黒字なのに給金が払えない
「黒字なんです」
会計係は帳簿を開いたまま、もう一度そう言った。
「でも、このままだと次の給金も遅れます」
壁には注文票が何枚も掛かっている。
作業場からは、ろくろの回る音が絶えない。
窯にも火が入り、中庭には焼く前の器がぎっしり並んでいた。
仕事がない工房には、とても見えなかった。
むしろ逆だった。
注文が多すぎるほどある。
それなのに、給金は先月と先々月、二度続けて遅れていた。
「帳簿は確認しました」
産業担当官が言った。
「数字に不正はありません。昨年より売上も利益も増えています」
工房主は腕を組み、苦い顔をしていた。
「だから余計に分からないんですよ。儲かってるはずなのに、給金日になると金がない」
リディアは帳簿をめくった。
利益は出ている。
注文も増えている。
では、その利益はどこにあるのか。
「一番大きな売上は、いつ入金されます?」
会計係が該当する注文を確認した。
「こちらですか?納品したのは先月ですが、入金は来月末です」
「こちらは?」
「今月納品予定で、入金はその二か月後です」
リディアの指が止まった。
「では、まだお金を受け取っていないんですね」
「はい」
「でも、粘土と薪はもう買った」
「はい」
「職人さんの給金も、先に払う」
会計係の顔から表情が消えた。
工房主も、壁の注文票へ視線を向ける。
答えは、それで十分だった。
「注文が増えたからですね」
「……増えたから?」
工房主が聞き返した。
「はい」
リディアは帳簿を閉じた。
「大口のお客様から代金をいただくのは、商品を渡した二か月後。でも材料と給金は、作る時に必要です」
注文が一件増える。
工房は粘土を買う。
薪を買う。
職人が働く。
商品を渡す。
代金が入るのは、二か月先。
さらに注文が増えれば、その分だけ先に出ていく金も増える。
「つまり」
会計係が壁の注文票を見る。
「仕事が増えるほど、先に必要な金も増えていた」
工房主はしばらく黙っていた。
やがて椅子へ深く座り直す。
「売れれば売れるほど苦しくなってたのか」
利益がないわけではない。
まだ届いていないだけだった。
産業担当官がすぐに口を開いた。
「短期の運転資金を貸し付ければ、給金は安定させられます」
正しい案だった。
二か月後には代金が入る。
それまでの金を借りればいい。
だが、リディアは壁の注文票を見た。
去年より注文が増えている。
そして今も増え続けている。
「それだけでは、また必要になります」
担当官もすぐに頷いた。
「注文がさらに増えれば、借入額も増える」
「はい」
借金そのものが悪いのではない。
けれど、売上が増えるたび借金まで増える仕組みにする必要はない。
「注文を受けた時点で、少し代金をいただけませんか?」
工房主が眉を寄せた。
「前払いですか。大口の商会が嫌がりますよ」
「全部ではありません」
リディアは注文票を見る。
「特注品だけです」
「特注?」
「お客様専用の型を作る商品です。注文を取り消されたら、その型は他で使えませんよね」
工房主の表情が少し変わった。
「それはそうです」
「でしたら、特注品は注文時に三割。残りは今までどおり納品後でどうでしょう」
会計係が頭の中で計算したのか、小さく息を漏らした。
「三割あれば、材料代と最初の薪代はほとんど出ます」
工房主はまだ渋い。
「向こうには、条件が悪くなったように見えませんか」
「なら、向こうにも利益を付けます」
リディアは答えた。
「前金を入れていただいた特注品は、窯へ入れる日を先に確保して、納期を保証してください」
工房主が黙る。
隣にいた職人頭の方が、先に理解した。
「繁忙期でも後回しにしないってことですか」
「はい」
注文が増えれば、商会側にも不安がある。
いつ焼いてもらえるのか。
約束した日に届くのか。
三割を先に払う代わりに、自分の商品を焼く場所と日を確保できる。
「それなら」
工房主は顎を撫でた。
「話はできるかもしれない」
「もう一つあります」
リディアは壁に並んだ注文票のうち、保存瓶の注文を数枚外した。
「この五つ、何が違うんですか?」
机に並べる。
職人頭が見る。
「大きさが少しずつ違います」
「用途は?」
「油が二つ。酢が一つ。香草と保存食」
見た目もよく似ている。
すべて蓋付き。
それなのに幅も高さも少しずつ違い、そのたび別の型を用意していた。
「違う大きさでなければ困る理由は?」
職人頭は注文票を読み直した。
