34 即落ち社長
都内某所。
ドラマ撮影スタジオ。
その日、レイは珍しく真面目な目的で現場を訪れていた。
理由は単純。
ひまりの撮影見学である。
「のだっ♡」
病み上がりとは思えない速度で廊下を歩く。
後ろにはマネージャー。
「社長、走らないでください」
「走ってないのだぁ!」
「早歩きです」
「病院を出た瞬間から元気なのだぁ!」
「だから倒れるんです」
レイは聞いていなかった。
なぜなら。
今日はひまりの主演ドラマ撮影だからである。
「のだぁ〜♪」
ご機嫌だった。
ひまりは今や事務所の大黒柱の一人。
歌は売れる。
ドラマも視聴率を取る。
CMも増えた。
しかも不祥事ゼロ。
社長的には極めて珍しい存在だった。
「ひまりは偉いのだぁ♡」
レイは頷く。
「不倫しないのだぁ♡」
頷く。
「飲酒運転もしないのだぁ♡」
頷く。
「神社で裸踊りもしないのだぁ♡」
頷く。
後ろのマネージャーが言った。
「比較対象がおかしいんですよ」
「芸能界なのだぁ!」
その時だった。
撮影スタジオの扉が開いた。
中からひまりが出てくる。
「あっ、社長さんですぅ」
「ひまりぃぃぃ!」
レイは飛びつきかけた。
マネージャーが止めた。
「走らないでください」
「のだぁ」
ひまりは今日もふわふわだった。
衣装は淡い色のワンピース。
髪も柔らかい。
まるで妖精。
現場スタッフからも可愛がられていた。
「撮影どうなのだぁ?」
「順調ですよぉ」
「偉いのだぁ♡」
「えへへぇ」
レイは満足だった。
本当に満足だった。
だが。
このあと地獄が待っていた。
正確には。
別の意味で危険な出来事が。
「ひまりちゃ〜ん♡」
甘い声。
廊下の奥から聞こえた。
レイが振り向く。
そこにいた。
花園みるく。
最近急激に売れてきたぶりっ子系美人女優。
今日の共演者だった。
ふわふわした髪。
ぱっちりした目。
守ってあげたくなる系の笑顔。
そして。
圧倒的に計算された可愛さ。
みるくはひまりの横まで来る。
「ひまりちゃん、お疲れさまぁ♡」
「お疲れ様ですぅ」
「わぁ〜、社長さんだぁ♡」
みるくの目がキラキラした。
レイを見る。
上目遣い。
小首を傾げる。
「初めましてぇ♡」
レイ。
停止。
「のだ?」
みるく。
さらに近づく。
「ひまりちゃんからお話聞いてますぅ♡」
にこっ。
「いつもお世話になってますぅ♡」
レイ。
停止。
「のだ?」
ひまり。
察した。
社長の脳が止まっている。
みるく。
さらに追撃。
「社長さんって優しいんですねぇ♡」
レイ。
顔が赤い。
「のだ?」
「ひまりちゃん、すごく感謝してましたぁ♡」
レイ。
赤い。
「のだ?」
「すごいですぅ♡」
レイ。
完全に壊れた。
「のだぁ♡」
マネージャー。
頭を抱える。
ひまり。
笑いを堪える。
みるく。
さらに追撃。
「社長さん、お若いんですねぇ♡」
「のだっ♡」
「かっこいいですぅ♡」
「のだっ♡」
「芸能人みたいですぅ♡」
「のだぁぁぁ♡」
落ちた。
完全に落ちた。
五分後。
レイはデレデレだった。
「のだぁ♡」
「のだぁ♡」
「のだぁぁ♡」
壊れている。
ひまりが聞いた。
「社長さん?」
「なんなのだぁ♡」
「戻ってきてくださいぃ」
「みるく殿が可愛いのだぁ♡」
ひまり。
吹き出す。
みるくは慣れていた。
こういう反応。
芸能界には多い。
だが。
社長クラスでここまで露骨なのは珍しい。
「そんなぁ♡」
みるくが笑う。
「みるくなんて全然ですよぉ♡」
レイ。
机を叩く勢いで言った。
「可愛いのだぁ♡」
ばんっ。
「お目々キラキラなのだぁ♡」
