40 スピンオフ回 ひまりルート
ありえるかもしれない、数年後の未来。
スターライト・ユニバース本社。
かつて毎日のように社長レイの絶叫が響いていたその社長室は、少しだけ様子が変わっていた。壁には相変わらずピュア・クラウンのポスターが貼られている。白鳥瑠璃の幻想的な映画ポスター、エミリア・神崎の主演ドラマのポスター、小鳥遊ひまりのソロライブツアーポスター。そしてその横には、なぜか巨大な額縁入りで飾られた一枚の写真があった。
うさぎの着ぐるみを着た田中レイと、にこにこ笑う小鳥遊ひまり。
写真の下には、レイの手書きでこう書かれていた。
『吾輩の人生、ピロローンなのだっ♡』
社員たちはもう何も言わなかった。長く勤めている社員ほど、社長室の奇妙な装飾には耐性がある。むしろ、新人社員が「これは何ですか」と聞いた時だけ、ベテラン社員が遠い目をして「社長です」とだけ答えるのが恒例になっていた。
その日、社長室には誰もいなかった。
正確には、いた。
いたのだが、社長の姿ではなかった。
「のだっ♡」
社長室の奥から、白いうさぎが出てきた。
いや、うさぎではない。
うさぎの着ぐるみを着た田中レイである。
年齢は重ねたが、相変わらず顔は良かった。だが顔が良くても、全身うさぎの着ぐるみを着ていると、若干どうしようもない。耳は長く、尻尾は丸く、胸元にはピンクのリボンまで付いている。
レイは紙袋を大事そうに抱えていた。
「のだっ♡」
廊下を歩く。
「のだっ♡」
社員が見る。
「……社長、お疲れ様です」
「お疲れ様なのだっ♡」
普通に挨拶する。
「社長、その格好は」
「愛なのだっ♡」
「そうですか」
社員は深く聞かなかった。
この会社で深く聞くと、仕事が増える。
レイはご機嫌だった。
「ハニー♡」
社長室ではなく、隣の特別控室に向かう。
「ハニー♡」
扉の前で止まる。
「人参ケーキ買ってきたのだっ♡一緒に食べようなのだっ♡」
扉が開いた。
中には、小鳥遊ひまりがいた。
数年前より大人びていた。
かつてのふわふわした不思議ちゃん感はそのままに、人気歌手としての貫禄も少しだけある。ソロ曲は何度もヒットし、探偵ドラマシリーズも長寿作品になり、子供向けから大人向けまで幅広い層に支持される、スターライト屈指の稼ぎ頭になっていた。
だが、本人は相変わらずだった。
「あ、レイさんですぅ」
ひまりはにこにこした。
「うさぎさんですねぇ」
「そうなのだっ♡」
レイは胸を張った。
「ハニーのために着てきたのだっ♡」
「似合ってますぅ」
「のだっ♡」
レイは完全に嬉しそうだった。
昔なら「社長さん」と呼ばれていたが、今は「レイさん」である。そして、レイは時々ひまりを「ハニー」と呼ぶ。誰が最初に許したのか分からないが、気づいた時にはそうなっていた。
社員たちは最初、かなり混乱した。
あの社長が。
小鳥遊ひまりと。
うさぎの着ぐるみで。
人参ケーキ。
だが、スターライトの社員は適応力が高い。なぜなら、神社俳優、匂わせ歌手、泥沼離婚女優、清純派詐欺騒動、暴言バニー、全部を経験しているからである。今さら社長がうさぎでも、仕事さえ回れば問題ない。
ひまりはテーブルを指差した。
「こっちで食べましょうかぁ」
「のだっ♡」
レイは紙袋を置いた。
中から出てきたのは、高級洋菓子店の人参ケーキだった。小さく上品で、上に白いクリームと細い人参の飾りが乗っている。
「可愛いですねぇ」
「そうなのだっ♡」
「うさぎさん用ですかぁ?」
