37 3人のキス
おまけ回。
ピュア・クラウン単独ライブ終了後。
舞台裏は、まだ熱気に包まれていた。
スタッフが機材を片付け、衣装担当が小物を回収し、マネージャーたちが次の移動確認をしている。廊下には、興奮の余韻が残っていた。会場の歓声はもう遠くなっているはずなのに、耳の奥にはまだ残っている。久しぶりに三人揃ったライブは、大成功だった。
白鳥瑠璃は、静かに水を飲んでいた。額にはわずかに汗が滲んでいる。いつもの清楚な美貌に、ライブ後の熱っぽさが加わり、舞台上とはまた違う雰囲気があった。
小鳥遊ひまりは、差し入れのクッキーを両手で持っていた。
「ライブの後のクッキー、美味しいですねぇ」
と、いつも通りふわふわしている。
エミリア・神崎は、椅子に座って靴を脱ぎかけていた。
「足痛い。あの清楚衣装、見た目はいいけど動きにくすぎ」
そう言いながらも、表情はそこまで悪くない。むしろ少しだけ満足そうだった。
その三人の少し離れた場所で。
「のだぁ……」
社長レイは壁にもたれていた。
疲れていた。
非常に疲れていた。
ライブ中は感動し、売上を計算し、清楚系を守ろうとし、途中で所属俳優の神社情報に絶叫し、関係各所に電話し、それでもアンコールには戻ってきて三人を見守った。社長としての仕事をしていたのか、ただ騒いでいただけなのかは微妙だが、とにかく疲れていた。
「のだぁ……成功なのだぁ……」
レイは小さく呟いた。
「清楚系ライブ、大成功なのだぁ……」
スタッフが苦笑する。
「社長、お疲れ様です」
「吾輩は頑張ったのだぁ……」
「主に叫んでいましたね」
「叫ぶのも仕事なのだぁ……」
レイはへろへろだった。
だが、顔は嬉しそうだった。
ピュア・クラウンが三人揃った。
ライブが成功した。
チケットは完売。
配信も好調。
グッズも売れた。
SNSでは「顔面が強い」「久しぶりに三人揃って泣いた」「清純派売りですがなにか、ライブだとめちゃくちゃ楽しい」と盛り上がっている。
レイにとっては、大勝利だった。
ただし、疲れていた。
「のだぁ……吾輩、今日はもう働かないのだぁ……」
そう言った瞬間、スマホが震えた。
レイは反射的に画面を見た。
所属俳優のマネージャーからだった。
『社長、神社の件ですが――』
レイはスマホを伏せた。
「見えないのだぁ」
現実逃避した。
「今の吾輩には見えないのだぁ」
エミリアが遠くから言う。
「見えてるじゃん」
「見えてないのだぁ!」
「見えてた」
「見えてないのだぁ!」
ひまりが笑った。
「社長さん、今日は大変でしたねぇ」
「大変だったのだぁ……」
レイは涙目になった。
「お主らのライブは大成功だったのだぁ……でも神社が……神社が追いかけてくるのだぁ……」
瑠璃が静かに近づいてきた。
「社長」
「のだ?」
「今日はありがとうございました」
「のだぁ?」
「ライブ、最後まで見てくださって」
レイは少しだけ胸を張った。
「当然なのだぁ。吾輩は社長なのだぁ」
「はい」
「お主らは吾輩の大事な稼ぎ頭なのだぁ」
「言い方」
エミリアが突っ込む。
レイは慌てた。
「違うのだぁ!大事なタレントなのだぁ!」
「今さら言い直しても遅いけど」
「エミリアは細かいのだぁ!」
ひまりはにこにこしながら言った。
「でも社長さん、ずっと見てましたよねぇ」
「見てたのだぁ!」
「嬉しかったですぅ」
「のだっ?」
ひまりにそう言われ、レイは少し照れた。
「そ、そうなのだぁ?」
「はいぃ」
エミリアも少しだけ目を逸らしながら言った。
「まあ、ライブ取ってきたのは社長だし」
「のだ?」
「一応、ありがと」
レイは固まった。
「のだ?」
エミリアが素直に礼を言った。
かなり珍しい。
「今、お主、ありがとうって言ったのだぁ?」
「言ったけど」
「録音したかったのだぁ!」
「取り消す」
「のだぁあああ!」
瑠璃が微笑んだ。
「エミリアさんも素直ですね」
「瑠璃まで言わないで」
ライブ後の空気は柔らかかった。
三人とも疲れていた。
それでも、どこか満たされていた。
ピュア・クラウンとして集まる機会は減っていたが、ライブをすれば、やはり三人のグループなのだと分かる。瑠璃の清楚な中心、ひまりの柔らかい歌声、エミリアの強い存在感。その三つが並ぶと、他の仕事では出せない空気になる。
レイはそれを見ながら、しみじみ言った。
「のだぁ……」
「何?」
エミリアが聞く。
「やっぱり三人揃うと良いのだぁ」
珍しくまともなことを言った。
瑠璃が少し驚いたように目を細める。
ひまりは嬉しそうに笑う。
エミリアも一瞬だけ黙った。
レイは続けた。
