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13/15

空き箱より安い林檎

「採らない方が、まだ金が残ります」


そう言った農家の男の背後では、枝が重そうに垂れ下がっていた。


赤い林檎が、数える気にもならないほど実っている。

足元にもいくつか落ちていたが、腐っているわけではない。

風に揺れて枝同士が擦れれば、まだ新しい実まで落ちてくる。


不作には、とても見えなかった。


「今年は特によく出来ましてね。味も悪くないんです」


男は一つ摘み、袖で軽く拭いてからリディアへ差し出した。


許しを得て齧ると、しっかり甘い。酸味もあり、果肉にも張りがあった。


「美味しいですね」


「でしょう?」


男は少しだけ嬉しそうに笑った。


その笑顔が、すぐに消える。


「でも、皆よく出来たんですよ」


今年はこの農家だけではない。


南部一帯で林檎が豊作だった。


市場へ持ち込まれる量が増え、値段が下がった。

最初は多少安くなった程度だったが、さらに荷が増え、今では人を雇って収穫し、箱へ詰め、荷車で市場まで運べば、売上より費用の方が大きくなる畑まで出ている。


同行していた農務局長が説明した。


「市場に近い農家はまだ採算が残っています。上等品も値を保っています。ただ、ここくらい離れた畑で、小型品まで全て収穫すると厳しい」


農家の男が頷く。


「家族だけで採れる分は採りますよ。高く売れそうなのも。でも人を雇ってまで全部採ったら、その分だけ金が減る」


収穫すればするほど貧しくなる。


それなら木に残す。


判断としては正しかった。


だから余計に、果樹園の景色がおかしく見える。


これだけ食べられるものが実っているのに、誰も採らない。


リディアは食べ終えた芯を農家から借りた籠へ入れた。


「市場を変える案は試されました?」


農務局長が答える。


「既に。王都方面にも出しましたし、西の二都市にも価格を照会しました。ただ、周辺領も果実の出来がいい。遠くへ運べば値段は多少上がりますが、今度は輸送費が増えます」


「なるほど」


そこまで聞いてから、男が不意に笑った。


「一番変なのを見ますか?」


案内されたのは、畑の端にある物置だった。


屋根の下に、丈夫そうな木箱が積んである。


「これです」


「箱?」


「昨日、商人が来たんですよ。この箱いっぱいに林檎を入れて、そのまま売ってくれって」


「買っていただけるなら良かったのでは?」


「箱を返さないって言うんです」


男は一番上の箱を叩いた。


何度も使われ、角には補修の跡がある。それでも板は厚く、来年も十分使えそうだった。


「この林檎を今の値段で箱いっぱい売るでしょう。来年用に同じ箱を買い直すでしょう」


男は肩をすくめた。


「赤字です」


農務局の若い書記が、林檎と箱を交互に見た。


「……中身より、空箱の方が高いんですか」


「安い林檎ならね」


農家の男も、自分で言っていて可笑しいらしい。


けれど笑い話ではなかった。


リディアは箱の縁へ指を置いた。


食べられる。


味もいい。


なのに、箱へ入れた瞬間に箱の方が惜しくなる。


林檎そのものが悪いのではない。


今年の秋、この場所に多すぎる。


「今年、収穫しない予定の量はどれくらいです?」


農家の男が大まかな数字を答える。


農務局長が補足した。


「南部全体ではまだ集計中ですが、同じ判断をする農家は増えています」


リディアはそれ以上、畑で質問を増やさなかった。


必要なことは、もう十分見えた。


午後。


農務局へ戻ると、対策会議には既に三つの案が用意されていた。


公爵領が一定量を買い上げ、公共施設で使う案。


価格の高い遠方市場へ送るため、輸送費を一部支援する案。


収穫そのものを諦める農家へ、人夫代の一部を補助する案。


農務局は何もしていなかったわけではない。


どの案にも意味があった。


買い上げなら、急いで現金を必要とする農家を助けられる。


販売支援なら、まだ価格差が残る地域へ商品を逃がせる。


収穫費補助なら、木に残される林檎を減らせる。


「どれを使うべきだと思う」


会議の上座から、エルハルトが尋ねた。


正式に領政企画官となってから、リディアがこうして彼の領政会議へ入ることも増えた。


資料は渡される。


意見を求められる。


決める権限がどこにあるのかも、最初から分かっている。


以前なら当たり前だと思っていたはずのことが、今では時々、妙にありがたく感じられた。


リディアは三案を見た。