「吾輩とハニー用なのだっ♡」
「ふふ」
ひまりは笑った。
その笑顔に、レイは一瞬で溶けた。
「のだぁ……」
「どうしましたぁ?」
「ハニーが笑うと、吾輩の心がピロローンなのだぁ……」
「ピロローンですかぁ」
「三百年後もピロローンなのだぁ」
「懐かしいですねぇ」
ひまりはフォークを手に取った。
「『ピロローン300年』、まだライブで歌うと盛り上がりますもんねぇ」
「吾輩の天才曲なのだっ♡」
「そうですねぇ」
「否定しないのだぁ?」
「売れましたしぃ」
「のだっ♡」
レイは満足そうに頷いた。
あの頃、誰もが意味不明だと思った曲が、数年経っても代表曲として残っている。『暴言バニー』も同じだった。子供向け番組、教育イベント、親子ライブ、どこへ行っても歌われる。レイのおふざけ曲は、ひまりという特殊な存在を通すことで、なぜか国民的な妙な歌になってしまった。
レイはケーキを一口食べた。
「のだぁ……美味しいのだぁ……」
「美味しいですねぇ」
「ハニーと食べると三倍美味しいのだぁ」
「三倍ですかぁ」
「本当は百倍なのだぁ。でも上品に三倍と言ったのだぁ」
「上品なんですねぇ」
「吾輩も大人になったのだっ♡」
ひまりはレイを見た。
うさぎの着ぐるみ。
ピンクのリボン。
長い耳。
そして、得意げな顔。
「大人……ですかぁ?」
「のだ?」
「ふふ、可愛いですぅ」
レイは停止した。
「のだ……?」
可愛いと言われた。
ひまりに。
うさぎの着ぐるみ姿で。
「のだぁ……」
レイは両手で顔を押さえた。
「ハニーの可愛いは破壊力が高いのだぁ……」
「レイさんは昔から可愛いですよぉ」
「昔からなのだぁ?」
「はいぃ。すぐ泣きますしぃ」
「そこなのだぁ!?」
「すぐ叫びますしぃ」
「そこもなのだぁ!?」
「でも、ちゃんと助けてくれますぅ」
ひまりはにこにこしたまま言った。
レイは黙った。
ひまりのこういうところが、昔から怖かった。
普段はふわふわしている。
だが、時々、まっすぐ大事なことを言う。
レイは目を逸らした。
「のだぁ……」
「照れてますぅ?」
「照れてないのだぁ」
「照れてますねぇ」
「照れてないのだぁ」
ひまりはケーキを食べながら笑っていた。
そこへ、控室の扉が開いた。
エミリアが入ってきた。
数年後のエミリアは、完全に売れっ子女優になっていた。清純派というより、強く美しい女優。主演映画もドラマも当て、月城麗奈とは相変わらず微妙な競争関係にあるが、互いに業界で地位を築いている。
そんなエミリアは、レイを見るなり固まった。
「……何その格好」
「のだっ♡」
レイは胸を張った。
「ハニーのためのうさぎなのだっ♡」
「本当に結婚したんだっけ?」
「まだしてないのだぁ!」
「してないのにそのテンション?」
「未来への準備なのだぁ!」
エミリアは頭を抱えた。
「重い」
ひまりはにこにこしている。
「人参ケーキ、食べますかぁ?」
「食べる」
エミリアは普通に座った。
慣れている。
この二人の空気に慣れている。
「で、社長」
「なんなのだぁ」
「午後の会議、忘れてない?」
「忘れてないのだぁ」
「本当?」
「たぶん」
「絶対忘れてる」
エミリアは資料を机に置いた。
「ピュア・クラウン再結成ライブの企画会議」
「再結成ではないのだぁ!解散してないのだぁ!」
「活動してないでしょ」
「休眠なのだぁ!」
「それを世間ではほぼ解散って言う」
「違うのだぁ!」
ひまりがふわふわ言った。
「また三人でライブしたいですねぇ」
