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12/15

立案 リディア・カルステン

一章はここまで。

気に入っていただけたら評価・ブックマークよろしくお願いします。

「やはり、家族から先に移っています」


エルハルトと初めて仕事をしてから三日後。


リディアは再び、エーレンフェルト公爵家の王都執務邸にいた。


机の上にあるのは、鉱石の資料ではない。


鉱山町から出ていった家族について調べた記録だった。


調査を担当した役人が地図を指す。


「行き先の大半は、こちらです」


鉱山町から離れた場所にある、精錬所の町。


掘り出した鉱石を金属へ変える工房が集まっている。


「理由は?」


エルハルトが聞く。


「大きいのは二つです」


役人が答えた。


「まず治療です。鉱山町では八か月前に常勤の治癒師が辞めました。現在は週に二度、隣町から来ています」


「精錬町は?」


「毎日診てもらえます」


一つ。


「もう一つは学校です。鉱山町では年長の子供を教えられる教師が足りません。精錬町にはいます」


二つ。


役人は少し迷ってから付け加えた。


「それに、精錬町の方が家族の働き口も多い。鉱夫本人の給金は鉱山町の方が高いのですが、家族全体で見ると向こうの方が暮らしやすいようです」


リディアは頷いた。


見つけた三つの変化。


子供が減った。


パンが減った。


空き家が増えた。


それらが示していたものは、やはり同じだった。


鉱山町から、暮らす人が減っている。


まだ鉱夫本人は残っている。


仕事があるからだ。


けれど家族は先に出ている。


「退職希望者は?」


エルハルトが聞いた。


「今年に入って十四名です。うち五名は、精錬町の仕事へ移る予定です」


「理由は」


「全員、家族が既に精錬町へ移っています」


部屋が静かになった。


昨日までは、どうすれば鉱石を多く運べるかを考えていた。


道を広げる。


船を使う。


倉庫を増やす。


どれも正しい。


だが、鉱石を掘る人間がいなくなれば、その三案を実行しても運ぶものが減る。


エルハルトがリディアを見る。


「どうする」


リディアは少し考えた。


「家族へ、鉱山町へ戻れとは言わない方がよいと思います」


「理由は?」


「戻りたくない理由があるから出ていったのでしょう」


治療。


学校。


家族の仕事。


命令や補助金だけで戻しても、理由が残っていればまた出ていく。


「では?」


「出ていく理由を減らします」


リディアは治癒師の資料を取った。


「常勤の治癒師一人を探し続けるのではなく、三人ほどで交代できませんか」


医療担当の役人が考える。


「一人を一年間拘束するよりは契約しやすいでしょう。日を分ければ、ほぼ毎日誰かを置けます」


「お願いします」


次は学校。


「新しい学校を建てる必要はありません。足りないのは年長の子供を教えられる方ですよね?」


「はい」


「でしたら、その教師だけを増やしてください」


教育担当者が頷く。


「それなら早い」


「すでに家族が移ってしまった鉱夫については?」


道路担当者が聞いた。


リディアは地図を見る。


「休みの日に家族へ会いに行くための馬車を出せませんか」


「人を乗せる馬車を?」


「はい。まずは週に一度で構いません」


家族を今すぐ鉱山町へ戻すのではない。


鉱夫にも、すぐ仕事を辞めて家族のもとへ移らなくて済む時間を作る。


その間に、鉱山町を暮らせる場所へ戻していく。


エルハルトが尋ねる。


「いつ効果が分かる」


「退職希望者については早いと思います」


「どの程度」


「二週間あれば、少なくとも辞める意思が変わったかは確認できます」


「費用は?」


三人の担当者が順に答えた。


新しい病院を建てるわけではない。


学校を建て直すわけでもない。


新しい道路を一本作るわけでもない。


エルハルトは最後まで聞いた。


「やれ」


決定は短かった。


「二週間試す。効果がなければ見直す」


「承知しました」


人が動き始める。


リディアは、机に残っていた三枚の輸送案を見た。


道。


船。


倉庫。


一つも捨てられていない。


ただ、その前にやることが見つかった。


エルハルトが言う。


「鉱夫が残れば、次はこの三つだ」


「はい」


「残らなければ?」


「運ぶ量自体が減ります」


「なら今は決めない」


リディアは頷いた。


昨日までなら、道路か船か倉庫かを選ぶ会議だった。


今はまだ選ばない。


順番を変えただけだ。


十九日後。


エーレンフェルト公爵家の王都会議場には、多くの人が集まっていた。


公爵領の役人だけではない。


鉱石や金属を扱う商人。


周辺領地の交易担当者。


カルステン侯爵家。


ヴァインベルク家。


