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新たな難民たちが「聖国アトウッド」に迎え入れられてから、三日が経過した。

彼らもまた、先にいた者たちと同様に、驚異的な速度で作物が育つ畑に驚き、水精ウンディーネたちの加護に涙して感謝を捧げていた。


その日の午後、私は視察と称して、ルシアンと共に村の畑を歩いていた。


「聖女様! 今日も日差しが強いですから、どうか日傘を」

「あら、ありがとう。でも平気よ、この風が気持ちいいから」


村人たちが次々と私に声をかけ、私が応える。その和やかな光景を、背後から付き従うルシアンは、常に周囲に鋭い視線を巡らせながら見守っていた。

彼の紫水晶の瞳には、一切の油断がない。新参の難民たちを「保護」という名目で隔離し、数日かけて徹底的に素性を洗い出している最中だった。


「ルシアン、少し肩の力を抜いたら? 彼らもすっかり村に馴染んでいるじゃない」

「見た目に騙されてはなりません、ライラ様。人間の悪意は、最も無害な仮面を被って近づいてくるものです。……特に、あの少年」


ルシアンの冷ややかな視線の先。

畑の隅で、土まみれになりながら一生懸命に雑草を抜いている、新参の難民の中にいた十歳ほどの少年がいた。

ボロボロの服を着て、痩せこけた体。彼もまた、重い瘴気の呪いに侵されていたところを私の水で浄化された一人だ。シオンと名乗ったその少年は、家族をすべて瘴気で失い、一人でここまで辿り着いたのだと、涙ながらに語っていた。


「シオンがどうかしたの?」

「……私の『勘』です。あの少年の足運び、そして時折見せる呼吸の癖。あれはただの農民の子供のものではない。極限まで気配を殺す訓練を受けた者のそれです」


ルシアンの言葉に、私はハッとしてシオンを見つめた。

しかし、どう見ても彼はただの気弱な少年にしか見えない。他の村人たちともニコニコと笑い合い、懸命に働いている。


「考えすぎよ、ルシアン。あんな小さな子が暗殺者だなんて」

「私の取り越し苦労であれば、それに越したことはありませんが」

ルシアンは納得していないようだったが、それ以上は何も言わず、ただ私の背後で影のように静まり返った。


その直後だった。


——ドンッ!!


村の反対側、新しく建てられた木造の倉庫から、突如として黒い煙と炎が立ち上った。

凄まじい爆発音と共に、村人たちの悲鳴が上がる。


「な、何事だ!?」

「火事だ! 倉庫が燃えてるぞ!」


突如として襲いかかった災厄に、平和だった村が一瞬にしてパニックに陥った。

私は驚愕し、声のする方へと振り向いた。


「どうして火事が!? この結界の中は、自然発火なんて起きないはずなのに……っ!」

「ライラ様、下がって!」


ルシアンが私の前に飛び出し、剣を抜く。

「あれはただの火ではありません。……『瘴気』を圧縮して爆発させたものです」

「瘴気!? そんなものがどうして……」


見れば、炎と共に黒い霧のような瘴気が周囲に広がり始め、それに触れた村人たちがバタバタと倒れ込んでいる。浄化されたはずの体に、再び強烈な呪いが襲いかかっているのだ。


