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芸能事務所の若社長ですが、所属タレントが不祥事を起こしすぎて胃が限界です  作者: 雪だるま


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42 スピンオフ回 東雲ルート

ありえるかもしれない、数年後の未来。


 田中レイは、相変わらず社長だった。


 スターライト・ユニバースは、相変わらず混沌としていた。ピュア・クラウンはそれぞれ別方向で大成功し、瑠璃は「美しすぎる人外系女優」として映画とCMで引っ張りだこ、ひまりは変な曲と変なドラマをなぜか全部ヒットさせる謎の国民的存在、エミリアは気の強い実力派女優として月城麗奈と相変わらず裏で火花を散らしていた。黒瀬真莉亜は泥沼離婚劇を乗り越えて看板女優として復活し、神社俳優はついに神社イベント公式アンバサダーになり、匂わせ歌手は匂わせを逆手に取った香水CMに出ていた。


 芸能界は恐ろしい。


 不祥事すら、数年経つと仕事になることがある。


 そしてレイは、そのたびに泣きながら叫んでいた。


「のだぁああああ!!芸能界、何でも商売にしすぎなのだぁああああ!!」


 だが、そんなレイにも安息の場所ができていた。


 それが、東雲綾華との生活だった。


 結婚発表時、世間はかなり驚いた。


『レイ社長、東雲家の令嬢と結婚!?』

『芸能界のポンコツ若社長、財界令嬢と結婚』

『スターライト社長、ついに落ち着くのか』

『無理では?』

『東雲さんなら制御できそう』

『むしろ東雲さんが一番強い説』


 社員たちは納得していた。


 レイは東雲綾華にだけ異様に弱い。


 それは昔からだった。


 東雲が「休んでください」と言えば休む。


 東雲が「無理をなさらないで」と言えば一瞬だけ無理をやめる。


 東雲が「それは少し違うと思います」と静かに言えば、レイはしゅんとなる。


 ピュア・クラウンの三人も結婚報告を聞いて、それぞれ違う反応をした。


 瑠璃は穏やかに微笑んで、「おめでとうございます。東雲様なら、社長も安心ですね」と言った。


 ひまりは「わぁ、レイさん結婚ですかぁ。お祝いに人参ケーキ焼きますねぇ」と言った。


 エミリアは「東雲さん、勇者ね」と言った。


 その評価はかなり正しかった。


 そして現在。


 数年後。


 レイと東雲綾華は、避暑地に来ていた。


 仕事ではない。


 完全な旅行である。


 少なくともレイはそう主張していた。


 ただし、バッグには事務所資料、タブレット、契約書確認用のメモ、ピュア・クラウン再集結ライブの衣装案、黒瀬真莉亜の次回主演作企画書、神社俳優の公式イベント予定表が入っている。