これから鉱山から出る金属の量が変われば、周辺の交易にも影響する。


その説明と契約調整のための会議だった。


リディアが自分の席へ着く。


机の上には、一冊の資料が置かれていた。


表紙をめくった。


そこで手が止まった。


『北部鉱山及び輸送再編案』


その下。


立案 リディア・カルステン


検討 鉱務担当・道路担当・河川担当・生活基盤担当


決裁 エルハルト・エーレンフェルト


リディアはしばらく動かなかった。


「誤字か」


隣から声がした。


顔を上げる。


エルハルトが立っている。


「いいえ」


「数字か」


「違います」


「では何だ」


リディアはもう一度、最初の一行を見る。


立案 リディア・カルステン。


自分の名前だった。


「……わたくしの名前が」


「君が作った案だ」


当たり前のように返された。


「ですが、採用されたのは閣下です」


「だから決裁欄には私の名前がある」


エルハルトは一段下を指した。


決裁 エルハルト・エーレンフェルト。


「何かおかしいか」


「いいえ」


何もおかしくなかった。


それが少し不思議だった。


カルステン家では、自分が案を作った。


父が決めた。


公表された時には、フェリクスの名前になった。


ここでは違う。


考えた者の名前。


調べた者たちの仕事。


最後に決めた者の名前。


全部残っている。


「始めるぞ」


「はい」


リディアは資料を閉じなかった。


自分の名前が見えるまま、会議が始まった。


最初に報告されたのは鉱夫の数だった。


「退職を申し出ていた十四名のうち、十一名が申し出を取り下げました」


会議場で何人かが顔を上げる。


「理由は?」


エルハルトが聞く。


「治癒師の交代勤務が始まったこと。学校の教師が増えること。そして週一度の精錬町への馬車です」


まだ家族が大勢戻ってきたわけではない。


町が一気に豊かになったわけでもない。


それでも、


ここで働き続けられるかもしれない。


そう思う人間が増えた。


「採掘量は?」


「落ち込みが止まりました」


鉱山担当者が答える。


「このまま人員が維持できれば、当初予定していた増産にも戻せます」


ようやく。


最初の問題へ戻ってきた。


鉱石を、どう多く運ぶか。


道路担当者が立つ。


「当初の全面拡幅は必要ありません。混雑する二か所だけを広げれば当面は足ります」


河川担当者が続く。


「増産分は船へ回せます。道路だけへ集中させるより安く運べます」


倉庫担当者も答える。


「出発時間を分ければ、現在の中継倉庫もまだ使えます」


三つの案。


どれか一つを選ぶのではない。


必要な部分だけ使う。


人を残す。


道路の詰まる場所だけ直す。


増えた鉱石は船へ回す。


荷車の時間を分ける。


第四の案になった。


難しいことをしているように見えても、やっていることは単純だった。


足りないところだけ足す。


無駄なところには金を使わない。


「では、この内容で進める」


エルハルトが言った。


そこで河川担当者が手を挙げた。


「一つだけ問題があります」


地図が広げられる。


川沿いに二つの倉庫がある。


「生産が予定どおり戻った場合、半年後にはこの二つだけでは足りません」


今は足りている。


しかし、鉱夫が残る。


鉱石が増える。


船で運ぶ量も増える。


そうなれば、船へ載せる前の鉱石を置く場所が足りなくなる。


「第三の倉庫が必要です」


担当者が言った。


別の役人が資料を探す。


「あそこは契約終了では?」


「その予定でした」


「今から借り直せるか」


「難しいでしょう」


倉庫担当者が答える。


「川沿いの倉庫は人気があります。すでに別の商会から借りたいという話が――」


「あります」


リディアが言った。


視線が集まった。


「何が?」


「第三倉庫です」


倉庫担当者が止まる。


「ですが」


慌てて契約綴りを開く。


数枚めくる。


さらに戻る。


「……残っています」


声が変わった。


「契約が一か月、延長されている」


エルハルトが言う。


「私が残した」


「いつです?」


日付を確認する。


「十九日前です」


河川担当者がリディアを見る。


「十九日前?」


「はい」


「その時はまだ、鉱夫が辞める理由すら分かっていなかったでしょう」


「分かっていませんでした」


「人を残せるかどうかも」


「分かっていませんでした」


「それなのに、半年後に倉庫が足りなくなることを?」


「半年後とまでは分かっていませんでした」


リディアは正直に答えた。


だから、必要になる確率は六割だった。


「では、なぜ残したのです?」


もう意味を伏せる必要はない。


現実が追いついた。


リディアは地図へ手を置く。