「誰かが故意に持ち込んだとしか考えられません。……やはり、新参の中にネズミがいたか」

ルシアンがギリッと奥歯を鳴らした。


「ルシアン、早く! 火を消して、みんなを助けないと!」

「……っ! しかし、貴女のお傍を離れるわけには!」

「私は自分で身を守れるわ! あそこにはレオたち子供もいるのよ、お願い、早く!」


私の悲痛な叫びに、ルシアンは顔を歪めた。

護衛としての絶対の掟と、主である私の命令。その狭間で葛藤したのはわずか一瞬。


「……すぐに鎮圧し、戻ります。どうか、そこから一歩も動かれませんよう!!」


次の瞬間、ルシアンの姿が掻き消えた。

音速を超えた踏み込みで炎の渦へと突進し、凄まじい剣圧だけで炎と瘴気を一気に吹き飛ばしていく。

彼が村人たちを救出する様を見届け、私がホッと息を吐き出そうとした——まさに、その刹那。


「——本当に、甘いですね。聖女様」


耳元で、ぞっとするほど冷酷な、低くしゃがれた声がした。

振り返る暇すらなかった。

気配ゼロ。音もゼロ。

先ほどまで畑の隅にいたはずの少年・シオンが、いつの間にか私の背後にピタリと張り付いていたのだ。


少年の手には、黒く濁った結晶で作られた、禍々しい短剣が握られていた。

金属ではない。純度百パーセントの『瘴気』を凝縮して作られた、呪いの刃。


「水精の防壁は物理と魔法を弾くが、この『高密度の呪いそのもの』はすり抜ける。……死んでください、お姫様」


シオンの腕がブレた。

狙うは私の首筋。一滴でも血に混ざれば、即座に全身の細胞を腐らせる猛毒の刃。


「っ……!」

私は反射的に身をよじった。

水精たちが悲鳴を上げ、私の盾となろうと殺到するが、シオンの言う通り、呪いの刃は清らかな水をすり抜け、私の肩口を薄く、紙一枚の厚さで切り裂いた。


——チリッ。


熱いような、冷たいような、奇妙な感覚。

だが次の瞬間、傷口から爆発的な激痛が全身を駆け巡った。黒い血管が首筋に向かって這い上がり、呼吸が詰まる。


「っ、あ……ぁ……!」

私が膝から崩れ落ちたのと同時だった。


「——貴様ァァァァァァッ!!!!」


大気が悲鳴を上げた。

村の反対側にいたはずのルシアンが、空間そのものを削り取るような凄まじい殺意と共に帰還した。

約束通り、いや、それよりも速く。


ガンッ!! という鈍い音が響く。

ルシアンは剣を抜くことすらもどかしかったのか、凄まじい速度でシオンの腹部に蹴りを叩き込んだ。

「ガハッ!?」

小柄なシオンの体は、くの字に折れ曲がりながら十メートル以上吹き飛び、石造りの壁に激突して血を吐いた。


「ライラ様!! ライラ様!!」

ルシアンが血相を変えて私を抱き起こす。その手が、私の肩から広がる黒い呪いの痕を見て、ガタガタと震え出した。


「ああ……なんという……。私の、私の失態だ……! あんなゴミむしに気を取られ、貴女を……!」

ルシアンの目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちる。彼がこんなに狼狽ろうばいし、泣く姿を見たのは初めてだった。