 東雲はそれを見て、静かに言った。


「レイさん」


「のだ?」


「これは旅行ですか?」


「旅行なのだっ♡」


「では、その資料は?」


「心のお守りなのだっ♡」


「お守りではありません」


「のだぁ……」


 車は山道を走っていた。


 窓の外には緑。


 遠くには湖。


 空気は涼しい。


 都内の湿気と騒音から離れた、美しい場所だった。


 東雲は白いブラウスに淡い色のカーディガンを羽織っていた。髪は緩くまとめられていて、上品で落ち着いている。旅行先でも派手になりすぎず、しかしどこにいても目を引く。


 レイは運転席の隣、後部座席ではなく助手席に座っていた。運転は運転手がしている。レイが運転すると、景色より東雲を見て危ないからである。


「ハニー♡」


「はい」


「見てみてなのだっ!」


 レイは窓の外を指差した。


 湖の向こう側、緩やかな丘の上に、白い洋館のような建物が見える。周囲には木々。遠くからでも分かるほど、かなり立派な建物だった。


「あそこに別荘買わないのだぁ?」


 東雲は視線を向けた。


 静かに見る。


 そして、レイを見る。


「今、初めて見た建物ですよね?」


「そうなのだっ♡」


「誰の所有物かも分かりませんよね?」


「調べるのだぁ♡」


「買う前提ですか?」


「ハニーが気に入ったら買うのだぁ♡」


「まだ気に入るかどうか以前に、売りに出ているかも分かりません」


「売りに出させるのだぁ♡」


「それは少し品がありません」


「のだぁ……」


 レイは一瞬でしゅんとなった。


 東雲の「品がありません」は効く。


 非常に効く。


 会社の幹部が十人で止めても止まらないレイの暴走が、東雲の一言で停止する。


 運転手は前を向いたまま、心の中で感謝した。


 東雲は少し笑った。


「でも、綺麗な場所ですね」


「のだっ?」


「景色はとても素敵です」


「のだっ♡」


 レイはすぐ復活した。


「じゃあ買うのだぁ!」


「ですから、すぐ買う話にしないでください」


「のだぁ……」


「まずは宿泊先へ行きましょう」


「はいなのだぁ」


 数十分後、二人は湖畔の高級ホテルに到着した。


 古い洋館を改装したホテルで、落ち着いた雰囲気がある。無駄に派手ではなく、家具や照明も上品だった。東雲はこういう場所を好んだ。レイも当然、東雲が好むものを好むことにしていた。


「のだぁ……」


 ロビーに入った瞬間、レイは感心した。


「静かなのだぁ……」


「良い雰囲気ですね」


「ハニーに似合うのだぁ」


「ホテルがですか?」


「上品で美しいのだぁ」


「ありがとうございます」


「つまり吾輩にも似合うのだぁ?」


 東雲は少し考えた。


「努力すれば」


「のだぁ!?」


「冗談です」


「ハニーの冗談は静かに刺さるのだぁ……」


 部屋は湖を見下ろせるスイートだった。


 窓の外には、夕方の光を受けた湖面が広がっている。木々の影、遠くの丘、白い雲。都会とはまるで違う時間が流れていた。


 東雲は窓際に立った。


「綺麗ですね」


「ハニーの方が綺麗なのだぁ」


「またそういうことを」


「本当なのだぁ」


「景色を見てください」


「景色越しのハニーを見てるのだぁ」


「それでは景色が脇役ですね」


「ハニーのいる世界では全て脇役なのだぁ」


 東雲は少し頬を赤くした。


「レイさんは、時々とても困ることを言いますね」


「困るのだぁ?」


「照れます」


「のだっ♡」


 レイは胸を押さえた。


「ハニーが照れると吾輩の心臓が湖に沈むのだぁ……」


「沈まないでください」


 その後、二人はホテルの庭を散歩した。


 道沿いには小さな花が咲いている。湖からの風が涼しい。東雲はゆっくり歩き、レイは少し浮かれた足取りで隣を歩く。


 そして、また丘の上の白い別荘が見えた。


「ハニー」


「はい」


「あそこ、やっぱり良いのだぁ」


「まだ気にしていたんですか」


「気になるのだぁ」


 レイは真剣だった。


「東京の家も良いのだぁ。でもハニーはこういう静かな場所が似合うのだぁ」


「そうでしょうか」


「そうなのだぁ。吾輩が叫んでも森が吸収してくれるのだぁ」


「叫ばない生活を目指してください」


「のだぁ……」


「それに、別荘を買っても、忙しくて来られないのでは?」


「来るのだぁ!」


「本当に?」


「月一で来るのだぁ!」


「先月も“月一で休む”とおっしゃって、休めませんでした」


「のだぁ……」


「一昨年も“今年は週末を大事にする”とおっしゃって、謝罪会見に行かれました」


「のだぁ……」


「その前は“神社俳優問題は解決した”とおっしゃって、その週に神社イベントの打ち合わせがありました」


「記憶力が良すぎるのだぁ……」


 東雲は静かに微笑んだ。


「妻ですから」


 レイは停止した。


「のだ……」


「どうされました?」


「ハニーが妻って言うと、まだ破壊力が高いのだぁ……」


「もう結婚して数年になりますよ」


「数年経っても嬉しいのだぁ」


 東雲は少しだけ表情を柔らかくした。


「それは、私も嬉しいです」


「のだぁ……」


 レイは散歩道で倒れかけた。


 東雲が袖を引く。


「倒れないでください」


「ハニーの言葉が甘すぎるのだぁ……」


「普通の会話です」


「吾輩には普通じゃないのだぁ」


 二人は湖畔のベンチに座った。


 夕方の空がゆっくり色を変えていく。


 レイはまた白い別荘の方を見た。


「のだぁ……」


「本当に気に入ったんですね」


「気に入ったのだぁ」


「なぜですか?」


 レイは少し考えた。


 いつものように「ハニーに似合うから」と言いかけたが、それだけでは足りない気がした。


「静かだからなのだぁ」


「静か?」


「そうなのだぁ」


 レイは湖を見た。


「吾輩の毎日はうるさいのだぁ。社長室では誰かが炎上し、誰かが熱愛し、誰かが匂わせ、誰かが神社に行き、エミリアが麗奈と裏で火花を散らし、ひまりが変な仕事を当て、瑠璃が美しすぎてスポンサーが増えるのだぁ」