「瑠璃だけでも綺麗なのだぁ。ひまりだけでも売れるのだぁ。エミリアだけでも強いのだぁ。でも三人揃うと、なんか……吾輩の事務所っぽいのだぁ」
「褒めてる?」
「褒めてるのだぁ!」
「事務所っぽいって何」
「混沌と清楚が共存しているのだぁ」
「褒めてないでしょ」
「褒めてるのだぁ!」
瑠璃は少しだけ笑った。
「社長らしい言葉ですね」
「のだっ♡」
レイは照れた。
「今日は特別に吾輩も良いことを言う日なのだぁ」
「じゃあ、今のうちですねぇ」
ひまりがふわふわ言った。
「今のうちとは何なのだぁ!?」
「すぐいつも通りになりますぅ」
「ひまりまでひどいのだぁ!」
その時、瑠璃が一歩前に出た。
「社長」
「のだ?」
「少し、失礼します」
「のだ?」
レイが首を傾げた瞬間。
瑠璃は静かに近づき、背伸びをした。
そして。
ちゅっ。
レイの右ほっぺに軽くキスした。
時間が止まった。
スタッフが固まる。
ひまりが「あ」と言う。
エミリアが「へえ」と言う。
レイは完全停止した。
「のだ……?」
以前、撮影現場で瑠璃にほっぺへキスされたことがある。
だが、それでも慣れるわけがない。
むしろ、二度目だからこそ脳が混乱した。
「瑠璃……?」
瑠璃は少しだけ頬を赤くしていた。
「今日のお礼です」
「のだ……」
「ライブを支えてくださって、ありがとうございました」
「のだ……」
レイは右ほっぺを押さえた。
そこだけ熱い。
顔が真っ赤になる。
しかし、そこで終わらなかった。
「じゃあ、ひまりもですぅ」
「のだ?」
ひまりが近づいてきた。
ふわふわした笑顔。
何のためらいもない。
まるで「クッキーをどうぞ」と同じくらい自然に、レイの左ほっぺに。
ちゅっ。
キスした。
「のだぁ!?」
「社長さん、ありがとうございましたぁ」
ひまりはにこにこしている。
「今日、楽しかったですぅ」
「のだぁ……」
レイは両ほっぺを押さえた。
右、瑠璃。
左、ひまり。
情報量が多すぎる。
「のだ……?」
完全に処理できていない。
その瞬間。
エミリアが腕を組んで立っていた。
レイはその姿を見て、少しだけ安心した。
エミリアはやらないだろう。
エミリアはそういうことをしない。
むしろ「気持ち悪い」と言って終わるはずだ。
レイはそう思った。
だが。
エミリアはじっとレイを見た。
「……二人だけだと、あとで面倒くさいでしょ」
「のだ?」
「三人組だし」
「のだ?」
「勘違いしないでよ。ライブのお礼だから」
そう言うと、エミリアは早足で近づいてきた。
そして。
少し乱暴なくらいの勢いで、レイの額に近いほっぺの上あたりに。
ちゅっ。
キスした。
直後。
エミリアはすぐ離れた。
「はい、終わり」
レイは完全に壊れた。
「のだ……?」
右ほっぺ、瑠璃。
左ほっぺ、ひまり。
上のほっぺ、エミリア。
もう何が何だか分からない。
社長としての思考も、経営判断も、違約金計算も、神社俳優問題も、全部吹き飛んだ。
「のだ……?」
ひまりが笑った。
「社長さん、止まってますぅ」
瑠璃が心配そうに覗き込む。
「大丈夫ですか?」
エミリアは顔を逸らした。
「大げさ」
レイは数秒、いや十数秒、完全に固まっていた。
スタッフも息を殺している。
そして。
ようやく再起動した。
「のだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
舞台裏に絶叫が響いた。
スタッフが一斉に振り返る。
「社長!?」
「今度は何!?」
「神社!?」
「違うのだぁあああ!!」
レイは両手で顔を押さえた。
「三人なのだぁ!!」
「はい?」
「ピュア・クラウン三人なのだぁ!!」
「はい?」
「吾輩のほっぺがライブ会場なのだぁ!!」
エミリアが即座に言った。
「意味不明」
「意味不明じゃないのだぁ!」
「ほっぺがライブ会場って何」
「吾輩にも分からないのだぁ!」
レイは混乱していた。
完全に混乱していた。
「のだぁ……」
座り込む。
「吾輩、今日で死ぬのだぁ……」
瑠璃が慌てる。
「縁起でもないことを言わないでください」
ひまりも言う。
「社長さん、倒れないでくださいねぇ」
エミリアが言う。
「また病院行くのやめてよ」
「お主らのせいなのだぁ!」
「感謝のキスで倒れられても困る」
「刺激が強すぎるのだぁ!」
レイは顔を真っ赤にしていた。
明らかに挙動不審だった。
そこへ、新マネージャーが近づいてきた。
「社長」
「なんなのだぁ……」
「この件、写真には撮られていません」
「のだ?」
「スタッフ以外には見られていません」
「のだぁ……」