「……書いてないですね」
工房主も一枚取った。
「指定されたから、その通りに作ってました」
それは職人として間違っていない。
客がこの寸法を欲しいと言えば、その寸法で作る。
その丁寧さが評判になり、特注品が増えた。
ただ、同じような瓶を少しずつ違う型で作り続ければ、手間も増える。
職人頭が自分から説明した。
「型を替えるだけならまだいいんです。ただ大きさがばらばらだと、窯へ一緒に詰めにくい。納期も違うから、窯に隙間があっても火を入れることがあります」
リディアはそれ以上聞かなかった。
必要なことは分かった。
「では、普通の保存容器は三つにしませんか」
「三つ?」
「大、中、小。寸法に特別な理由がないお客様には、その中から選んでいただく」
工房主が職人頭を見る。
そこからは二人の仕事だった。
どの容量なら需要が多いか。
どの形なら作りやすいか。
蓋をどうするか。
窯へ並べた時に無駄が少なく、倉庫でも積みやすく、荷車に載せても倒れにくい形は何か。
職人頭が紙へ線を引いていく。
「胴をもう少し真っ直ぐにした方が重ねやすい」
「口径は?」
「大と中で蓋を共通にはできない。ただ、中と小なら作業はかなり減らせる」
リディアは口を挟まなかった。
器を作る専門家は彼らだ。
しばらくして、三つの形が紙の上に並んだ。
「これならまとめて焼けます」
職人頭が言った。
「同じ型を何度も使えるし、荷車でも積みやすい。今より割れにくいでしょう」
「価格は下げられます?」
リディアが尋ねる。
工房主は計算する前に頷いた。
「特注よりは。型代も減るし、窯を埋めて焼けるなら薪も少なくて済む」
「では、標準品を選ぶお客様にはまとめ焼き分を値引きしてください」
「特注は?」
「今までどおり作ります。ただし三割前払いで、焼成枠と納期を保証する」
選べるようにする。
安くて早い標準品。
自分専用の形を作れる特注品。
客がどちらを選んでもいい。
工房側だけが得をする条件にはしない。
三日後、最初の商会との話し合いが行われた。
相手は長年この工房を使っている油商だった。
新しい条件を聞いた途端、
「前金ですか」
と顔を曇らせた。
予想どおりだった。
工房主が一瞬リディアを見る。
リディアは何も言わない。
これは工房と商会の契約だ。
主人が自分で説明する。
「特注なら三割。ただ、その代わり注文時に窯の枠を押さえます。納品日は保証します」
「今までだって遅れてませんよね」
「今までは」
工房主は壁の注文票を示した。
「ただ、注文が増えています。このまま全部を今までどおり受け続ければ、いつか待ってもらうことになる」
油商は黙った。
仕事が増えていることは、商人の側も知っている。
「それと、形にこだわらないならこちらがあります」
三つの新しい瓶が机へ置かれた。
試作品だった。
大、中、小。
蓋付きで、並べると形が揃っている。
油商は中型を手に取った。
「これで十分ですね」
「標準品なら前金は要りません。値段も今までより下げられます」
「じゃあ、うちはこれで」
あっさり決まった。
工房主の方が拍子抜けした顔をした。
「寸法、変わりますよ?」
「倉庫の棚に入れば構いませんよ。こっちは油が漏れなきゃいいんです」
その日のうちに、新しい標準品の注文が入った。
次の商会は特注を選んだ。
「祭礼用なので形は変えられない。三割払うから、この日までに欲しい」
その次は標準品。
さらに次は特注。
全員が同じものを選んだわけではない。
だからこそ、仕組みとして成立していた。
工房の都合で特注を追い出したのではない。
特別なものには、特別な作り方と値段を。
そこまで必要でないものには、安く作れる形を。
違いをそのまま価格と契約へ写しただけだった。
数日後には、変化が窯の前にも現れた。
「まだ火を入れるな」
職人頭が若い職人を止める。
「午後に中型があと十二個来る。まとめて焼く」
以前なら、別々の注文として先に焼いていた。
今は待てる。
同じ型。
同じ大きさ。
同じ焼き方。
窯の隙間が埋まっていく。
工房主が横で眺めながら、
「こんなに入るのか」
と呟いた。
職人頭が呆れた顔をした。
「親方が何でも特注で受けるからでしょう」
「お前も作れるって言っただろう」
「作れますよ。効率がいいとは言ってません」
二人のやり取りに、周囲の職人が笑った。
リディアも少しだけ笑う。
腕があった。
だから何でも作れた。
何でも作れたから、何でも受けた。