「全部、使えると思います」


農務局長が少し意外そうな顔をした。


「全部ですか」


「はい。困っている農家の条件が違いますから、一つに絞る必要はありません」


買い上げが向く農家もいる。


遠方市場へ出した方がいい上等品もある。


収穫費さえ軽くなれば採算へ戻る畑もある。


三つとも捨てる理由はない。


「ただ」


リディアは資料を一枚戻した。


「これだけでは、今年たくさん出来たこと自体が損失のままです」


農務局長が眉を寄せる。


「と、言いますと?」


「どの案も、今ある林檎を今のうちに生のまま売るための方法ですよね」


「そうですが」


当然だった。


林檎が今、余っている。


だから今の林檎を売る方法を考える。


何もおかしくない。


リディアは午前中に食べた林檎を思い出した。


甘くて、少し酸っぱかった。


今年は味もいい、と農家は言った。


価値のない果物ではない。


秋に。


生のまま。


一斉に売ろうとすると、値段がなくなる。


そこまで考えたところで、以前見た別の帳簿が頭に浮かんだ。


エーレンフェルト領は広い。


北には鉱山があり、冬でも人が働く。


街道の保守も止まらない。


宿には旅人が来る。


生の果物が豊富な季節ばかりではない。


リディアは保存食担当の役人へ顔を向けた。


「一つ伺っても?」


「はい」


「この領地では、冬に干し果実を買っていますか?」


質問された役人は、一瞬だけ黙った。


農務局長も、目の前の林檎資料から顔を上げる。


「買っています」


保存食担当が答えた。


「鉱山や冬季の街道作業向けが中心です。宿からの需要もあります」


「領内産だけで足ります?」


「いいえ。毎年、足りない分は領外から」


若い書記が、そこで初めて意味に気づいたらしい。


「待ってください」


机の上には、秋の林檎の値段がある。


採れば損をするほど安い。


その同じ領地が。


冬には金を払って、別の土地から果物を買っている。


「昨年の冬はいくらでした?」


リディアが尋ねる。


保存食担当は帳簿棚を見る。


「正確な数字は出さないと」


「見せてください」


役人が席を立った。


農務局長はまだ座ったまま、三つの対策案を見ていた。


それから、秋の林檎価格を見る。


最後に、帳簿棚へ向かった部下を見る。


「……そういうことですか」


リディアは首を傾げた。


「まだ分かりません」


「え?」


「干せば必ず得になるとは限りませんから」


加工には人手がいる。


燃料もいる。


量が多すぎれば工房が扱えない。


そもそも今年の林檎が保存食に向いているとも限らない。


そこは職人へ聞かなければならない。


だが、それはこれから確かめればいい。


今必要なのは、答えを全部出すことではなかった。


秋には、箱より安い。


冬には、領外から金を払って買う。


この二つが同時に存在している。


それだけで、見る方向を変える理由には十分だった。


帳簿が運ばれてくる。


リディアは昨年の購入価格を一度見た。


次に、机の上に残っていた今年の林檎価格を見る。


何度も計算する必要はなかった。


差は大きい。


「明日、加工工房へ行きたいです」


農務局長が今度はすぐに頷いた。


「手配します」


「保存食の担当者もお願いします。職人さんに、どの林檎なら使えるのか教えていただきたいので」


「分かりました」


エルハルトが尋ねた。


「今の三案はどうする」


「止める必要はありません。加工で全量を扱えるとはまだ分かりませんから」


「同意する」


それで決まった。


既存の対策は進める。


同時に、別の出口を調べる。


誰かの案を否定しなければ、新しい案を出せないわけではない。


会議が終わり、役人たちが資料を片づけ始める。


若い書記だけが、先ほどの二枚をまだ見比べていた。


秋の林檎価格。


冬の干し果実価格。


やがて、ぽつりと言った。


「朝は、箱の方が高かったのに」


誰も答えなかった。


答える必要がなかった。


机の上の数字だけで十分だった。


採れば損をするほど余っている秋の林檎。


その同じ領地が、数か月後には保存果実を外から買う。


リディアが見つけたのは、まだ解決策ではない。


ただ。


捨てようとしているものと、後で金を払って買うものが、本当に別物なのか。


明日、それを確かめに行く。


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