公爵閣下は噂で人を雇わない
「公爵家から?」
銀鹿亭の受付で、リディアは封筒を見た。
濃紺の封蝋には、エーレンフェルト公爵家の紋章が押されている。
手紙を届けに来た使者は、朝の忙しい時間を避けていた。
ベルタへ先に用件を告げ、リディアの仕事が一段落するまで食堂の端で待っていたらしい。
「リディア・カルステン様へ、直接お渡しするよう申しつかっております」
「ありがとうございます」
封を切る。
文章は短かった。
エーレンフェルト公爵エルハルトが、仕事について一度話したい。
明日の午後。
王都にある公爵家の執務邸。
都合が悪ければ別の日を指定して構わない。
さらに、一日の相談料まで書かれていた。
リディアは最後の一行をもう一度読む。
「何だって?」
ベルタが聞いた。
「公爵閣下が、わたくしと仕事のお話をしたいそうです」
「公爵様が?」
「はい」
「何でまた」
「そこまでは」
リディアにも分からない。
エーレンフェルト公爵家は王国有数の大貴族である。
広い領地を持ち、東部の主要街道にも大きな影響力がある。
銀鹿亭の宿務補佐へ、直接仕事を頼むような立場ではない。
ベルタは手紙を受け取り、相談料のところを見る。
「行ってきな」
「よろしいのですか?」
「公爵様から仕事が来たのに、うちの帳簿があるから断れとは言えないよ」
「銀鹿亭の仕事もあります」
「午後なら回る」
ベルタは手紙を返した。
「ただし、向こうでいきなり働くことが決まっても、今日で辞めますはなし」
「もちろんです」
「本当だね?」
「契約がありますから」
「そこまで言うなら安心だ」
翌日。
リディアは指定された時刻の十分前に、エーレンフェルト公爵家の王都執務邸へ入った。
石造りの大きな建物だった。
豪華ではある。
だが、貴族の社交用邸宅というより、本当に仕事をする場所に見えた。
書類を抱えた役人が行き交っている。
庭には装飾用の馬車より、荷物や人を運ぶ実用的な馬車の方が多い。
受付で名前を告げる。
五分ほど待ったあと、一室へ通された。
中には三人いた。
机の正面に座っている男を見れば、誰が公爵なのかはすぐ分かった。
短い鉄灰色の髪。
深い琥珀色の目。
濃い色の上着。
左手には公爵家の印章指輪。
背が高い。
座っていても、立てばかなり大きいことが分かる。
エルハルト・エーレンフェルト。
三十二歳。
夜会で遠くから見たことはある。
直接話すのは初めてだった。
「リディア・カルステンです」
一礼する。
「エルハルト・エーレンフェルトだ。座ってくれ」
「失礼いたします」
席へ着く。
机の端に、一冊の報告書があった。
見覚えがある。
カルステン侯爵家の不正流通事件について、監察局がまとめた最終報告書だった。
リディアはそれを見てから、公爵へ視線を戻す。
「事件についてもご存じなのですね」
「ああ」
「でしたら――」
「犯罪への共謀なし。事前認識なし。不正品の中身を確認する権限なし」
先に言われた。
リディアは瞬いた。
エルハルトの隣にいた側近が、少し困ったように口を挟む。
「閣下。ただ、社交界では未だにカルステン家の一件について色々と――」
エルハルトはそちらを見た。
「噂が証拠になるなら、捜査官はいらない」
側近が口を閉じた。
それで話は終わった。
大丈夫だ、と慰められたわけではない。
君を信じている、と言われたわけでもない。
正式な捜査で関与なしと確定した。
だから、関与していないものとして扱う。
ただそれだけらしい。
リディアは少しだけ姿勢を正した。
「それで、わたくしをお呼びになった理由は?」
「これだ」
別の書類が出された。
銀鹿亭の収支。
正確な帳簿そのものではない。
銀鹿亭と取引した商人や飼料商への聞き取りを、公爵家側でまとめたものだった。
満室なのに利益が残らなかった宿が、料金と馬の扱いを変えて利益を伸ばしたこと。
東橋が止まる前に、
倉庫。
燕麦。
夜番。
朝食。
荷車。
を押さえていたこと。
それらの日付まで調べられている。
次にカルステン家の物流改革。
監察局が実務担当を整理した部分。
リディア・カルステン。
その名前が何度も並んでいる。
「ずいぶん調べられたのですね」
「人を仕事へ入れる前には調べる」
「まだ、わたくしを雇うとは決まっていませんが」
「だから話している」
もっともだった。
エルハルトは書類を閉じる。
「侯爵家の看板がなくても結果を出せることは分かった」
父とコンラートが言った言葉を思い出す。
家の外では通用しない。