「鉱夫が減っている可能性に気づいた時、目の前には三つの輸送案がありました」


道を広げる。


船を使う。


倉庫を増やす。


「もし鉱夫が減り続ければ、どれも急いで実行する必要はありません」


運ぶ鉱石が減るからだ。


「でも、鉱夫を残すことに成功したら?」


河川担当者の表情が変わった。


「元の問題へ戻る」


「はい」


リディアは頷く。


「鉱石をもっと運ぶ必要があります」


なら、三つの案は再び必要になる。


道路工事は後からでも始められる。


出発時間も後から変えられる。


船も契約できる。


「でも第三倉庫だけは、あの日手放せば別の商会へ貸される予定でした」


失えば、後から戻せない。


一方。


残す費用は一か月分だけ。


「だから、そこだけ残していただきました」


河川担当者が、十九日前の契約と今日の資料を見比べる。


「まだ問題の原因すら分からない時に」


「はい」


「問題を解決した後のことを考えた?」


リディアは少し考えた。


「解決できた場合のことも、です」


できなければ一か月分を失う。


できれば選択肢が残る。


それだけだった。


「必要になる確率は、あの時六割とお伝えしました」


エルハルトが頷く。


「覚えている」


「外れれば一か月分の賃料だけでした」


「それも聞いた」


「ですので残していただきました」


倉庫担当者が小さく息を吐く。


「今、第三倉庫を手放していたら?」


河川担当者へ尋ねる。


「半年後までに別の場所を作る必要があります」


「費用は?」


答えを聞いて、倉庫担当者の顔がさらに変わった。


一か月分の賃料とは比べものにならない。


何より、今から場所を探す必要がある。


しかしその必要はなくなった。


既にある。


十九日前から。


「長期契約へ切り替えます」


倉庫担当者が言った。


エルハルトが尋ねる。


「必要か」


「はい」


今度は即答だった。


「この計画を進めるなら、手放す理由がありません」


「ならやれ」


「承知しました」


会議が再び動き始める。


リディアは第三倉庫の印を見た。


銀鹿亭でも同じだった。


周囲が問題を知った時には、必要なものがもうそこにある。


自分にとっては、安いうちに残しただけ。


けれど今日、その意味を説明する必要はもうなかった。


倉庫が存在していること自体が答えだった。


会議の終盤。


ゲオルクが発言した。


「一つよろしいか」


エルハルトがそちらを見る。


「どうぞ」


「娘を高く評価していただいていることには、父として感謝する」


リディアは父を見る。


「ただ、この仕事について一つ申し上げておきたい」


ゲオルクは資料の表紙を見る。


「リディアは長年、カルステン侯爵家で領政を学び、実務経験を積んだ人間です」


事実だった。


十五歳頃から資料を見てきた。


十八歳頃から本格的に仕事をした。


二十歳を過ぎた頃には、重要な案件の大半が一度自分の机を通っていた。


「今回の働きも、カルステン家で培った経験があってこそのものです」


エルハルトはすぐに否定しなかった。


「そうだろうな」


ゲオルクの表情が僅かに緩む。


「彼女がどこで経験を積んだかは知っている」


それから資料を持ち上げた。


「だが、この案を作ったのは彼女だ」


父の顔が止まった。


「経験した場所と、仕事をした人間は別だ」


資料の最初の行。


立案 リディア・カルステン。


次の行。


決裁 エルハルト・エーレンフェルト。


「採用したのは私だ」


エルハルトが続ける。


「だから採用責任は私にある」


余計なことは言わなかった。


カルステン家のやり方を批判もしない。


ただ、


誰が考えたか。


誰が決めたか。


をそのまま口にした。


リディアは資料へ視線を落とした。


自分の名前は消えなかった。


会議終了後。


人が少しずつ席を立つ。


「姉上」


フェリクスが来た。


手には同じ資料がある。


開かれているのは最初の頁だった。


「これ」


「うん」


「立案って」


自分の姉の名前を指す。


「今までのも」


フェリクスはそこで少し言葉を止めた。


「本当は、こう書くべきだったんだな」


リディアは弟を見る。


物流改革。


倉庫再編。


商会の日程調整。


自分が作って、弟の名前で出されたもの。


以前の自分なら、


家の仕事だから。


と答えたと思う。


今は違う。


「そうね」


リディアは言った。


「わたくしが作ったものなら、立案者にはわたくしの名前があるべきだったと思うわ」


フェリクスは目を伏せた。


「ごめん」


短かった。


リディアも、


「いいのよ」


とは言わなかった。


謝罪されたことと、過去の記録が正しくなることは同じではない。


ただ。