エミリアは少しだけ表情を柔らかくした。
「まあ、たまになら」
「瑠璃さんも楽しみにしてましたぁ」
「瑠璃は今どこ?」
「映画撮影ですぅ」
「また幽霊?」
「今度は亡国の姫君だそうですぅ」
「ほぼ幽霊じゃん」
レイは大きく頷いた。
「瑠璃は美しき人外系女優として完成したのだぁ」
「褒め方」
「褒めてるのだぁ!」
その時、レイのスマホが鳴った。
レイは画面を見た。
そして、少しだけ真顔になった。
「のだ?」
エミリアが聞く。
「また神社?」
「違うのだ」
「寺?」
「違うのだ」
「教会?」
「違うのだ」
「じゃあ何」
レイは画面を見せた。
そこには通知。
『旧所属俳優、神社イベント公式アンバサダー就任』
エミリアは黙った。
ひまりも黙った。
レイも黙った。
三秒。
五秒。
十秒。
レイは深く息を吸った。
「……のだぁ」
そして、静かに言った。
「ついに芸になったのだぁ……」
エミリアが吹き出した。
ひまりも笑った。
レイは笑いながら少し泣いた。
「吾輩、あれで何度謝罪したと思ってるのだぁ……」
「でも公式になったなら良かったじゃん」
「良いのだぁ? 良いのかもしれないのだぁ……」
「芸能界って不思議ですねぇ」
ひまりが言うと、本当にそう思えた。
数年前は不祥事だったものが、数年後にはネタになり、やがて仕事になる。芸能界は恐ろしい。だが、そういう場所でもある。
レイは人参ケーキをもう一口食べた。
「のだぁ……」
「どうしましたぁ?」
「いろいろあったのだぁ」
「ありましたねぇ」
「ひまりが売れすぎて、吾輩はダブル不倫の悪夢に怯えていたのだぁ」
「しませんでしたねぇ」
「しなかったのだぁ」
「はいぃ」
「偉いのだぁ」
「普通ですぅ」
「芸能界では普通が偉いのだぁ!」
エミリアが横から言った。
「それ、何年言ってるの」
「真理なのだぁ!」
レイはひまりを見た。
「ハニーは本当に偉いのだぁ。変な曲を歌っても、変なドラマに出ても、うさぎになっても、ちゃんと売れたのだぁ」
「レイさんが取ってきたお仕事ですしぃ」
「吾輩のおふざけが、ハニーのおかげで社会現象になったのだぁ」
「楽しかったですよぉ」
「のだぁ……」
レイは少しだけ真面目な顔になった。
「吾輩、ハニーにたくさん助けられたのだぁ」
ひまりはフォークを止めた。
「そうですかぁ?」
「そうなのだぁ。ひまりはいつもふわふわしてるのに、ちゃんと売れて、ちゃんと仕事して、吾輩の変な企画も笑ってやってくれたのだぁ」
「だって楽しかったですしぃ」
「それがすごいのだぁ」
レイはうさぎの耳を少し揺らした。
「吾輩は、ひまりが楽しいって言ってくれると、だいたい安心するのだぁ」
ひまりは少しだけ目を細めた。
そして、いつものように笑った。
「じゃあ、これからも楽しくしましょうねぇ」
「のだっ♡」
エミリアは椅子にもたれた。
「甘い」
「人参ケーキだからなのだぁ」
「違う意味」
「のだ?」
「分からないならいい」
その午後。
ピュア・クラウン再活動企画会議が始まった。
瑠璃はリモート参加だった。画面の向こうで、古風な衣装を着たまま静かに座っている。映画撮影の合間らしく、背景には豪華なセットが見えた。
「お疲れ様です」
「瑠璃ぃ!相変わらず美しいのだぁ!」
「ありがとうございます。社長、その格好は?」
「ハニーのためのうさぎなのだっ♡」
画面越しの瑠璃が、珍しく数秒黙った。
「……そうですか」
「引くななのだぁ!」
「いえ、似合っていらっしゃいます」
「その間が怖いのだぁ!」
