表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
芸能事務所の若社長ですが、所属タレントが不祥事を起こしすぎて胃が限界です  作者: 雪だるま


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

40/43

40 スピンオフ回 ひまりルート

ありえるかもしれない、数年後の未来。


 スターライト・ユニバース本社。


 かつて毎日のように社長レイの絶叫が響いていたその社長室は、少しだけ様子が変わっていた。壁には相変わらずピュア・クラウンのポスターが貼られている。白鳥瑠璃の幻想的な映画ポスター、エミリア・神崎の主演ドラマのポスター、小鳥遊ひまりのソロライブツアーポスター。そしてその横には、なぜか巨大な額縁入りで飾られた一枚の写真があった。


 うさぎの着ぐるみを着た田中レイと、にこにこ笑う小鳥遊ひまり。


 写真の下には、レイの手書きでこう書かれていた。


『吾輩の人生、ピロローンなのだっ♡』


 社員たちはもう何も言わなかった。長く勤めている社員ほど、社長室の奇妙な装飾には耐性がある。むしろ、新人社員が「これは何ですか」と聞いた時だけ、ベテラン社員が遠い目をして「社長です」とだけ答えるのが恒例になっていた。


 その日、社長室には誰もいなかった。


 正確には、いた。


 いたのだが、社長の姿ではなかった。


「のだっ♡」


 社長室の奥から、白いうさぎが出てきた。


 いや、うさぎではない。


 うさぎの着ぐるみを着た田中レイである。


 年齢は重ねたが、相変わらず顔は良かった。だが顔が良くても、全身うさぎの着ぐるみを着ていると、若干どうしようもない。耳は長く、尻尾は丸く、胸元にはピンクのリボンまで付いている。


 レイは紙袋を大事そうに抱えていた。


「のだっ♡」


 廊下を歩く。


「のだっ♡」


 社員が見る。


「……社長、お疲れ様です」


「お疲れ様なのだっ♡」


 普通に挨拶する。


「社長、その格好は」


「愛なのだっ♡」


「そうですか」


 社員は深く聞かなかった。


 この会社で深く聞くと、仕事が増える。


 レイはご機嫌だった。


「ハニー♡」


 社長室ではなく、隣の特別控室に向かう。


「ハニー♡」


 扉の前で止まる。


「人参ケーキ買ってきたのだっ♡一緒に食べようなのだっ♡」


 扉が開いた。


 中には、小鳥遊ひまりがいた。


 数年前より大人びていた。


 かつてのふわふわした不思議ちゃん感はそのままに、人気歌手としての貫禄も少しだけある。ソロ曲は何度もヒットし、探偵ドラマシリーズも長寿作品になり、子供向けから大人向けまで幅広い層に支持される、スターライト屈指の稼ぎ頭になっていた。


 だが、本人は相変わらずだった。


「あ、レイさんですぅ」


 ひまりはにこにこした。


「うさぎさんですねぇ」


「そうなのだっ♡」


 レイは胸を張った。


「ハニーのために着てきたのだっ♡」


「似合ってますぅ」


「のだっ♡」


 レイは完全に嬉しそうだった。


 昔なら「社長さん」と呼ばれていたが、今は「レイさん」である。そして、レイは時々ひまりを「ハニー」と呼ぶ。誰が最初に許したのか分からないが、気づいた時にはそうなっていた。


 社員たちは最初、かなり混乱した。


 あの社長が。


 小鳥遊ひまりと。


 うさぎの着ぐるみで。


 人参ケーキ。


 だが、スターライトの社員は適応力が高い。なぜなら、神社俳優、匂わせ歌手、泥沼離婚女優、清純派詐欺騒動、暴言バニー、全部を経験しているからである。今さら社長がうさぎでも、仕事さえ回れば問題ない。


