空き箱より安い林檎
「採らない方が、まだ金が残ります」
そう言った農家の男の背後では、枝が重そうに垂れ下がっていた。
赤い林檎が、数える気にもならないほど実っている。
足元にもいくつか落ちていたが、腐っているわけではない。
風に揺れて枝同士が擦れれば、まだ新しい実まで落ちてくる。
不作には、とても見えなかった。
「今年は特によく出来ましてね。味も悪くないんです」
男は一つ摘み、袖で軽く拭いてからリディアへ差し出した。
許しを得て齧ると、しっかり甘い。酸味もあり、果肉にも張りがあった。
「美味しいですね」
「でしょう?」
男は少しだけ嬉しそうに笑った。
その笑顔が、すぐに消える。
「でも、皆よく出来たんですよ」
今年はこの農家だけではない。
南部一帯で林檎が豊作だった。
市場へ持ち込まれる量が増え、値段が下がった。
最初は多少安くなった程度だったが、さらに荷が増え、今では人を雇って収穫し、箱へ詰め、荷車で市場まで運べば、売上より費用の方が大きくなる畑まで出ている。
同行していた農務局長が説明した。
「市場に近い農家はまだ採算が残っています。上等品も値を保っています。ただ、ここくらい離れた畑で、小型品まで全て収穫すると厳しい」
農家の男が頷く。
「家族だけで採れる分は採りますよ。高く売れそうなのも。でも人を雇ってまで全部採ったら、その分だけ金が減る」
収穫すればするほど貧しくなる。
それなら木に残す。
判断としては正しかった。
だから余計に、果樹園の景色がおかしく見える。
これだけ食べられるものが実っているのに、誰も採らない。
リディアは食べ終えた芯を農家から借りた籠へ入れた。
「市場を変える案は試されました?」
農務局長が答える。
「既に。王都方面にも出しましたし、西の二都市にも価格を照会しました。ただ、周辺領も果実の出来がいい。遠くへ運べば値段は多少上がりますが、今度は輸送費が増えます」
「なるほど」
そこまで聞いてから、男が不意に笑った。
「一番変なのを見ますか?」
案内されたのは、畑の端にある物置だった。
屋根の下に、丈夫そうな木箱が積んである。
「これです」
「箱?」
「昨日、商人が来たんですよ。この箱いっぱいに林檎を入れて、そのまま売ってくれって」
「買っていただけるなら良かったのでは?」
「箱を返さないって言うんです」
男は一番上の箱を叩いた。
何度も使われ、角には補修の跡がある。それでも板は厚く、来年も十分使えそうだった。
「この林檎を今の値段で箱いっぱい売るでしょう。来年用に同じ箱を買い直すでしょう」
男は肩をすくめた。
「赤字です」
農務局の若い書記が、林檎と箱を交互に見た。
「……中身より、空箱の方が高いんですか」
「安い林檎ならね」
農家の男も、自分で言っていて可笑しいらしい。
けれど笑い話ではなかった。
リディアは箱の縁へ指を置いた。
食べられる。
味もいい。
なのに、箱へ入れた瞬間に箱の方が惜しくなる。
林檎そのものが悪いのではない。
今年の秋、この場所に多すぎる。
「今年、収穫しない予定の量はどれくらいです?」
農家の男が大まかな数字を答える。
農務局長が補足した。
「南部全体ではまだ集計中ですが、同じ判断をする農家は増えています」
リディアはそれ以上、畑で質問を増やさなかった。
必要なことは、もう十分見えた。
午後。
農務局へ戻ると、対策会議には既に三つの案が用意されていた。
公爵領が一定量を買い上げ、公共施設で使う案。
価格の高い遠方市場へ送るため、輸送費を一部支援する案。
収穫そのものを諦める農家へ、人夫代の一部を補助する案。
農務局は何もしていなかったわけではない。
どの案にも意味があった。
買い上げなら、急いで現金を必要とする農家を助けられる。
販売支援なら、まだ価格差が残る地域へ商品を逃がせる。
収穫費補助なら、木に残される林檎を減らせる。
「どれを使うべきだと思う」
会議の上座から、エルハルトが尋ねた。
正式に領政企画官となってから、リディアがこうして彼の領政会議へ入ることも増えた。
資料は渡される。
意見を求められる。
決める権限がどこにあるのかも、最初から分かっている。
以前なら当たり前だと思っていたはずのことが、今では時々、妙にありがたく感じられた。
