41 スピンオフ回 瑠璃ルート
ありえるかもしれない、数年後の未来。
田中レイは、結婚していた。
相手は白鳥瑠璃。
かつてピュア・クラウンの絶対的センターとして、清純派の本尊、スポンサー様の希望、違約金から最も遠い存在、歩く安心材料などと社長レイから散々変な称号をつけられていた、あの白鳥瑠璃である。
今では女優としても確かな地位を築いていた。演技派というより、「美しすぎる幽霊」「人外の姫」「喋らないほど強い女優」「画面に映るだけで物語の説得力を作る存在」という独自のジャンルを確立し、CMも映画も安定していた。私生活は相変わらず徹底的に隠されており、結婚発表の時でさえ世間は「瑠璃が結婚するの!?」より先に「相手があのレイ社長!?」で混乱した。
もっとも、ファンからは意外と祝福された。
なぜならレイが昔から瑠璃を大事にしすぎていたからである。
『あの社長なら一生大騒ぎしながら守りそう』
『瑠璃ちゃん、社長の世話できるの?』
『逆では?』
『瑠璃ちゃんが社長を飼うんだろ』
『清純派の守護霊とポンコツ社長、変に納得』
そんな声が多かった。
そして実際の結婚生活は。
だいたい世間の予想通りだった。
「のだぁあああああ!!」
ある夜。
田中家の広い自宅に、レイの絶叫が響いた。
「ハニー!!」
廊下をうろうろするレイ。
部屋着姿である。
髪は少し乱れている。
手にはタオル。
顔は完全に不満げ。
「お風呂長すぎなのだぁああああ!!」
ばんばん、と浴室の扉の前で足踏みする。
「いい加減にしてなのだぁあああ!!」
浴室の中から、静かな声が返ってきた。
「もう少しです」
「そのもう少しを三回聞いたのだぁ!!」
「では、もう少しのもう少しです」
「上品に誤魔化すななのだぁあああ!!」
白鳥瑠璃。
現在、田中瑠璃。
彼女は風呂が長かった。
非常に長かった。
現役時代から美容管理は徹底していたが、結婚後もそれは変わらない。入浴、スキンケア、髪の手入れ、保湿、ストレッチ、全部が丁寧だった。適当なレイとは真逆である。
レイは浴室前でぐるぐる回っていた。
「吾輩もお風呂に入りたいのだぁ!」
「先にお入りになればよかったでしょう」
「ハニーが先に入るって言ったのだぁ!」
「そうですね」
「そして一時間経ったのだぁ!」
「まだ四十五分です」
「四十五分は長いのだぁ!」
「短い方です」
「のだぁああああ!!」
レイは壁にもたれた。
「結婚前は知らなかったのだぁ……ハニーがお風呂でこんなに長期政権を築く女だったとは……」
浴室の中から、少し笑う気配がした。
「長期政権ですか」
「そうなのだぁ!風呂場独裁政権なのだぁ!」
「大げさです」
「大げさじゃないのだぁ!」
レイはタオルを握りしめた。
「吾輩、もう寒いのだぁ!」
「暖房をつけてください」
「そういう問題じゃないのだぁ!吾輩は今、風呂待ち夫なのだぁ!」
「可愛らしいですね」
「のだっ?」
レイは一瞬で黙った。
「今、可愛いって言ったのだぁ?」
「言いました」
「のだぁ……」
浴室前の怒りが一瞬で溶けた。
レイは頬を押さえた。
「ハニーの可愛いは効くのだぁ……」
「では、もう少し待てますね」
「待てな……待てるのだぁ……」
完全に負けていた。
結婚後、レイは瑠璃に非常に弱かった。
昔から弱かったが、結婚してからはさらに弱くなった。
瑠璃が少し微笑む。
レイは溶ける。
瑠璃が「お願いします」と言う。
レイは従う。
瑠璃が「それはよくありません」と静かに言う。
レイは反省する。
エミリアはそれを見て、「社長、結婚して飼いならされたわね」と言った。ひまりは「仲良しですねぇ」と笑った。黒瀬真莉亜は「良い奥さんじゃない」と言った。東雲綾華は、レイの結婚報告を聞いた時、少し寂しそうにしながらも「お幸せに」と綺麗に笑った。