「ただ、社内では一生言われると思います」
「のだぁあああああ!?」
エミリアが笑った。
「いいじゃん。誕生日でもないのに三人からお礼もらえて」
「良すぎるのだぁ……」
レイはまだほっぺを押さえている。
「社長さん、そんなにですかぁ?」
ひまりが首を傾げる。
「そんなになのだぁ!」
レイは真顔で言った。
「お主ら、分かってないのだぁ!」
「何をですか?」
瑠璃が聞く。
「トップクラスの美少女三人組からほっぺにキスなのだぁ!」
ばんっ、と壁を叩こうとして、疲れていたので弱く叩いた。
「これは事件なのだぁ!」
「事件にしないで」
エミリアが言う。
「ニュースにしないでよ」
「しないのだぁ!」
「絶対に?」
「しないのだぁ!」
「社長、すぐ自慢するから」
「自慢したいのだぁ!」
「するな」
「のだぁ……」
レイは本当に自慢したそうだった。
特に、東雲に言うかどうかで脳内会議が始まっていた。
言ったらどうなるか。
東雲はたぶん微笑んで、「よかったですね」と言う。
でもその声が少しだけ静かになる。
それは怖い。
かなり怖い。
「のだぁ……」
レイは真剣に悩んだ。
エミリアはそれを見抜いた。
「東雲さんには黙っときなよ」
「のだっ!?」
「顔に出すぎ」
「出てないのだぁ!」
「出てる」
ひまりがにこにこ言う。
「綾華さん、優しいから怒らないですよぉ」
「怒らないのが怖いのだぁ……」
瑠璃が静かに言った。
「社長」
「のだ?」
「今日のことは、私たちからのお礼です。それ以上でも、それ以下でもありません」
「のだぁ……」
「ですから、あまり騒ぎすぎないでください」
「分かったのだぁ……」
レイは大人しく頷いた。
瑠璃に言われると弱い。
エミリアが呆れる。
「本当に瑠璃には素直」
「瑠璃は吾輩の守護霊なのだぁ」
「生きてます」
瑠璃がすぐ訂正する。
ひまりは笑った。
「じゃあ、ひまりは何ですかぁ?」
「天使なのだぁ」
「わぁ」
「エミリアは?」
エミリアが自分で聞いた。
レイは少し考えた。
「……強い守護獣なのだぁ」
「何それ」
「吾輩を守るけど時々噛むのだぁ」
「噛まない」
「噛みそうなのだぁ」
「後で覚えてなさい」
「やっぱり噛むのだぁ!」
舞台裏に笑いが起きた。
ライブ後の疲労も、成功の余韻も、レイの混乱も、全部混ざって、妙に穏やかな時間になっていた。
その夜。
レイは社長室に戻ってから、しばらく鏡を見ていた。
右ほっぺ。
「瑠璃なのだぁ……」
左ほっぺ。
「ひまりなのだぁ……」
少し上。
「エミリアなのだぁ……」
完全に怪しい人だった。
新マネージャーが扉の外から言う。
「社長、帰ってください」
「今、余韻なのだぁ」
「余韻が長いです」
「人生の宝物なのだぁ」
「帰ってください」
「のだぁ……」
レイは名残惜しそうに鏡を見た。
そして、スマホを手に取った。
東雲へのメッセージ画面を開く。
『今日のライブ、大成功だったのだぁ』
そこまでは打った。
続けて。
『あと三人にほっぺにキスされたのだぁ』
と打ちかけた。
すぐ消した。
「危険なのだぁ……」
再び打つ。
『とても良いライブだったのだぁ』
送信。
しばらくして、東雲から返信が来た。
『お疲れ様でした。大成功でよかったですね。今日はゆっくり休んでください』
レイはスマホを抱きしめた。
「のだぁ……」
やはり優しい。
だが、ほっぺのことは言えない。
レイはそっとスマホを伏せた。
その頃、ピュア・クラウンの三人もそれぞれ帰りの車の中にいた。
瑠璃は窓の外を見ながら、少しだけ微笑んでいた。
ひまりは「社長さん、面白かったですねぇ」とマネージャーに話していた。
エミリアはスマホを見ながら、小さく呟いた。
「騒ぎすぎ」
だが、その顔は少しだけ楽しそうだった。
ピュア・クラウンのライブは大成功。
ライブ後のお礼も大成功。
ただし、社長レイの精神だけは、一時的に大混乱だった。
翌日、社内ではなぜか噂になっていた。
『社長、三人からキスされてフリーズ』
『再起動に十数秒』
『ほっぺがライブ会場発言』
レイは朝から叫んだ。
「広めるななのだぁああああ!!」
エミリアは笑い、ひまりは拍手し、瑠璃は少し困った顔で微笑んだ。
そして新マネージャーは冷静に言った。
「社長、今日は神社俳優の件で打ち合わせです」
レイは現実に戻された。
「のだぁああああ!!昨日の幸せを返せなのだぁああああ!!」
こうして、ピュア・クラウン単独ライブのおまけ回は終わった。
清楚。
感謝。
ほっぺ。
絶叫。
そして神社。
スターライト・ユニバースは、今日も平常運転だった。