商人が話を聞いたのは、侯爵令嬢だったから。
それに反論するために働いたわけではない。
それでも、少しだけ気分が良かった。
「今日は一つ見てほしいものがある」
大きな地図が机へ広げられた。
山。
町。
川。
街道。
複雑ではない。
「北部に鉱山がある」
エルハルトが地図の上側を指す。
「ここで掘った鉱石を、この町まで運んで精錬する」
少し南東へ指が動く。
「今後、精錬所を増やす予定だ。それに合わせて鉱石の輸送量も増やしたい」
目的は分かった。
「現在、三つの案がある」
最初の担当者が話す。
「道を広げます」
鉱山から主要街道へ出る道には、荷車同士がすれ違いにくい場所がある。
そこを広げれば、荷車を増やしやすい。
一年中使える。
ただし工事費は高い。
二人目。
「川を使います」
途中まで荷車で運び、そこから船へ積み替える。
一度に大量に運べる。
道路を広げるより安い。
ただし冬は使いにくい。
三人目。
「倉庫を増やします」
今ある中継倉庫を大きくし、荷車が同じ時間へ集中しないよう出発をずらす。
最も早く始められる。
増やせる量は三案の中では少ない。
分かりやすい。
道。
船。
倉庫。
三人とも、自分の担当する分野できちんと考えている。
リディアは三枚の案を読んだ。
「どれも良い案だと思います」
道路担当者が少し意外そうにした。
「では、どれを?」
「その前に、一つ確認してもよろしいですか?」
「何だ」
エルハルトが聞く。
リディアは地図の鉱山町を見る。
「この町の学校へ通う子供は、増えていますか?」
三人の担当者が止まった。
エルハルトも一度だけリディアを見る。
「学校?」
側近が聞いた。
「はい」
「鉱石輸送の話ですが」
「承知しています」
エルハルトは側近へ顔を向ける。
「記録はあるか」
「町ごとの年次報告なら」
「持ってこい」
すぐに人が出ていった。
待っている間、リディアはもう一つ尋ねる。
「パン屋さんが仕入れる小麦粉の量は分かりますか?」
今度は道路担当者が、はっきり怪訝な顔をした。
「パンですか?」
「はい」
「鉱山町の?」
「そうです」
エルハルトは質問しなかった。
「それも」
側近が頷く。
リディアは三つ目を尋ねた。
「それから、空き家は増えていますか?」
今度は誰も何も言わなかった。
ただ側近が、
「確認します」
と答えた。
半刻ほどして、資料が揃った。
最初に学校。
今年。
去年。
一昨年。
「減っています」
側近が言った。
「三年前と比べれば、かなり」
次に小麦粉。
鉱山町のパン屋が仕入れている量。
これも減っている。
「不作では?」
道路担当者が聞く。
「仕入れ量です。値段ではありません」
最後に空き家。
こちらは増えていた。
子供が減っている。
パンも減っている。
空き家は増えている。
リディアは三枚を並べた。
それだけで十分だった。
「鉱石をもっと運ぶ方法を決める前に、別の問題を調べた方がよいと思います」
エルハルトが聞く。
「何だ」
リディアは答えた。
「鉱石を掘る人が、いなくなります」
道路担当者が資料から顔を上げた。
「鉱夫の数は、それほど減っていません」
「今は、ですよね」
「はい」
「でしたら、家族から先に町を出ているのだと思います」
側近が学校の紙を見る。
「子供が減ったから?」
「それだけなら、学校を変えただけかもしれません」
リディアは小麦粉を指す。
「でも、パンも減っています」
次に空き家。
「家まで空いている」
三つとも同じ方向だった。
「鉱夫本人は、まだ仕事があります。だから鉱山町に残っている」
リディアは地図を見る。
「でも、家族だけ先に別の町へ移っている可能性が高いです」
「なぜ家族が出ていく?」
鉱山担当者が聞く。
「そこは、まだ分かりません」
リディアははっきり答えた。
「資料がありませんので」
給金かもしれない。
学校かもしれない。
医者かもしれない。
家族の働き口かもしれない。
理由までは見えていない。
「でも、家族と離れたまま働く生活を、全員が何年も続けるとは考えにくいです」
エルハルトが地図から目を上げる。
「このままなら?」
「半年以内に、鉱石の量にもはっきり影響が出る可能性があります」
「確率は」
「七割ほど」
「根拠は」
「子供だけではなく、食べる量と住む家まで一緒に減っています」
エルハルトは学校、小麦粉、空き家の三枚を順に見る。
「なるほど」
短かった。
リディアは少しだけ意外に思った。
普通なら、
どうしてそこまで分かる。
本当に?