「あなたが作ったものには、あなたの名前を残せばいいのよ」


フェリクスが顔を上げる。


「姉上」


「誰の仕事かを正しく書くことは、誰かのものを奪うことではないから」


しばらくして、弟は頷いた。


「……うん」


フェリクスが去ったあと。


今度はコンラートが近づいてきた。


以前より少し遠い位置で止まる。


「リディア」


「はい」


「今日の案」


彼は資料を見る。


「君が作ったんだな」


「皆さんから専門的な意見をいただきました」


「でも、あの三つを繋いだのは君なんだろう」


「はい」


今回は否定しなかった。


コンラートは黙った。


七年間。


自分の婚約者だった人。


好きな菓子も知っていた。


夜会でどんな色の服を好むかも知っていた。


けれど。


彼女が何をしていたのかは知らなかった。


「君が」


コンラートは言った。


「こんな仕事をしていたとは知らなかった」


リディアは彼を見る。


もう、怒る必要もなかった。


「ええ」


それから静かに答えた。


「ご存じありませんでしたね」


コンラートはそれ以上何も言わなかった。


その日の最後。


リディアはエルハルトの執務室へ呼ばれた。


机の上には、一冊の契約書がある。


「読め」


「これは?」


「雇用契約だ」


リディアは座った。


頁を開く。


職名。


領政企画官。


給金。


十分だった。


以前の自分なら高いと言ったかもしれない。


今は先へ進む。


担当する仕事。


見ることのできる資料。


直接質問できる相手。


自分で使ってよい予算の範囲。


自分で決めてよい範囲。


最終決裁者。


守秘義務。


成果物の扱い。


一つずつ書かれている。


さらに。


責任範囲。


リディアの指が止まった。


見せてもらえなかった情報について、知っていたことを前提とした責任は負わない。


自分の権限内で行った判断については、自分が説明する。


最終決裁者が採用した結果について、採用そのものの最終責任は決裁者が負う。


リディアは顔を上げた。


「……責任範囲まで書かれているのですね」


エルハルトが怪訝そうにする。


「書かずに何を決める」


「仕事を、でしょうか」


「そうだ」


本当に当然だと思っているらしい。


リディアはもう一度契約書を見る。


「一つ、確認してもよろしいですか?」


「何だ」


「わたくしが作った仕事には」


少しだけ息を吸う。


「わたくしの名前が残りますか?」


エルハルトは一瞬だけ黙った。


質問の意味が分からなかったようだった。


「他に誰の名前を書く」


リディアは目を伏せた。


少し、笑ってしまった。


「そうですね」


「何がおかしい」


「いいえ」


「なら最後まで読め」


「はい」


続きを読む。


銀鹿亭との仕事についても、開始日には余裕が設けられている。


「銀鹿亭との契約があります」


「ああ」


「すぐには辞められません」


「だから開始日は十日後にした」


「ベルタさんと相談しても?」


「当然だ」


それも書いてある。


今いる場所を、次の雇い主の都合だけで捨てさせない。


最後の頁。


署名欄。


リディアはそこへ、


リディア・カルステン


と書いた。


翌朝。


銀鹿亭でベルタに契約書を見せた。


ベルタは最初に給金を見た。


「行きな」


「まだ何も言っていません」


「これだけ出せるところと張り合えって?」


「給金だけでは決めません」


「知ってるよ」


ベルタは次に仕事内容を読む。


それから、


「こっちの方があんたに合ってる」


と言った。


「銀鹿亭の仕事も好きです」


「そりゃ嬉しいね」


「本当です」


「じゃあ客として来な」


リディアは笑った。


「それなら、何度でも」


十日後。


王都を出る馬車の中に、リディアはいた。


荷物はそれほど多くない。


服。


本。


仕事道具。


エナが持たせてくれた菓子。


そして鞄の中に二つの紙がある。


一つは、エーレンフェルト公爵家との雇用契約。


そこには、


自分の職名。


自分の給金。


自分の権限。


自分の責任。


が書かれている。


もう一つは、川沿いの第三倉庫の契約書。


十九日前。


まだ何に使うか決まっていなかった小さな倉庫。


今はもう、北部の物流計画に必要な場所になっている。


馬車が王都を離れていく。


カルステン侯爵家の仕事は、もうしていない。


弟の名前で案を書くこともない。


父に言われたから働くこともない。


次の仕事では、最初から書かれる。


立案 リディア・カルステン。


リディアは鞄の上へ手を置いた。


今度の仕事は、自分の名前で始まる。


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