38 東雲とのデート回
日曜日。
奇跡的に、スターライト・ユニバースで大きな不祥事が起きていない朝だった。
いや、小さなものはあった。所属俳優が神社の前を通ったとか、若手歌手が意味深なコーヒーカップを投稿しかけたとか、ひまりが「既婚者さんって落ち着いてますよねぇ」と言いかけて新マネージャーに止められたとか、その程度はあった。
だが、謝罪会見級ではない。
つまり、レイにとっては平和だった。
「のだっ♡」
レイは自宅の鏡の前で、朝から三十分以上も悩んでいた。
「このジャケットは若社長っぽいのだぁ……こっちは可愛い吾輩っぽいのだぁ……こっちは東雲殿に褒められそうなのだぁ……のだぁ……悩ましいのだぁ……」
ベッドの上には服が散乱している。
白いジャケット。
淡いグレーのジャケット。
紺のジャケット。
高級シャツ。
ネクタイ。
ネクタイピン。
そして東雲綾華にもらったネクタイピンだけが、宝物のように別の箱に入っていた。
レイはそれを見つめる。
「のだぁ……」
箱を開ける。
綾華にもらった、品の良いネクタイピン。
「使うのだぁ……今日は使うのだぁ……東雲殿が使ってくださいって言ったのだぁ……吾輩、使う男になるのだぁ……」
自分に言い聞かせながら、丁寧にネクタイピンをつける。
そして鏡を見る。
「のだっ♡」
かなり決まっていた。
顔が良い。
服も良い。
金もある。
外見だけなら完全に有望な若社長だった。
ただし中身は、今日も浮かれている。
「デートなのだぁ♡」
レイは両手を頬に当てた。
「東雲殿とのデートなのだぁ♡」
そこへスマホが震えた。
社内連絡だった。
『社長、所属俳優が神社近辺で目撃されましたが、今回は通過しただけのようです』
レイは即座に返信した。
『今日は吾輩は見えないのだぁ。神社も俳優も世界から消えたのだぁ』
そしてスマホを伏せた。
「のだっ♡」
今日はデートである。
現実は見ない。
現実は月曜日から見る。
たぶん。
待ち合わせは、落ち着いた庭園のある美術館だった。
綾華が選んだ場所である。
派手すぎず、静かで、品があり、ゆっくり歩ける。レイにとっては、芸能界の騒音から離れられる貴重な場所だった。
入口近くに着いたレイは、腕時計を見る。
約束の十分前。
「のだぁ……早く着いたのだぁ……偉いのだぁ……」
レイはそわそわしていた。
普段は会議に遅れそうになることもあるのに、デートには早い。
そして。
「レイさん」
背後から声がした。
振り返る。
東雲綾華がいた。
淡い藤色のワンピース。
控えめなアクセサリー。
長い黒髪。
上品で、静かで、柔らかい。
芸能人のような派手な華ではない。
だが、育ちの良さと落ち着いた美しさがあった。
レイは一瞬で停止した。
「のだ……」
綾華が少し首を傾げる。
「お待たせしましたか?」
「のだ……」
「レイさん?」
「綺麗すぎて心臓が職務放棄したのだぁ……」
綾華は少しだけ頬を染めた。
「大げさです」
「大げさじゃないのだぁ……今日の東雲殿は美術館より美術品なのだぁ……」
「それは少し言い過ぎです」
「言い過ぎではないのだぁ。吾輩、入場料を払って東雲殿を見るだけで満足なのだぁ」
「それでは美術館に入れませんよ」
「のだぁ……」
綾華はくすっと笑った。
その笑顔だけで、レイはもうかなり満足していた。
二人は並んで美術館に入った。
展示は、近代日本画と工芸品だった。静かな照明の中、屏風絵や花鳥画、漆器や陶磁器が並んでいる。綾華は一つ一つ丁寧に見ていた。レイも隣で真面目に見ようとしていたが、正直、展示より綾華を見ている時間の方が長かった。
綾華が絵を見る。
レイは綾華を見る。
綾華が説明文を読む。
レイは綾華の横顔を見る。
綾華が振り返る。
レイは慌てて絵を見る。
「レイさん」
「のだっ?」
「今、絵を見ていましたか?」
「見ていたのだぁ!」
「どのあたりを?」
「えっと……鳥なのだぁ!」
「今の絵は牡丹です」
「のだぁ……」
レイは負けた。
「正直に言うのだぁ……東雲殿の横顔を見ていたのだぁ……」
綾華は目を丸くして、それから小さく笑った。
「正直ですね」
「吾輩、今日は嘘をつかないのだぁ」
「普段は?」
「芸能界では必要な言い換えが多いのだぁ」
「なるほど」
綾華は少しだけレイに近づいた。