エミリアは笑っていた。
ひまりはにこにこしている。
会議の議題は、久しぶりのピュア・クラウンライブだった。
レイはホワイトボードに大きく書いた。
『大人になった清純派ですがなにか』
エミリアが即座に言った。
「タイトル変えて」
「なぜなのだぁ!」
「ダサい」
「のだぁ!?」
瑠璃が穏やかに言う。
「もう少し上品な表現にしてはいかがでしょうか」
ひまりが言う。
「でも、少し面白いですぅ」
「ほらなのだぁ!」
「ひまりは何でも面白がるでしょ」
エミリアは呆れた。
レイはうさぎのまま真剣に会議を進める。
「セットリストなのだぁ!ひまりのソロ、瑠璃の幻想曲、エミリアの映画主題歌、そしてピュア・クラウン曲なのだぁ!」
「懐かしいですね」
瑠璃が微笑む。
「『清純派売りですがなにか』も入れるのだぁ!」
「まだやるの?」
エミリアが眉を上げる。
「代表曲なのだぁ!」
「代表曲にしたくなかった」
「三十万なのだぁ!」
「数字出されると弱い」
ひまりが手を挙げる。
「『暴言バニー』は?」
「当然やるのだぁ!」
「社長さんもうさぎですしぃ」
「のだっ♡」
エミリアがレイを見る。
「まさかステージに出る気?」
レイは目を逸らした。
「のだ?」
「出る気?」
「のだ?」
「出るな」
「まだ何も言ってないのだぁ!」
「顔に出てる」
瑠璃が静かに言う。
「社長、出演されるのであれば、事前に練習が必要です」
「瑠璃!?止めないのだぁ!?」
「出るなら中途半端ではいけません」
「瑠璃は真面目すぎるのだぁ!」
ひまりは嬉しそうだった。
「レイさんと暴言バニー、楽しそうですぅ」
「ハニーがそう言うなら出るのだぁ!」
「だから重いって」
エミリアが言う。
結局、レイのステージ出演案は保留になった。
保留という名の危険物である。
会議後。
ひまりとレイはまた控室に戻った。
人参ケーキの箱には、まだ一つだけ残っていた。
「最後の一つですねぇ」
「半分こなのだっ♡」
「はいぃ」
ひまりがケーキを半分に切った。
少し不格好だった。
レイはその片方を受け取る。
「のだっ♡」
二人で食べる。
「美味しいですねぇ」
「美味しいのだぁ」
しばらく静かだった。
それからひまりが言った。
「レイさん」
「のだ?」
「うさぎさん、また着ますかぁ?」
「ハニーが喜ぶなら着るのだぁ!」
「じゃあ、ライブの日も着てくださいぃ」
「のだっ♡」
レイは即答した。
その二秒後、エミリアの声が廊下から聞こえた。
「絶対やめなさい」
「聞こえてたのだぁ!?」
「聞こえる声で言うからでしょ」
ひまりは笑った。
レイも笑った。
数年後の未来。
ひまりルートのレイは、相変わらず社長で、相変わらず騒がしく、相変わらず変な企画を出し、相変わらずうさぎの着ぐるみを着ていた。
だが、その隣には、いつもふわふわ笑うひまりがいた。
レイが泣いても、叫んでも、暴走しても、ひまりは「楽しそうですねぇ」と笑う。
そしてレイは、その笑顔に何度も救われる。
「ハニー♡」
「はいぃ」
「また人参ケーキ買ってくるのだぁ」
「一緒に食べましょうねぇ」
「のだっ♡」
うさぎの着ぐるみを着た社長は、満面の笑みで頷いた。
ありえるかもしれない数年後の未来。
そこでは、スターライト・ユニバースは相変わらず混沌としていて、ピュア・クラウンは相変わらず伝説で、レイは相変わらずポンコツだった。
ただ一つ違うのは。
社長室の冷蔵庫には、いつも人参ケーキが入っていることだった。