ばんっ。
「結婚したいのだぁ♡」
ばんっ。
マネージャー。
「社長」
レイ。
「のだっ♡」
「セクハラです」
レイ。
「のだ?」
「やめてください」
「褒めてるだけなのだぁ」
「危険です」
ひまりが小声で言った。
「みるくさん、すごいですねぇ」
「何がぁ?」
「社長さんを五分で壊しましたぁ」
みるく。
少し笑う。
「そんなことないですよぉ♡」
そして。
レイを見る。
「社長さん優しいからぁ♡」
レイ。
また赤くなる。
「のだぁ♡」
その時だった。
みるくのマネージャーが呼ぶ。
「花園さん、次のシーンです」
「はぁい♡」
みるくは手を振る。
「じゃあまたぁ♡」
「のだぁ♡」
そして去る。
廊下。
静寂。
三秒。
五秒。
レイ。
立ち尽くす。
「のだぁ……」
ひまり。
「帰りましたよぉ」
「のだぁ……」
「社長さん?」
「のだぁぁぁ……」
マネージャー。
「戻ってきてください」
レイは真顔になった。
「移籍金払うから来ないのだぁ?」
マネージャー。
頭を抱える。
「社長」
「なんなのだぁ」
「やめてください」
「なんでなのだぁ」
「超大手事務所の看板候補ですよ」
「だから欲しいのだぁ!」
「誘わないでください」
レイ。
本気だった。
「可愛いのだぁ」
「知ってます」
「売れるのだぁ」
「もう売れてます」
「欲しいのだぁ」
「ダメです」
「欲しいのだぁ」
「ダメです」
ひまり。
横で笑う。
「社長さん、みるくさん好きなんですねぇ」
「好きなのだぁ♡」
「即答ですねぇ」
「可愛いのだぁ♡」
その時。
撮影スタジオの反対側から声がした。
「……へぇ」
全員が振り向く。
そこには。
エミリア。
いた。
別作品の撮影で同じ局に来ていたのである。
エミリアは腕を組んでいた。
そして。
笑っていた。
「社長」
「のだ?」
「東雲さんに報告しようか?」
レイ。
停止。
完全停止。
「のだ?」
エミリア。
「可愛い可愛い言ってたって」
「のだ?」
「結婚したいって言ってたって」
「のだ?」
「移籍金払うから来いって言ってたって」
レイ。
青ざめる。
「のだぁ」
エミリア。
満面の笑み。
「東雲さんに送っとく?」
「やめるのだぁぁぁぁぁ!!」
絶叫。
廊下に響く。
ひまりは笑い転げている。
みるくのマネージャーも笑いを堪えている。
エミリアは面白そうだった。
「社長、最低」
「違うのだぁ!」
「何が」
「これは芸能人としての評価なのだぁ!」
「結婚したいも?」
「芸能人的な意味なのだぁ!」
「意味不明」
レイは本気で慌てていた。
なぜなら。
東雲綾華は怒らない。
怒らないが。
静かに。
非常に静かに。
「そうですか」
と言う。
それが怖い。
ものすごく怖い。
「送る?」
エミリア。
「送らないでなのだぁ!」
「どうしようかな」
「エミリアぁぁぁ!」
ひまりが笑いながら言った。
「社長さん、顔真っ赤ですぅ」
「のだぁぁぁ!」
そして。
その夜。
東雲からメッセージが届いた。
『退院されたばかりなのですから、あまり無理をなさらないでくださいね』
普通だった。
いつも通りだった。
レイ。
安心する。
「のだぁ……」
その二分後。
追加メッセージ。
『花園さんという方は、とても可愛らしい方なのですね』
レイ。
死亡。
「のだぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
スターライト・ユニバースの社長は。
スポンサーよりも。
週刊誌よりも。
炎上よりも。
その瞬間だけは東雲綾華が一番怖かった。