そして現在。
レイは結婚生活で新たな現実を知っていた。
清純派女優は、家でも清純派とは限らない。
いや、瑠璃は家でも上品だった。
言葉遣いも綺麗。
所作も綺麗。
部屋着も綺麗。
寝起きまで綺麗。
だが、生活の主導権はかなり握る。
しかも静かに。
強引ではない。
怒鳴らない。
命令しない。
ただ、いつの間にかレイが従っている。
「のだぁ……」
レイは浴室前に座り込んだ。
「吾輩、社長なのだぁ……」
「はい」
中から瑠璃の声。
「家では夫でもあります」
「のだぁ……」
「ですから、少し待ってください」
「のだぁ……」
レイは待った。
五分。
十分。
十五分。
「のだぁあああああ!!」
限界だった。
「ハニー!!まだなのだぁ!?」
「今、髪を乾かす準備をしています」
「まだ乾かす工程が残ってるのだぁ!?」
「はい」
「風呂は終わったのに風呂が終わってないのだぁあああ!!」
すると、浴室の扉が少しだけ開いた。
湯気がふわりと漏れる。
レイはぴたりと止まった。
「のだ?」
瑠璃が顔を出した。
髪は濡れている。
頬はほんのり赤い。
肌は湯上がりでつややか。
いつもの人外じみた美しさに、生活感が少しだけ混ざっている。
レイは完全に固まった。
「のだ……」
瑠璃が静かに言う。
「騒がしいです」
「のだ……」
「近所迷惑になります」
「のだ……」
「それに、そんなに叫ぶと喉を痛めます」
「のだ……」
「分かりましたか?」
「分かったのだ……」
レイは一瞬で大人しくなった。
瑠璃は少しだけ微笑む。
「良い子ですね」
「のだぁ……」
レイは両手で顔を押さえた。
「その言い方はずるいのだぁ……」
「では、もう少し待ってください」
「待つのだぁ……」
扉が閉まる。
レイは廊下に崩れ落ちた。
「のだぁ……吾輩の妻、美しすぎるのだぁ……」
十分後。
ようやく瑠璃が浴室から出てきた。
長い髪は丁寧に乾かされ、部屋着の上から薄いカーディガンを羽織っている。結婚して数年経っても、レイはいまだにこの姿に慣れない。家の中に白鳥瑠璃がいる。しかも自分の妻である。冷静に考えると意味が分からない。
レイは立ち上がった。
「やっとなのだぁ!」
「お待たせしました」
「待たされたのだぁ!」
「すみません」
瑠璃は素直に謝った。
レイは強気に出ようとした。
「もっと短くするのだぁ!」
「難しいです」
「そこは譲らないのだぁ!?」
「はい」
即答だった。
瑠璃は静かに言う。
「美容は仕事の一部です」
「のだぁ……」
「それに、あなたも私の見た目をよく褒めるでしょう」
「褒めるのだぁ!」
「では、維持のために時間が必要です」
「のだぁ……」
正論だった。
あまりにも正論だった。
レイは何も言えない。
「でも長いのだぁ……」
「では、次からはあなたが先に入ってください」
「一緒に入る案は」
「却下です」
「まだ全部言ってないのだぁ!」
「分かります」
「のだぁああああ!!」
瑠璃は涼しい顔だった。
結婚しても、そのあたりはきっちりしていた。距離感は近くなったが、何でも許すわけではない。むしろ、レイが調子に乗りすぎないように静かに制御している。
レイは風呂に入った。
そして十分で出てきた。
瑠璃が驚いた。
「早いですね」
「男の風呂なのだぁ!」
「もう少し丁寧に洗った方がよろしいのでは」
「洗ったのだぁ!」
「髪は?」
「洗ったのだぁ!」
「乾かします」
「自分でできるのだぁ!」
「適当にするでしょう」
「のだぁ……」
図星だった。
瑠璃はレイを椅子に座らせ、ドライヤーを持った。
レイは少し緊張した。
「のだ?」
「動かないでください」
「のだ」