という話がもう少し続く。
エルハルトはもう次へ進んでいる。
「家族がどこへ移ったか調べろ」
側近へ指示する。
「はい」
「理由もだ。学校、医療、仕事、家賃。この四つから先に見ろ」
リディアが僅かに目を見開いた。
説明していないところまで、もう追いついている。
「鉱夫本人の人数だけではなく、家族の住所も確認しろ」
「承知しました」
道路担当者が尋ねる。
「では、道路拡張は中止でしょうか」
「中止ではない」
エルハルトは答えた。
「今始めないだけだ」
河川担当者を見る。
「船の案も残せ」
次に倉庫担当者。
「そちらも」
「はい」
「三つとも、鉱石が増えるなら使える案だ」
そこで一度リディアを見る。
「まず、本当に増えるかを確認する」
誰の案も否定されなかった。
専門家たちの仕事は間違っていない。
ただ、解く順番が変わった。
エルハルトは短い指示を続ける。
「高額な工事契約は三日待て」
「はい」
「今の輸送と鉱山の維持は止めるな」
「承知しました」
「明日の夕方までに、家族が移った先だけでも出せ」
人が動き始める。
リディアは、その速さを見ていた。
自分なら、もう少し調べたいと思う。
七割。
残り三割がある。
家族の移動ではない説明も、完全には消えていない。
それでもエルハルトは、
確定していないこと。
確定していること。
今止めても戻せるもの。
止めれば困るもの。
をすぐに分けた。
「何か?」
視線に気づかれた。
「決めるのがお早いのですね」
「遅い方がいいのか」
「そういう意味ではありません」
「ならいい」
短い。
少し怖い。
しかし話は驚くほど早かった。
会議が終わりかけたところで、倉庫担当者が一枚の契約書を出した。
「閣下。輸送拡張を三日保留するのであれば、こちらも確認を」
地図の川沿いを指す。
小さな倉庫が一つある。
「第三倉庫です。ほとんど使っておりません。今月で契約を終了する予定でした」
エルハルトが紙を見る。
「必要か」
「現在の輸送量なら不要です」
「解約を」
そこまで聞いて、リディアは地図を見る。
川。
鉱山町。
鉱石を運ぶ道。
まだ、家族が出ていく理由すら分かっていない。
それでも。
「少しお待ちください」
エルハルトがこちらを見る。
「何だ」
「あの倉庫、一か月だけ残していただけますか」
倉庫担当者が驚いた。
「第三倉庫を?」
「はい」
「使う予定があるのですか?」
リディアは少し考える。
「まだありません」
男の顔に、さらに疑問が浮かぶ。
エルハルトは別のことを聞いた。
「必要になる確率は」
「六割ほどです」
「外れた時は?」
「一か月分の賃料が無駄になります」
「高いか」
倉庫担当者が答える。
「公爵領全体から見れば小額です」
「今解約して、来月また必要になったら戻せるか」
「難しいですね」
「なぜ」
「川沿いなので、商会から借りたいという話が来ています。手放せばすぐ埋まると思います」
「一か月残して、不要なら来月切れる?」
「はい」
エルハルトは契約書を担当者へ戻した。
「なら残せ」
終わった。
リディアは思わず聞いた。
「理由は、お聞きにならないのですか?」
「聞いた」
「まだ何に使うかも決まっていません」
「六割で必要になる」
エルハルトは指を一本立てた。
「外れた損失は一か月分だけ」
二本目。
「今切れば取り戻しにくい」
三本目。
「来月なら切れる」
手を下ろす。
「残す方がいい」
リディアは黙った。
自分と同じものを見ているわけではない。
おそらく、この倉庫が何に必要になるかも分かっていない。
それでも判断できる。
必要性が確定してから動けば遅い。
外れた時の損が小さい。
今なら選択肢を残せる。
その三つだけで十分らしい。
「他にあるか」
「何がでしょう」
「今のうちに残しておくものだ」
リディアは地図をもう一度見る。
少し考えた。
「今はありません」
「分かった」
エルハルトが書類を閉じる。
「今日の相談料は、手紙に書いた額を払う」
「まだ問題を解決したわけではありませんが」
「輸送方法を決める前に、別の問題を調べる必要があると分かった」
「ですが」
「仕事をしただろう」
止められた。
リディアは何も言えなくなる。
銀鹿亭でベルタに、
自分の値段くらい覚えな。
と言われたことを思い出した。
「……では、いただきます」
「そうしろ」
立ち上がる。
退出する前に、リディアは一つだけ尋ねた。
「公爵閣下」
「何だ」
「もし、わたくしの七割が外れていた場合は?」
「外れたと分かった時点で戻す」
「わたくしの判断が間違っていたことになります」
「ああ」
あっさり認められた。
「それで処分を?」
エルハルトが僅かに眉を寄せる。
「嘘をついたのか」
「いいえ」
「知っている情報を隠したか」
「いいえ」
「なら、当時の材料からなぜそう考えたかを聞く」
それから間違いだった理由を確認する。
必要なら次へ反映する。
「結果だけ見て罰する理由がない」
本当に、当然のことを言っている顔だった。
リディアは少しだけ視線を落とした。
十九箱の輸送記録。
知らなかった中身。
見られなかった資料。
それでも最初に自分の名前が追われた日を思い出す。
目の前の男は、その逆だった。
何を知っていたか。
何を決めたか。
どこまで権限があったか。
そこから先を分けて考える。
「分かりました」
「また連絡する」
「はい」
公爵家の執務邸を出た。
銀鹿亭まで歩く。
頭の中には、三枚の数字が残っていた。
子供が減った。
パンが減った。
空き家が増えた。
まだ理由は分からない。
だから次は、それを調べる。
そして。
川沿いの第三倉庫。
何に使うかはまだ決まっていない。
ただ、一か月だけ残った。
リディアは少しだけ笑った。
話が早い人だと思った。
でも。
もう一度仕事をするなら、こういう相手がいい。
そう思った。