 ひまりはテーブルを指差した。


「こっちで食べましょうかぁ」


「のだっ♡」


 レイは紙袋を置いた。


 中から出てきたのは、高級洋菓子店の人参ケーキだった。小さく上品で、上に白いクリームと細い人参の飾りが乗っている。


「可愛いですねぇ」


「そうなのだっ♡」


「うさぎさん用ですかぁ?」


「吾輩とハニー用なのだっ♡」


「ふふ」


 ひまりは笑った。


 その笑顔に、レイは一瞬で溶けた。


「のだぁ……」


「どうしましたぁ?」


「ハニーが笑うと、吾輩の心がピロローンなのだぁ……」


「ピロローンですかぁ」


「三百年後もピロローンなのだぁ」


「懐かしいですねぇ」


 ひまりはフォークを手に取った。


「『ピロローン300年』、まだライブで歌うと盛り上がりますもんねぇ」


「吾輩の天才曲なのだっ♡」


「そうですねぇ」


「否定しないのだぁ?」


「売れましたしぃ」


「のだっ♡」


 レイは満足そうに頷いた。


 あの頃、誰もが意味不明だと思った曲が、数年経っても代表曲として残っている。『暴言バニー』も同じだった。子供向け番組、教育イベント、親子ライブ、どこへ行っても歌われる。レイのおふざけ曲は、ひまりという特殊な存在を通すことで、なぜか国民的な妙な歌になってしまった。


 レイはケーキを一口食べた。


「のだぁ……美味しいのだぁ……」


「美味しいですねぇ」


「ハニーと食べると三倍美味しいのだぁ」


「三倍ですかぁ」


「本当は百倍なのだぁ。でも上品に三倍と言ったのだぁ」


「上品なんですねぇ」


「吾輩も大人になったのだっ♡」


 ひまりはレイを見た。


 うさぎの着ぐるみ。


 ピンクのリボン。


 長い耳。


 そして、得意げな顔。


「大人……ですかぁ?」


「のだ?」


「ふふ、可愛いですぅ」


 レイは停止した。


「のだ……?」


 可愛いと言われた。


 ひまりに。


 うさぎの着ぐるみ姿で。


「のだぁ……」


 レイは両手で顔を押さえた。


「ハニーの可愛いは破壊力が高いのだぁ……」


「レイさんは昔から可愛いですよぉ」


「昔からなのだぁ?」


「はいぃ。すぐ泣きますしぃ」


「そこなのだぁ!?」


「すぐ叫びますしぃ」


「そこもなのだぁ!?」


「でも、ちゃんと助けてくれますぅ」


 ひまりはにこにこしたまま言った。


 レイは黙った。


 ひまりのこういうところが、昔から怖かった。


 普段はふわふわしている。


 だが、時々、まっすぐ大事なことを言う。


 レイは目を逸らした。


「のだぁ……」


「照れてますぅ?」


「照れてないのだぁ」


「照れてますねぇ」


「照れてないのだぁ」


 ひまりはケーキを食べながら笑っていた。


 そこへ、控室の扉が開いた。


 エミリアが入ってきた。


 数年後のエミリアは、完全に売れっ子女優になっていた。清純派というより、強く美しい女優。主演映画もドラマも当て、月城麗奈とは相変わらず微妙な競争関係にあるが、互いに業界で地位を築いている。