「すぐに、私の命と引き換えにこの呪いを……!」

「ルシアン……落ち着いて……」


私は荒い息を吐きながら、彼の頬にそっと手を添えた。

「……こんなもの、大したこと……ないわ」


私は目を閉じ、自らの内にある神域の源流へと意識を繋いだ。

私の中に流れ込んだ呪いの毒。それは確かに致死のものだったが、かつてルシアンをむしばんでいた『魔竜の呪い』に比べれば、あまりにも浅く、薄っぺらいものだった。

カァァァッ、と私の体から眩いほどの浄化の光が溢れ出す。


肩の傷口から入り込んだ黒い呪いは、圧倒的な神の光に飲み込まれ、シュゥゥと音を立てて白い蒸気となって消え去っていった。

数秒後、私の肩には傷跡一つ、呪いの痕一つ残っていなかった。


「……嘘だろ」

壁際で倒れ伏していたシオンが、血を吐きながら絶望の声を漏らした。

「あれは……王国の宮廷魔術師が何十人も死に絶えながら精製した、特級の呪毒だぞ……。それを、自分一人の力で……」


「忘れたの?」

私はルシアンの腕に支えられながら、ゆっくりと立ち上がった。

「私は、王国最強の騎士を蝕んだ呪いを解いた人間よ。これしきの毒で、私が死ぬとでも思った?」


「ライラ様……」

ルシアンが信じられないものを見る目で私を見上げ、やがて安堵のあまり、私の腰にすがりついて深く息を吐き出した。


「お怪我がなくて、本当に良かった。……ですが、これは私の完全な落ち度。どのような罰でもお受けします」

「罰は後で考えるわ。それよりも……」


私は静かに歩みを進め、壁際で動けなくなっているシオンを見下ろした。

少年の姿をしているが、その目つきは訓練された暗殺者のそれだ。


「レヴェナント公爵の差し金ね?」

「……」

シオンは口を真一文字に結び、何も答えない。奥歯に仕込んだ毒を噛み砕こうとしているのが分かった。


「死なせないわ」

私が指を鳴らすと、水精たちが即座にシオンの口内に大量の水を流し込み、毒薬ごとすべてを吐き出させた。

同時に、彼の全身を水の鎖が何重にも縛り上げる。


「ゲホッ、ゴホッ……! 化け物め……」

シオンが憎々しげに私を睨む。


「お前たちは甘いんだよ。助けを求める者なら誰でも受け入れる。そんなお花畑の脳味噌で、この腐った世界を生きていけると思うな。俺を殺せ。どうせ次の刺客が、何度でも貴様らを襲う」


「……」

私はシオンの言葉を、静かに受け止めた。

彼の言う通りだ。私は甘かった。自分を無敵だと過信し、底なしの悪意が存在することをどこかで舐めていた。

私の慈悲は、一歩間違えれば、私を信じてくれたこの村の難民たちをも全滅させていたかもしれないのだ。


「ルシアン」

「はっ」


私の静かな声に、ルシアンがスッと立ち上がり、抜身の剣を手にシオンの前に立った。

圧倒的な死の気配。シオンの顔に、初めて明確な死の恐怖が浮かぶ。


「我が主。コイツの四肢を切り落とし、舌を抜き、死ぬよりも悲惨な状態で公爵の元へ送り返しましょう。それが、主を害そうとした者への『相応の報い』です」


ルシアンの提案は残酷極まりないものだった。

少し前の私なら、震え上がって止めていただろう。

けれど、私はもう、ただの村娘でも、無力な令嬢でもない。私は、この『聖国』の主として、守るべき民のために、超えなければならない一線があることを理解していた。


「……いいえ、ルシアン。血は流さないわ」

「ライラ様?」


私はシオンの前に跪き、彼の額にそっと右手を置いた。


「殺しはしない。四肢も奪わない。……けれど、私はもう、悪意を無条件で許すほど甘くはないの」


私は神域の力を呼び覚まし、彼の体内に『命』を送り込んだ。

しかしそれは、癒やしではなく、残酷なほどの『浄化』だった。


「な、何をする気だ……ギャアアアアアアッ!?」


シオンが絶叫した。

私の光は、彼の体内に刻み込まれていた暗殺者としての魔力回路、身体強化の術式、そして裏社会で生きてきた彼を支えていた『闇の力』のすべてを、物理的な苦痛と共に徹底的に「漂白」し、破壊していったのだ。


数分後。

絶叫を止めたシオンは、白目を剥いて地面に転がっていた。

魔力を完全に失い、二度と武器を振るうことのできない、ただの非力な人間に成り下がったのだ。


「……これが、私の下す『罰』よ」

私は冷や汗を拭いながら、静かに宣言した。

「命は奪わない。でも、私から奪おうとした力は、すべて奪い取る」


その光景を見ていた村人たちは、恐怖ではなく、畏敬の念に打たれて一斉にその場にひざまずいた。

慈愛だけではない。悪意に対しては一切の容赦なく、確実に牙を折る。その冷徹な裁きこそが、彼らにとっての本当の「安心」をもたらしたのだ。


ルシアンは目を見開き、やがて歓喜に顔を歪めて、その場で深く深く頭を垂れた。


「……ああっ。なんと美しく、恐ろしい。貴女はついに、真の王としての冷酷さを身につけられたのですね。私の心臓は、今、貴女のその完璧な威厳の前に完全にひれ伏しました」

「大げさよ、ルシアン」


私は立ち上がり、シオンを縛っていた水の鎖を解いた。

「この者を王都へ送り返しなさい。そして、レヴェナント公爵に伝えなさい」


私は、遠く離れた王都の空を見据え、氷のように冷たい声で命じた。


「『慈悲は、救いを求める者にのみ与えられる。悪意を持って近づく者には、絶望のみを与えよう』と」


これでもう、引き返すことはできない。

私は自らの手で、この腐敗した世界と正面から戦争を始める決意を固めたのだった。

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