ぶおー、とドライヤーの音がする。
瑠璃の指がレイの髪に触れる。
丁寧に乾かしていく。
レイは完全に大人しくなった。
「のだぁ……」
「熱くありませんか」
「大丈夫なのだぁ……」
「眠そうですね」
「気持ちいいのだぁ……」
「もう少しです」
「さっきの吾輩の気持ちが少し分かったのだぁ?」
「分かりません」
「即答なのだぁ……」
髪を乾かし終えると、瑠璃はタオルを畳んだ。
「終わりました」
「ありがとうなのだぁ」
「どういたしまして」
レイは少しだけ照れた。
「ハニー」
「はい」
「結婚してから吾輩、だいぶ人間らしい生活をしてるのだぁ」
「以前は?」
「社長室で寝て、変な曲を書いて、深夜に謝罪文を直して、朝にピロローンしてたのだぁ」
「それは良くありません」
「今は風呂待ちで叫ぶくらいなのだぁ」
「それも良くありません」
「のだぁ……」
瑠璃は小さく笑った。
「でも、以前よりは健康的です」
「ハニーのおかげなのだぁ」
「そうだと嬉しいです」
レイはその言葉に弱かった。
「のだぁ……」
リビングに移動すると、テーブルには温かいお茶が用意されていた。瑠璃が風呂上がりに飲むためのものだったが、レイの分もある。
レイは座った。
「のだぁ」
「どうしました?」
「落ち着くのだぁ」
「良かったです」
壁には、二人の結婚式の写真が飾られている。
レイは白い礼服で泣いている。
瑠璃は白無垢に近い上品な衣装で静かに微笑んでいる。
その横には、ピュア・クラウン三人とレイが写った写真もある。ひまりはふわふわ笑っていて、エミリアは「泣きすぎ」と言いたげな顔をしていた。
レイは写真を見てしみじみ言った。
「のだぁ……結婚式でも吾輩、泣いたのだぁ」
「ずっと泣いていらっしゃいました」
「ハニーが綺麗すぎたのだぁ」
「ありがとうございます」
「誓いの言葉で三回詰まったのだぁ」
「はい」
「神父殿に心配されたのだぁ」
「はい」
「エミリアに笑われたのだぁ」
「はい」
「ひまりにハンカチを渡されたのだぁ」
「はい」
「瑠璃は微笑んでたのだぁ」
「嬉しかったので」
レイは固まった。
「のだ?」
「とても嬉しかったので、笑っていました」
「のだぁ……」
レイはお茶を飲んで、顔を赤くした。
「いまだに破壊力が高いのだぁ……」
その時、スマホが鳴った。
レイのスマホである。
レイは画面を見た。
新マネージャーからだった。
『社長、明日の会議資料について確認です』
レイは画面を伏せた。
「見ないのだぁ」
瑠璃が言う。
「緊急では?」
「明日の会議なのだぁ。今は夫婦時間なのだぁ」
「それは嬉しいですが、必要なら確認してください」
「のだぁ……」
レイはしぶしぶ確認した。
そしてすぐ顔色を変えた。
「のだ?」
瑠璃が聞く。
「どうしました?」
「ピュア・クラウン再集結ライブの衣装案なのだぁ」
「そうですか」
「また白とピンクなのだぁ」
「社長の趣味ですね」
「違うのだぁ!清純派なのだぁ!」
「そうですね」
瑠璃は微笑んだ。
「でも、エミリアさんは嫌がるでしょう」
「嫌がるのだぁ……」
「ひまりさんは喜びそうです」
「喜ぶのだぁ……」
「私は仕事なら着ます」
「ハニーは偉いのだぁ!」
レイは勢いよく言った。
瑠璃は少し考えた。
「ただ、もう少し年齢に合った上品な衣装の方が良いかもしれません」
「のだ?」
「私たちも以前より大人になりましたので」
「のだぁ……」
レイは真面目に考えた。
「大人の清純派なのだぁ?」
「はい」
「大人の清純派売りですがなにかなのだぁ?」
「その題名は少し」
「却下なのだぁ?」
「はい」
「のだぁ……」
瑠璃の意見は強かった。
レイはすぐメモした。
『大人清純派衣装、瑠璃案。白ピンク過剰禁止』