「では、次の絵は一緒に見ましょう」
「のだっ?」
「こちらです」
綾華は自然にレイの袖を軽く引いた。
それだけだった。
しかしレイには大事件だった。
「のだ……」
「どうしました?」
「袖なのだぁ……」
「袖?」
「東雲殿が吾輩の袖を……」
「迷子にならないようにです」
「吾輩は子供ではないのだぁ……でも嬉しいのだぁ……」
「ふふ」
その後、二人は庭園を歩いた。
初夏の光が木々の間から差し込んでいる。
池には鯉が泳ぎ、風が葉を揺らしていた。
都心とは思えないほど静かだった。
レイは深く息を吸った。
「平和なのだぁ……」
「お仕事のこと、考えていませんか?」
「今日は考えてないのだぁ」
「本当に?」
「少しだけしか考えてないのだぁ」
「少しは考えているんですね」
「神社俳優が脳内に侵入してくるのだぁ……」
綾華は笑った。
「大変ですね」
「大変なのだぁ。でも今日は東雲殿がいるから平気なのだぁ」
「私がいると平気ですか?」
「平気なのだぁ。東雲殿は吾輩の精神安定剤なのだぁ」
「それは責任重大ですね」
「のだぁ……でも本当なのだぁ」
レイは珍しく静かな声で言った。
「東雲殿といると、芸能界が遠くなるのだぁ」
綾華は少しだけ表情を柔らかくした。
「それなら、今日くらいは遠ざけましょう」
「のだっ」
「携帯、見ないでくださいね」
「のだ?」
「見たら、お仕事に戻ってしまいますから」
「のだぁ……」
レイは震える手でスマホを見た。
通知は溜まっている。
しかし。
綾華が見ている。
レイはスマホをポケットにしまった。
「見ないのだぁ」
「偉いです」
「褒められたのだぁ……」
「子供みたいですね」
「東雲殿に褒められるなら子供でもいいのだぁ」
「それは困ります」
二人は庭園内のベンチに座った。
少し日陰になっている場所だった。
綾華はバッグから小さな包みを出した。
「よろしければ」
「のだ?」
「簡単なものですが」
包みの中には、小さな焼き菓子が入っていた。
上品な箱。
きちんとした包装。
レイは目を輝かせた。
「東雲殿が選んでくれたのだぁ?」
「はい。甘いものがお好きかと思いまして」
「好きなのだぁ!大好きなのだぁ!東雲殿からもらうとさらに好きなのだぁ!」
「では、どうぞ」
レイは一つ食べた。
「のだぁ……」
目を閉じる。
「美味しいのだぁ……」
「よかったです」
「上品な味なのだぁ……吾輩の事務所の祝賀会に出てくるケーキとは違うのだぁ……」
「祝賀会、よくされているんですか?」
「吾輩がしたい時にするのだぁ」
「楽しそうですね」
「だいたい祝賀会の途中で不祥事の連絡が来るのだぁ」
「それは大変ですね」
「でも今日は来ないのだぁ。来ても見ないのだぁ」
「はい」
綾華は少し笑い、焼き菓子を一つ手に取った。
その時、レイがじっと見ていた。
「どうしました?」
「東雲殿の食べ方、綺麗なのだぁ」
「食べ方ですか?」
「そうなのだぁ。音がしないのだぁ。姿勢も綺麗なのだぁ。品があるのだぁ」
「ありがとうございます」
「吾輩も真似するのだぁ」
レイは背筋を伸ばし、上品に食べようとした。
だが少し緊張しすぎて、かけらを膝に落とした。
「のだぁ!?」
綾華は笑いを堪えた。
「大丈夫ですか?」
「今のは見なかったことにするのだぁ……」
「はい、見ませんでした」
「優しいのだぁ……」
綾華はハンカチを出して、レイの膝に落ちたかけらを取ろうとした。
レイは固まる。
「のだ……?」
「少しだけ」
「東雲殿が近いのだぁ……」
「そうですね」
「心臓がまた……」
「今日は何度も大変ですね」
「心臓が労働基準法に訴えるのだぁ……」
「休ませてあげてください」
「東雲殿が可愛いから無理なのだぁ」
綾華は少し頬を赤くした。
「そういうことを、あまり自然におっしゃらないでください」
「嫌なのだぁ?」
「嫌ではありません」
レイは停止した。
「のだ?」
綾華は視線を少し逸らす。
「ただ、少し照れます」
「のだ……」
レイは胸を押さえた。
「今日の東雲殿、攻撃力が高すぎるのだぁ……」
「攻撃していません」
「してるのだぁ……無自覚なのだぁ……」
その後、二人は昼食を取ることになった。
美術館近くの落ち着いたレストランだった。
窓際の席。