「最後は良いことでは?」


「良いことでも忙しいのだぁ」


「そうですね」


「でも、ここは静かなのだぁ」


 レイは珍しく穏やかに言った。


「ハニーと二人で来て、何もしない場所が欲しいのだぁ」


 東雲は少し驚いた。


 レイが「何もしない場所」を欲しがるのは珍しい。


 いつも何かを買う、作る、売る、発表する、派手にする、騒ぐ。それがレイだった。


「何もしないための別荘ですか」


「そうなのだぁ」


「本当に何もしませんか?」


「少しだけ仕事するかもしれないのだぁ」


「正直ですね」


「でも基本はハニーとお茶を飲むのだぁ」


「それは素敵ですね」


「湖を見るのだぁ」


「はい」


「ハニーの髪を風が揺らすのを見るのだぁ」


「それは景色ではなく私を見ていますね」


「ハニーも景色の一部なのだぁ」


「都合の良い言い方です」


 東雲は笑った。


 その笑顔を見て、レイはさらに決意を固めた。


「買うのだぁ」


「まだ言いますか」


「買いたいのだぁ」


「では、まず調べてからです」


「のだっ?」


「所有者、管理状態、維持費、立地、災害リスク、周辺環境、将来の利用頻度。それらを確認してから考えましょう」


 レイは目を輝かせた。


「ハニーも考えてくれるのだぁ!?」


「買うとは言っていません」


「でも考えてくれるのだぁ!」


「検討はします」


「のだっ♡」


 レイは完全に嬉しそうだった。


「検討なのだぁ!実質購入への第一歩なのだぁ!」


「違います」


「違うのだぁ?」


「違います」


「でも嬉しいのだぁ」


「それは良かったです」


 その夜、ホテルのレストランで夕食を取った。


 地元の野菜、魚、肉料理、上品なデザート。レイは東雲の前なので、いつもより丁寧に食べている。昔よりは上手くなった。結婚して数年、東雲の所作を見続けた効果である。


「レイさん」


「のだ?」


「食べ方、以前より綺麗になりましたね」


「のだっ!?」


 レイは感動した。


「ハニーに褒められたのだぁ……」


「本当に綺麗になりました」


「のだぁ……」


「昔は少し急いで召し上がっていました」


「芸能界は食べられる時に食べる世界なのだぁ」


「今はゆっくり食べられます」


「ハニーと食べるご飯は急いだらもったいないのだぁ」


 東雲は少しだけ頬を染めた。


「またそういうことを」


「本当なのだぁ」


 食後、部屋に戻ると、レイはすぐスマホを取り出した。


 東雲が見た。


「レイさん」


「のだ?」


「お仕事ですか?」


「違うのだぁ」


「本当ですか」


「別荘情報なのだぁ!」


「早すぎます」


 レイはすでに不動産関係者へ連絡しようとしていた。


「ちょっと聞くだけなのだぁ」


「今は夜です」


「のだぁ……」


「明日にしましょう」


「でも気になるのだぁ」


「明日です」


「はいなのだぁ……」


 レイはスマホを置いた。


 東雲は少し笑った。


「良い子です」


 レイは停止した。


「のだ……」


「どうしました?」


「ハニーに良い子って言われると、吾輩の年齢が一瞬消えるのだぁ……」


「では言い方を改めます」


「改めなくていいのだぁ!」


 レイはソファに座った。


 東雲も隣に座る。


 窓の外には暗くなった湖が見える。


 部屋の照明は柔らかく、静かだった。


「ハニー」


「はい」


「ここに別荘があったら、毎年来るのだぁ」


「毎年ですか」


「そうなのだぁ」


「仕事があっても?」


「仕事を減らすのだぁ」


「本当に?」


「頑張るのだぁ」


「頑張るだけではなく、仕組みを作ってください」


「のだぁ……」


「会社はレイさん一人で回すものではありません」


「ハニーは正論なのだぁ」


「心配しているだけです」


「のだぁ……」


 レイは少しだけ大人しくなった。


「吾輩、昔よりは休んでるのだぁ」


「そうですね」


「ハニーのおかげなのだぁ」


「私だけではありません。皆さんも支えてくださっています」


「瑠璃もひまりもエミリアも、なんだかんだ働いてくれるのだぁ」


「はい」


「黒瀬殿も復活したのだぁ」


「はい」