 そんなエミリアは、レイを見るなり固まった。


「……何その格好」


「のだっ♡」


 レイは胸を張った。


「ハニーのためのうさぎなのだっ♡」


「本当に結婚したんだっけ?」


「まだしてないのだぁ!」


「してないのにそのテンション?」


「未来への準備なのだぁ!」


 エミリアは頭を抱えた。


「重い」


 ひまりはにこにこしている。


「人参ケーキ、食べますかぁ?」


「食べる」


 エミリアは普通に座った。


 慣れている。


 この二人の空気に慣れている。


「で、社長」


「なんなのだぁ」


「午後の会議、忘れてない?」


「忘れてないのだぁ」


「本当?」


「たぶん」


「絶対忘れてる」


 エミリアは資料を机に置いた。


「ピュア・クラウン再結成ライブの企画会議」


「再結成ではないのだぁ!解散してないのだぁ!」


「活動してないでしょ」


「休眠なのだぁ!」


「それを世間ではほぼ解散って言う」


「違うのだぁ!」


 ひまりがふわふわ言った。


「また三人でライブしたいですねぇ」


 エミリアは少しだけ表情を柔らかくした。


「まあ、たまになら」


「瑠璃さんも楽しみにしてましたぁ」


「瑠璃は今どこ?」


「映画撮影ですぅ」


「また幽霊?」


「今度は亡国の姫君だそうですぅ」


「ほぼ幽霊じゃん」


 レイは大きく頷いた。


「瑠璃は美しき人外系女優として完成したのだぁ」


「褒め方」


「褒めてるのだぁ!」


 その時、レイのスマホが鳴った。


 レイは画面を見た。


 そして、少しだけ真顔になった。


「のだ?」


 エミリアが聞く。


「また神社?」


「違うのだ」


「寺?」


「違うのだ」


「教会?」


「違うのだ」


「じゃあ何」


 レイは画面を見せた。


 そこには通知。


『旧所属俳優、神社イベント公式アンバサダー就任』


 エミリアは黙った。


 ひまりも黙った。


 レイも黙った。


 三秒。


 五秒。


 十秒。


 レイは深く息を吸った。


「……のだぁ」


 そして、静かに言った。


「ついに芸になったのだぁ……」


 エミリアが吹き出した。


 ひまりも笑った。


 レイは笑いながら少し泣いた。


「吾輩、あれで何度謝罪したと思ってるのだぁ……」


「でも公式になったなら良かったじゃん」


「良いのだぁ? 良いのかもしれないのだぁ……」


「芸能界って不思議ですねぇ」


 ひまりが言うと、本当にそう思えた。


 数年前は不祥事だったものが、数年後にはネタになり、やがて仕事になる。芸能界は恐ろしい。だが、そういう場所でもある。


 レイは人参ケーキをもう一口食べた。


「のだぁ……」


「どうしましたぁ?」


「いろいろあったのだぁ」


「ありましたねぇ」


「ひまりが売れすぎて、吾輩はダブル不倫の悪夢に怯えていたのだぁ」


「しませんでしたねぇ」


「しなかったのだぁ」


「はいぃ」


「偉いのだぁ」


「普通ですぅ」


「芸能界では普通が偉いのだぁ!」


 エミリアが横から言った。


「それ、何年言ってるの」


「真理なのだぁ!」


 レイはひまりを見た。


「ハニーは本当に偉いのだぁ。変な曲を歌っても、変なドラマに出ても、うさぎになっても、ちゃんと売れたのだぁ」


「レイさんが取ってきたお仕事ですしぃ」


「吾輩のおふざけが、ハニーのおかげで社会現象になったのだぁ」


「楽しかったですよぉ」


「のだぁ……」


 レイは少しだけ真面目な顔になった。


「吾輩、ハニーにたくさん助けられたのだぁ」


 ひまりはフォークを止めた。


「そうですかぁ?」


「そうなのだぁ。ひまりはいつもふわふわしてるのに、ちゃんと売れて、ちゃんと仕事して、吾輩の変な企画も笑ってやってくれたのだぁ」


「だって楽しかったですしぃ」


「それがすごいのだぁ」


 レイはうさぎの耳を少し揺らした。


「吾輩は、ひまりが楽しいって言ってくれると、だいたい安心するのだぁ」


 ひまりは少しだけ目を細めた。


 そして、いつものように笑った。


「じゃあ、これからも楽しくしましょうねぇ」


「のだっ♡」


 エミリアは椅子にもたれた。


「甘い」


「人参ケーキだからなのだぁ」


「違う意味」


「のだ?」


「分からないならいい」


 その午後。


 ピュア・クラウン再活動企画会議が始まった。


