包装用の袋を発注しますか」
「まだ枚数は決めなくていいです」
「では?」
「一か月後の製作枠だけ押さえてください」
局長が理由を待つ。
「干し果実が出来てから袋の順番待ちをするのは無駄です。予約料だけなら小さいですし、数量が少なければ空いた分は通常の仕事へ戻していただけます」
「分かりました」
書記が手配を書き込む。
それから運送担当が、林檎と加工品の輸送契約を持ってきた。
生果用の荷車。
工房向けの荷車。
完成した保存食を運ぶ荷車。
用途ごとに別々の枠になっている。
リディアは一か所だけ指した。
「六週間だけ、荷物に合わせて用途を変えられるようにしてください」
「日ごとの収穫量が読めないからですか?」
運送担当が先に尋ねた。
「はい。今日は生果が多い、明日は加工用が多い、ということもあるでしょう。同じ荷車が空いているのに、契約上の用途が違うから使えないのはもったいないです」
「前日までに分かれば問題ありません」
「では、それで」
それだけだった。
どちらも今の林檎を売るために便利な準備だった。
リディア自身も、今はそれ以上の意味を口にしなかった。
扉が開き、エルハルトが入ってくる。
視線が最初に向いたのは、机の上に置かれた農務局の報告書だった。
「結果は」
農務局長が答える。
「加工可能な分については買い手が付きました。生食用と酢向けも含めれば、食品として扱える余剰分の大半に行き先があります」
「公費は」
「当初予定していた緊急買い上げの大部分が不要になりました。遠方輸送支援も縮小できます」
エルハルトはリディアを見る。
「最初からこれを考えていたのか」
「いいえ」
リディアは正直に答えた。
「冬に保存果実を買っているところまでは。でも、どの林檎が加工に向くかは今日まで知りませんでした」
「では、そこで変えた」
「はい。職人さんが教えてくださいましたので」
エルハルトは一度だけ頷いた。
「次は?」
早い。
もう林檎の話を褒め続ける気はないらしい。
けれど、それが嫌ではなかった。
終わった仕事を、終わった仕事として扱ってくれる。
「明日から、別の案件を見ます」
「そうしろ」
エルハルトが出ていく。
農務局長はしばらく扉を見てから、リディアを振り返った。
「公爵閣下、もう少し何か言ってもいいと思いません?」
リディアは少し考えた。
「何をでしょう」
「……いえ」
局長は笑った。
リディアもつられて笑う。
窓の外では、夕方の街道を荷車が走っていた。
秋に多すぎた林檎は、もう一つの商品ではない。
今日食べるもの。
冬に食べるもの。
酢になるもの。
同じ畑から生まれた実が、それぞれ価値のある場所へ向かっている。
採るほど損をした豊作は、ようやく、ただの豊作になっていた。