そのメモを見て、瑠璃は少し笑った。
「私の名前を入れるんですね」
「ハニー案なら皆が聞くのだぁ」
「エミリアさんは聞かないと思います」
「エミリアは文句を言いながら着るのだぁ」
「確かに」
二人はしばらく穏やかに話していた。
結婚生活は、華やかなことばかりではない。
仕事の話。
家の話。
お茶。
風呂。
明日の予定。
健康。
食事。
そんな小さなことばかりである。
だが、レイにとってはそれが新鮮だった。
芸能界はいつも騒がしい。
成功も炎上も大きい。
けれど瑠璃との生活は、静かに積み重なる。
そして時々、風呂が長すぎてレイが叫ぶ。
「ハニー」
「はい」
「明日は吾輩が先にお風呂入るのだぁ」
「どうぞ」
「でもハニーが入ってる間に吾輩が寂しくなるのだぁ」
「では、先に入ってからリビングで待っていてください」
「風呂待ち夫から風呂上がり待ち夫になるのだぁ」
「そうですね」
「役職が増えたのだぁ」
「良かったですね」
「良いのだぁ?」
瑠璃は少しだけ笑った。
「良いと思います」
レイは満足そうだった。
その夜。
寝室。
瑠璃は本を読んでいた。
レイは隣でスマホを見ていたが、何度も瑠璃を見ている。
瑠璃はページをめくりながら言った。
「レイさん」
「のだっ?」
「何度も見ています」
「見てないのだぁ」
「見ています」
「妻が美人すぎるのが悪いのだぁ」
「そういうことにしておきます」
レイは布団に潜った。
「ハニー」
「はい」
「今日も一緒に寝るのだぁ」
「夫婦ですから」
「のだぁ……」
その当たり前の言葉が、まだ嬉しい。
レイは少しだけ瑠璃に近づいた。
「近いです」
「夫婦なのだぁ」
「それはそうですが、寝にくいです」
「のだぁ……」
少し離れる。
瑠璃が本を閉じた。
「でも」
「のだ?」
「手をつなぐくらいなら」
レイは停止した。
「のだ?」
瑠璃は布団の中で、そっと手を差し出した。
レイはその手を見て、目を丸くした。
「ハニー……」
「寝るまでです」
「のだぁ……」
レイはそっと手を握った。
瑠璃の手は温かかった。
お風呂上がりだからかもしれない。
それとも、ただそう感じるだけかもしれない。
レイは静かになった。
「急に静かですね」
「幸せを噛み締めてるのだぁ」
「そうですか」
「のだぁ……」
しばらくして、瑠璃が小さく言った。
「今日は少し騒がしかったですが」
「のだぁ」
「楽しかったです」
「風呂待ちで叫んでたのに?」
「はい」
「怒ってないのだぁ?」
「少し呆れました」
「のだぁ……」
「でも、あなたらしいです」
レイは少しだけ笑った。
「吾輩らしいのだぁ?」
「はい」
「じゃあ明日も叫ぶのだぁ」
「それは控えてください」
「のだぁ……」
瑠璃は目を閉じた。
レイも手をつないだまま目を閉じる。
数年後の未来。
瑠璃ルートのレイは、相変わらずポンコツだった。
社長として騒ぎ、家でも騒ぎ、風呂が長いと叫び、妻の一言で大人しくなり、妻の笑顔で溶ける。
けれど、その生活は不思議と穏やかだった。
大きな事件ではない。
風呂が長い。
お茶を飲む。
髪を乾かしてもらう。
手をつないで寝る。
そんな小さなことが、レイにはとても大きかった。
「ハニー」
「はい」
「明日も可愛いのだぁ?」
「明日にならないと分かりません」
「絶対可愛いのだぁ」
「ありがとうございます」
「のだぁ……」
そしてレイは、手をつないだまま眠った。
夢の中でまた、風呂場の前で叫んでいた。
「ハニー!!お風呂長すぎなのだぁああああ!!」
だが夢の中の瑠璃も、現実と同じように静かに答える。
「もう少しです」
レイは夢の中でも叫んだ。
「そのもう少しが長いのだぁああああ!!」
それでも、顔は幸せそうだった。