リディアは三案を見た。
「全部、使えると思います」
農務局長が少し意外そうな顔をした。
「全部ですか」
「はい。困っている農家の条件が違いますから、一つに絞る必要はありません」
買い上げが向く農家もいる。
遠方市場へ出した方がいい上等品もある。
収穫費さえ軽くなれば採算へ戻る畑もある。
三つとも捨てる理由はない。
「ただ」
リディアは資料を一枚戻した。
「これだけでは、今年たくさん出来たこと自体が損失のままです」
農務局長が眉を寄せる。
「と、言いますと?」
「どの案も、今ある林檎を今のうちに生のまま売るための方法ですよね」
「そうですが」
当然だった。
林檎が今、余っている。
だから今の林檎を売る方法を考える。
何もおかしくない。
リディアは午前中に食べた林檎を思い出した。
甘くて、少し酸っぱかった。
今年は味もいい、と農家は言った。
価値のない果物ではない。
秋に。
生のまま。
一斉に売ろうとすると、値段がなくなる。
そこまで考えたところで、以前見た別の帳簿が頭に浮かんだ。
エーレンフェルト領は広い。
北には鉱山があり、冬でも人が働く。
街道の保守も止まらない。
宿には旅人が来る。
生の果物が豊富な季節ばかりではない。
リディアは保存食担当の役人へ顔を向けた。
「一つ伺っても?」
「はい」
「この領地では、冬に干し果実を買っていますか?」
質問された役人は、一瞬だけ黙った。
農務局長も、目の前の林檎資料から顔を上げる。
「買っています」
保存食担当が答えた。
「鉱山や冬季の街道作業向けが中心です。宿からの需要もあります」
「領内産だけで足ります?」
「いいえ。毎年、足りない分は領外から」
若い書記が、そこで初めて意味に気づいたらしい。
「待ってください」
机の上には、秋の林檎の値段がある。
採れば損をするほど安い。
その同じ領地が。
冬には金を払って、別の土地から果物を買っている。
「昨年の冬はいくらでした?」
リディアが尋ねる。
保存食担当は帳簿棚を見る。
「正確な数字は出さないと」
「見せてください」
役人が席を立った。
農務局長はまだ座ったまま、三つの対策案を見ていた。
それから、秋の林檎価格を見る。
最後に、帳簿棚へ向かった部下を見る。
「……そういうことですか」
リディアは首を傾げた。
「まだ分かりません」
「え?」
「干せば必ず得になるとは限りませんから」
加工には人手がいる。
燃料もいる。
量が多すぎれば工房が扱えない。
そもそも今年の林檎が保存食に向いているとも限らない。
そこは職人へ聞かなければならない。
だが、それはこれから確かめればいい。
今必要なのは、答えを全部出すことではなかった。
秋には、箱より安い。
冬には、領外から金を払って買う。
この二つが同時に存在している。
それだけで、見る方向を変える理由には十分だった。
帳簿が運ばれてくる。
リディアは昨年の購入価格を一度見た。
次に、机の上に残っていた今年の林檎価格を見る。
何度も計算する必要はなかった。
差は大きい。
「明日、加工工房へ行きたいです」
農務局長が今度はすぐに頷いた。
「手配します」
「保存食の担当者もお願いします。職人さんに、どの林檎なら使えるのか教えていただきたいので」
「分かりました」
エルハルトが尋ねた。
「今の三案はどうする」
「止める必要はありません。加工で全量を扱えるとはまだ分かりませんから」
「同意する」
それで決まった。
既存の対策は進める。
同時に、別の出口を調べる。
誰かの案を否定しなければ、新しい案を出せないわけではない。
会議が終わり、役人たちが資料を片づけ始める。
若い書記だけが、先ほどの二枚をまだ見比べていた。
秋の林檎価格。
冬の干し果実価格。
やがて、ぽつりと言った。
「朝は、箱の方が高かったのに」
誰も答えなかった。
答える必要がなかった。
机の上の数字だけで十分だった。
採れば損をするほど余っている秋の林檎。
その同じ領地が、数か月後には保存果実を外から買う。
リディアが見つけたのは、まだ解決策ではない。
ただ。
捨てようとしているものと、後で金を払って買うものが、本当に別物なのか。
明日、それを確かめに行く。