静かな空間。
季節の野菜と魚料理。
レイはメニューを見ながら悩んでいた。
「のだぁ……どれも上品なのだぁ……」
「お好きなものを選んでください」
「東雲殿は?」
「私はこちらにします」
「では吾輩も同じにするのだぁ」
「同じでよろしいんですか?」
「同じものを食べたいのだぁ」
綾華は少しだけ目を細めた。
「そうですか」
「のだっ」
料理が運ばれてくると、レイは珍しく静かに食べた。
綾華の前だから、綺麗に食べようとしている。
かなり努力している。
綾華はそれに気づいていた。
「レイさん」
「のだ?」
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」
「してないのだぁ」
「ナイフとフォークの動きが少し固いです」
「のだぁ……」
「普段通りで大丈夫です」
「普段通りだと、吾輩はのだのだしちゃうのだぁ」
「私は、普段通りのレイさんも好きですよ」
レイの手が止まった。
「のだ……?」
綾華も一瞬、言葉の強さに気づいたように頬を染めた。
「……あの、変な意味ではなく」
「好きって言ったのだぁ……」
「人として、という意味です」
「人としてでも嬉しいのだぁ……」
レイは皿の上の魚を見つめた。
「今日、吾輩、もう帰っても幸せなのだぁ……」
「まだデートは終わっていませんよ」
「のだっ?」
「午後もあります」
「午後も東雲殿といられるのだぁ?」
「そのつもりでしたが」
「のだぁ……」
レイは感動した。
「長生きするのだぁ……」
「大げさです」
昼食の後、二人は小さな雑貨店を見て回った。
綾華は文房具や器を見るのが好きだった。レイはその横で、何か買ってあげたい欲望と戦っていた。
「東雲殿、これ似合うのだぁ」
「綺麗ですね」
「買うのだぁ?」
「いえ、今日は見るだけで」
「吾輩が買うのだぁ」
「いけません」
「なぜなのだぁ?」
「高価なものを簡単に受け取るわけにはいきません」
「のだぁ……」
「お気持ちだけで十分です」
「では気持ちを百個あげるのだぁ」
「百個は多いですね」
「足りないのだぁ」
綾華は棚の上の小さなガラス細工を手に取った。
白い鳥の形をした小さな置物だった。
「これは可愛いですね」
「のだっ」
レイは即座に店員を呼ぼうとした。
綾華が止める。
「レイさん」
「のだぁ……」
「見るだけです」
「でも東雲殿が可愛いって言ったのだぁ」
「それだけで買っていたら、家が物でいっぱいになりますよ」
「東雲殿が可愛いと言ったもの博物館を作るのだぁ」
「やめてください」
結局、綾華は小さな栞だけを買った。
レイは隣で羨ましそうにしていた。
「吾輩も買うのだぁ」
「何を?」
「同じ栞なのだぁ」
「同じものを?」
「デート記念なのだぁ」
綾華は少し考えて、微笑んだ。
「では、色違いにしましょう」
「のだっ♡」
レイは色違いの栞を買った。
たったそれだけなのに、宝物のように大事に財布へ入れた。
夕方。
二人は川沿いを歩いていた。
空が少し赤くなっている。
人通りも穏やかだった。
綾華はゆっくり歩く。
レイは隣を歩く。
普段なら騒がしいレイも、この時ばかりは少し静かだった。
「東雲殿」
「はい」
「今日は楽しかったのだぁ」
「私もです」
「本当なのだぁ?」
「本当です」
「のだぁ……」
レイは嬉しそうに笑った。
「吾輩、今日のことを百年くらい覚えてるのだぁ」
「百年ですか」
「三百年でもいいのだぁ」
「ピロローンみたいですね」
「のだっ!?」
綾華がピロローンを知っていた。
レイは目を輝かせる。
「東雲殿、ひまりの曲を知ってるのだぁ?」
「ええ。最近よく耳にします」
「のだぁ……恥ずかしいのだぁ……」
「可愛らしい曲だと思います」
「吾輩が書いたのだぁ」
「存じています」
「のだぁ……」
レイは複雑そうだった。
「東雲殿に吾輩のおふざけ曲を知られているの、嬉しいけど恥ずかしいのだぁ……」
「私は、レイさんらしいと思います」
「褒めてるのだぁ?」
「はい」
「のだっ♡」
そこで、綾華が少し足を止めた。
川沿いの風が吹く。
綾華の髪が少し揺れた。
レイは自然に手を伸ばしかけたが、途中で止めた。
触れていいか分からなかったからである。
綾華はそれに気づいた。
「レイさん」
「のだ?」