成功したからこそ起きた問題だった。
数日後、会計係がリディアのところへ走ってきた。
手には現金帳を持っている。
「見てください」
特注品の前金が入っている。
標準品は小売店や小規模商会へ早い条件で売れ始めている。
一方、材料代は以前ほど一度に工房の金庫から出ていかない。
さらに、まとめ焼きが増えたことで薪の使用量も少し落ちていた。
工房主は薪商と相談し、急な追加注文を減らす代わりに定期納入へ切り替え、仕入れ条件まで少し良くしていた。
「次の給金日は?」
リディアが尋ねる。
会計係は笑った。
「もうあります」
「もう?」
「はい。全員分」
まだ給金日まで六日ある。
それなのに、その分の金が既に金庫へ残っている。
工房主が後ろから言った。
「今までは前日になって、足りるかどうか数えてたんですよ」
帳簿の上では、以前から黒字だった。
今度は、本当に金庫の中にもある。
給金の日。
工房主はいつもの机に給金袋を並べた。
二度続けて遅れたせいで、何人かの職人は受け取りに来る時、わずかに身構えていた。
けれど今回は、主人が謝る必要はなかった。
一人ずつ名前を呼び、決められた額を渡していく。
最後の袋がなくなっても、金庫は空にならなかった。
職人頭が中を覗き込み、
「まだ残ってるな」
と笑った。
工房主は嫌そうな顔をする。
「覗くな」
「先月は空だったでしょう」
「うるさい」
笑い声が広がった。
リディアは少し離れた場所から、その様子を見ていた。
特別な祝いではない。
給金日に、給金が出ただけ。
本来なら当たり前の光景だった。
だからこそ、いい。
工房主が彼女の方へ来た。
「企画官殿」
「はい」
「うちは、本当に儲かってたんですね」
リディアは少し笑った。
「最初から黒字でしたよ」
「でも、やっと実感しました」
その気持ちは分かる気がした。
帳簿に書かれた利益より、職人へ約束どおり給金を渡した後にも金が残っている方が、ずっと分かりやすい。
その日の午後、職人頭が三つの標準品用の型を見ながら尋ねた。
「この型、注文が一巡したらどうします?」
工房は広いが、型を無限に置いておけるわけではない。
新しい注文が来れば、古い型は崩して材料を使い直すこともある。
「最近の注文を見る限り、また同じ物が来そうです」
工房主も言った。
「せっかく作ったんだ。しばらく置いてもいいとは思うが」
リディアは三つの型を見る。
標準品を選んだ商会は既に複数ある。
一度買った商品が使いやすければ、追加注文もあり得る。
「八週間だけ残してください」
職人頭が頷く。
「再注文を見るまで?」
「はい。今壊して、来月また作る方が無駄でしょう。八週間使わなければ、その時に処分すればいいと思います」
「それなら邪魔にもならない」
話はすぐに決まった。
三つの型は壁際へ移された。
大。
中。
小。
蓋付きで、重ねやすく、荷車でも扱いやすい。
今の工房にとっては、それだけで十分に残す価値があるものだった。
帰り際、エルハルトが工房へ立ち寄った。
今回の改善について報告を受けるためだった。
会計係から数字を聞き、窯を一度見て、最後に給金記録を確認する。
「借入は」
「していません」
産業担当官が答えた。
「前払い条件と標準品への切り替えで、当面の運転資金は足りています」
「売上は」
「落ちていません」
「職人の給金は」
「本日、全員へ予定どおり支給済みです」
エルハルトはそこでリディアを見る。
「問題は二つだったのか」
「はい」
「金が入るのが遅いことと、特注が増えすぎたこと」
それだけで理解している。
「前金で一つ。規格化でもう一つ」
「はい」
「ならいい」
また短い。
工房主は、もう少し何かあると思ったらしい。
一瞬、エルハルトの顔を見ていた。
だが公爵は既に次の書類へ目を移している。
「この案の作成者は」
産業担当官が答える。
「契約条件の変更はリディア・カルステン企画官です。三規格の形状設計は工房主と職人頭」
「その通りに記録しろ」
リディアはその言葉を聞いて、少しだけ視線を落とした。
もう驚くほどではない。
それでも、好きなやり方だと思う。
誰が何をしたのか。
それだけを正しく残す。
工房の外へ出る頃には、次の窯へ入れる器が運ばれていた。
以前より注文は多い。
以前より多く作っている。
それでも、次の給金を待つ金はもうある。
売れるほど苦しくなっていた工房は、ようやく、売れた分だけ豊かになれる工房へ変わっていた。