「神社俳優も公式になったのだぁ」


「それは不思議ですね」


「本当に不思議なのだぁ」


 二人で少し笑った。


 レイはふと、東雲の手に触れた。


 結婚して数年経っても、レイはこういう時に少し緊張する。


 東雲は逃げなかった。


 むしろ、そっと握り返した。


「のだ……」


「どうしました?」


「手を握り返されたのだぁ」


「夫婦ですから」


「のだぁ……」


「まだ慣れませんか?」


「慣れないのだぁ。慣れたくないのだぁ」


「なぜですか?」


「毎回嬉しい方がいいのだぁ」


 東雲はしばらく黙った。


 そして、静かに微笑んだ。


「では、私も毎回丁寧に握ります」


 レイは胸を押さえた。


「ハニー……」


「はい」


「明日、やっぱり別荘見に行くのだぁ」


「見学だけですよ」


「のだっ♡」


「購入は即決しません」


「のだぁ……」


「約束です」


「約束するのだぁ」


 翌日。


 本当に見学することになった。


 レイの行動力は異常だった。朝には所有者情報と不動産管理会社との連絡がつき、昼には内覧の段取りがついていた。東雲は呆れたが、ここまで来ると少し興味もあった。


 丘の上の白い別荘は、近くで見るとさらに美しかった。


 古いが手入れされている。


 大きな窓。


 広いテラス。


 湖を見下ろす庭。


 暖炉のあるリビング。


 書斎。


 客室。


 小さな温室。


 東雲は温室を見て、少しだけ目を輝かせた。


「ここは素敵ですね」


 レイはその瞬間を見逃さなかった。


「買うのだぁ!」


「まだです」


「ハニーが素敵って言ったのだぁ!」


「言いましたが、まだです」


「のだぁ……」


 リビングからは湖が見えた。


 東雲は窓際に立った。


 レイはその横に立つ。


「ここでお茶を飲んだら良さそうですね」


「のだっ♡」


「本を読むのも良さそうです」


「のだっ♡」


「あなたが仕事を持ち込まなければ、ですが」


「のだぁ……」


「少しなら許します」


「のだっ!?」


「完全に禁止すると、逆に落ち着かないでしょう」


「ハニーは吾輩を理解しているのだぁ……」


「妻ですから」


「のだぁ……」


 その言葉に、レイはまた黙った。


 別荘の中を一通り見終えた後、二人は庭に出た。


 風が涼しい。


 湖が輝いている。


 東雲は少しだけ考えていた。


「レイさん」


「のだ?」


「条件をつけてもよろしいですか」


「買うのだぁ!?」


「まだ検討です」


「のだぁ……」


「もしここを購入するなら、月に一度は本当に休むこと」


「のだ」


「仕事を持ち込む場合は午前中だけ」


「のだ」


「夜は連絡を見ないこと」


「のだぁ……」


「緊急時以外です」


「のだっ」


「そして、ここでは大声で叫ばないこと」


「のだ?」


「森に吸収させると言っていましたが、近隣の方もいらっしゃいます」


「のだぁ……」


「守れますか?」


 レイは真剣に考えた。


 そして。


「守るのだぁ」


「本当に?」


「ハニーとここに来たいから守るのだぁ」


 東雲は少しだけ微笑んだ。


「では、前向きに検討しましょう」


 レイは一瞬停止した。


「のだ?」


「前向きに、です」


「のだっ?」


「購入に向けて、きちんと調べましょう」


「のだぁあああああ!!」


 レイは叫びかけた。


 だが途中で止めた。


「……のだっ♡」


 小さく言った。


 東雲は目を丸くした。


「今、我慢しましたね」


「叫ばない条件なのだぁ」


「偉いです」


「のだぁ……」


 レイは嬉しそうに笑った。


「ハニーに褒められたのだぁ」


「はい」


 そして、レイはそっと東雲の手を取った。


「ここ、買えたら」


「はい」


「毎年、来るのだぁ」


「はい」


「喧嘩しても来るのだぁ」


「喧嘩する前提ですか」


「夫婦だからたぶんするのだぁ」


「そうかもしれませんね」


「でも来るのだぁ」


「はい」


「仕事で疲れても来るのだぁ」


「はい」


「吾輩がまたポンコツになっても」


「それは普段からでは?」


「のだぁ!?」