「どうぞ」
「のだ?」
「髪、乱れていましたか?」
「少しなのだぁ……」
「直していただけますか」
レイは完全に固まった。
「のだ……?」
綾華は少し照れながらも、じっと待っている。
レイは震える手で、綾華の頬にかかった髪をそっと耳にかけた。
指先が少しだけ触れる。
綾華の頬がほんのり赤くなる。
レイは呼吸を忘れた。
「のだ……」
「ありがとうございます」
「のだ……」
「レイさん?」
「今のは、吾輩の人生の名場面なのだぁ……」
「また大げさです」
「東雲殿はすぐ大げさって言うのだぁ……でも吾輩にとっては本当なのだぁ……」
綾華は少しだけ視線を伏せた。
「では、私にとっても、今日の良い思い出にします」
レイは胸を押さえた。
「のだぁ……」
もう何度目か分からない。
心臓が忙しかった。
帰り際。
駅の近くで、二人は立ち止まった。
まだ別れたくない。
レイはそう思っていた。
しかし、言えない。
いや、普段なら言うのに、綾華の前だと妙に臆病になる。
「東雲殿」
「はい」
「今日は、その……ありがとうなのだぁ」
「こちらこそ」
「また……」
レイは少しだけ詰まった。
「また、一緒に出かけてくれるのだぁ?」
綾華は静かに微笑んだ。
「もちろんです」
「のだっ?」
「次は、もう少し人の少ない場所でもいいですね」
「のだっ?」
「ゆっくりお話できますから」
「のだぁ……」
レイは顔を赤くした。
「それは、次もデートということなのだぁ?」
綾華は少しだけ意地悪そうに微笑んだ。
「レイさんは、今日を何だと思っていたのですか?」
「デートなのだぁ!」
「では、次もそういうことで」
レイは完全に崩れた。
「のだぁ……」
膝から力が抜けかける。
綾華が慌てて支える。
「大丈夫ですか?」
「幸せすぎて倒れるところだったのだぁ……」
「倒れないでください。また病院になります」
「それは嫌なのだぁ……」
綾華は少し笑ってから、レイのネクタイピンに目を留めた。
「つけてくださったんですね」
「当然なのだぁ。東雲殿からもらった宝物なのだぁ」
「使ってくださって嬉しいです」
「これからも使うのだぁ」
「はい」
そして、綾華は少しだけ近づいた。
レイは固まる。
「のだ?」
「今日はありがとうございました」
「のだ?」
綾華は背伸びをした。
そして。
レイの頬に、そっと唇を触れさせた。
ほんの一瞬。
柔らかくて、静かなキスだった。
レイは完全停止した。
「のだ……?」
綾華は頬を赤くしながら、一歩下がった。
「お礼です」
「のだ……?」
「また連絡しますね」
「のだ……?」
「お気をつけて」
綾華は微笑んで、改札の方へ歩いていった。
レイはその場に立ち尽くした。
「のだ……?」
数秒。
十秒。
二十秒。
再起動しない。
通行人が少し見ている。
しかしレイは動けない。
ようやく動いたのは、スマホが震えた時だった。
通知。
新マネージャー。
『社長、所属俳優が神社ではなく寺に向かっています』
レイは画面を見た。
そして、静かにスマホを伏せた。
「知らないのだぁ……」
今日は知らない。
ほっぺが熱い。
東雲殿がキスした。
それ以外の世界は、しばらく存在しない。
その夜。
レイは自宅に戻ってから、鏡の前で頬を押さえていた。
「のだぁ……」
右でも左でもない。
今日のほっぺ。
東雲の場所。
「東雲殿なのだぁ……」
スマホがまた震える。
所属俳優。
寺。
イケメン歌手。
匂わせ未遂。
黒瀬真莉亜。
新ドラマ打ち合わせ。
エミリア。
『社長、明日の会議忘れないで』
ひまり。
『今日は楽しかったですかぁ?』
瑠璃。
『お疲れ様です。ご無理なさらないでください』
そして東雲。
『今日はありがとうございました。とても楽しかったです。ゆっくり休んでくださいね』
レイはそのメッセージを見て、ベッドに倒れた。
「のだぁ……」
幸せだった。
甘すぎて、頭がふわふわしていた。
芸能界の地獄も、神社俳優も、匂わせも、違約金も、その夜だけは遠かった。
レイはスマホを抱きしめる。
「次もデートなのだぁ……」
そして、顔を真っ赤にしたまま、小さく呟いた。
「吾輩、東雲殿の前では本当にポンコツなのだぁ……」
だが、それは嫌ではなかった。
むしろ、かなり幸せだった。