 瑠璃はリモート参加だった。画面の向こうで、古風な衣装を着たまま静かに座っている。映画撮影の合間らしく、背景には豪華なセットが見えた。


「お疲れ様です」


「瑠璃ぃ!相変わらず美しいのだぁ!」


「ありがとうございます。社長、その格好は?」


「ハニーのためのうさぎなのだっ♡」


 画面越しの瑠璃が、珍しく数秒黙った。


「……そうですか」


「引くななのだぁ!」


「いえ、似合っていらっしゃいます」


「その間が怖いのだぁ!」


 エミリアは笑っていた。


 ひまりはにこにこしている。


 会議の議題は、久しぶりのピュア・クラウンライブだった。


 レイはホワイトボードに大きく書いた。


『大人になった清純派ですがなにか』


 エミリアが即座に言った。


「タイトル変えて」


「なぜなのだぁ!」


「ダサい」


「のだぁ!?」


 瑠璃が穏やかに言う。


「もう少し上品な表現にしてはいかがでしょうか」


 ひまりが言う。


「でも、少し面白いですぅ」


「ほらなのだぁ!」


「ひまりは何でも面白がるでしょ」


 エミリアは呆れた。


 レイはうさぎのまま真剣に会議を進める。


「セットリストなのだぁ!ひまりのソロ、瑠璃の幻想曲、エミリアの映画主題歌、そしてピュア・クラウン曲なのだぁ!」


「懐かしいですね」


 瑠璃が微笑む。


「『清純派売りですがなにか』も入れるのだぁ!」


「まだやるの?」


 エミリアが眉を上げる。


「代表曲なのだぁ!」


「代表曲にしたくなかった」


「三十万なのだぁ!」


「数字出されると弱い」


 ひまりが手を挙げる。


「『暴言バニー』は?」


「当然やるのだぁ!」


「社長さんもうさぎですしぃ」


「のだっ♡」


 エミリアがレイを見る。


「まさかステージに出る気?」


 レイは目を逸らした。


「のだ?」


「出る気?」


「のだ?」


「出るな」


「まだ何も言ってないのだぁ!」


「顔に出てる」


 瑠璃が静かに言う。


「社長、出演されるのであれば、事前に練習が必要です」


「瑠璃!?止めないのだぁ!?」


「出るなら中途半端ではいけません」


「瑠璃は真面目すぎるのだぁ!」


 ひまりは嬉しそうだった。


「レイさんと暴言バニー、楽しそうですぅ」


「ハニーがそう言うなら出るのだぁ!」


「だから重いって」


 エミリアが言う。


 結局、レイのステージ出演案は保留になった。


 保留という名の危険物である。


 会議後。


 ひまりとレイはまた控室に戻った。


 人参ケーキの箱には、まだ一つだけ残っていた。


「最後の一つですねぇ」


「半分こなのだっ♡」


「はいぃ」


 ひまりがケーキを半分に切った。


 少し不格好だった。


 レイはその片方を受け取る。


「のだっ♡」


 二人で食べる。


「美味しいですねぇ」


「美味しいのだぁ」


 しばらく静かだった。


 それからひまりが言った。


「レイさん」


「のだ?」


「うさぎさん、また着ますかぁ?」


「ハニーが喜ぶなら着るのだぁ!」


「じゃあ、ライブの日も着てくださいぃ」


「のだっ♡」


 レイは即答した。


 その二秒後、エミリアの声が廊下から聞こえた。


「絶対やめなさい」


「聞こえてたのだぁ!?」


「聞こえる声で言うからでしょ」


 ひまりは笑った。


 レイも笑った。


 数年後の未来。


 ひまりルートのレイは、相変わらず社長で、相変わらず騒がしく、相変わらず変な企画を出し、相変わらずうさぎの着ぐるみを着ていた。


 だが、その隣には、いつもふわふわ笑うひまりがいた。


 レイが泣いても、叫んでも、暴走しても、ひまりは「楽しそうですねぇ」と笑う。


 そしてレイは、その笑顔に何度も救われる。


「ハニー♡」


「はいぃ」


「また人参ケーキ買ってくるのだぁ」


「一緒に食べましょうねぇ」


「のだっ♡」


 うさぎの着ぐるみを着た社長は、満面の笑みで頷いた。


 ありえるかもしれない数年後の未来。


 そこでは、スターライト・ユニバースは相変わらず混沌としていて、ピュア・クラウンは相変わらず伝説で、レイは相変わらずポンコツだった。


 ただ一つ違うのは。


 社長室の冷蔵庫には、いつも人参ケーキが入っていることだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