 東雲は笑った。


 レイも笑った。


「それでも来るのだぁ」


 東雲は手を握り返した。


「では、そうしましょう」


 その夜、ホテルへ戻ったレイは、関係者へ連絡したくてうずうずしていた。


 だが東雲との約束がある。


 夜は連絡を見ない。


 緊急時以外。


 レイはスマホを見た。


 通知が溜まっている。


 新マネージャー。


 ピュア・クラウン衣装案。


 黒瀬真莉亜の台本修正。


 神社俳優イベント追加依頼。


 ひまりの謎曲企画。


 エミリアと麗奈の合同番宣。


 全部見たい。


 全部怖い。


 だが。


 東雲が隣にいる。


 レイはスマホを伏せた。


「見ないのだぁ」


 東雲が微笑む。


「ありがとうございます」


「ハニーとの約束なのだぁ」


「はい」


「別荘のためなのだぁ」


「それもありますね」


「ハニーとの時間のためなのだぁ」


 東雲は少しだけ頬を赤くした。


「それなら、なお嬉しいです」


 レイはソファに倒れた。


「のだぁ……」


「倒れないでください」


「甘すぎるのだぁ……」


「まだ何もしていません」


「言葉が甘いのだぁ……」


 東雲は隣に座り、そっとレイの髪を撫でた。


 レイは完全に固まった。


「のだ……?」


「お疲れ様です」


「のだ……」


「今日はよく我慢しました」


「のだ……」


「大声も、少しだけで済みましたね」


「のだ……」


「偉かったです」


 レイは目を閉じた。


「ハニー」


「はい」


「吾輩、別荘より今の方が欲しいのだぁ」


「今?」


「ハニーが隣にいて、髪を撫でてくれて、仕事の通知を見ない時間なのだぁ」


 東雲の手が一瞬止まった。


 そして、さらに優しく撫でた。


「では、その時間を増やしましょう」


「のだぁ……」


 レイは静かに頷いた。


 ありえるかもしれない数年後の未来。


 東雲ルートのレイは、相変わらず騒がしく、相変わらず金で何でも解決しようとし、相変わらず「買うのだぁ!」と叫びそうになる。


 だが、東雲綾華が隣にいる時だけ、少しだけ静かになる。


 少しだけ丁寧になる。


 少しだけ、大人になる。


 そして翌朝。


 湖を見ながら朝食を食べたレイは、また窓の外の丘を見て、目を輝かせた。


「ハニー♡」


「はい」


「あの別荘、本当に買いたいのだぁ」


「はい。きちんと調べましょう」


「のだっ♡」


「ただし、約束を守ること」


「守るのだぁ!」


「大声を出さないこと」


「のだっ♡」


「仕事は持ち込みすぎないこと」


「のだっ♡」


「神社俳優の通知で叫ばないこと」


「のだっ……」


 少しだけ詰まった。


 東雲は笑った。


「そこが一番難しいのですね」


「神社は強敵なのだぁ……」


「では、練習しましょう」


「のだ?」


 東雲はスマホを見せた。


 新マネージャーから転送された通知。


『神社俳優、新しい神社イベントの打診あり』


 レイは一瞬、叫びそうになった。


 しかし。


 東雲を見る。


 湖を見る。


 深呼吸する。


「……のだ」


 小さく言った。


「落ち着いて、後で確認するのだぁ」


 東雲は嬉しそうに微笑んだ。


「とても偉いです」


「のだぁ……」


 レイは胸を押さえた。


「吾輩、成長してるのだぁ……」


「はい」


「ハニーのおかげなのだぁ」


「二人で、少しずつですね」


 レイは湖を見た。


 丘の上の白い別荘。


 隣には東雲。


 スマホは伏せてある。


 仕事は後で見る。


 今は朝食。


 今は休み。


 今は夫婦の時間。


「のだぁ……」


 レイは小さく笑った。


「買うのだぁ」


「まだ調査してからです」


「のだぁ」


「でも」


「のだ?」


 東雲は湖の方を見ながら、静かに言った。


「私も、少し楽しみです」


 レイは今度こそ叫びそうになった。


 だが。


 叫ばなかった。


 代わりに、東雲の手をそっと握った。


「のだっ♡」


 それだけで、十分だった。

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