10
王都、レヴェナント公爵邸。
深夜の執務室に、突如としてバシャァッ! という大量の水が弾ける音が響き渡った。
「な、なんだ!?」
書類仕事に追われていたクロード公爵が弾かれたように立ち上がる。
部屋の中央、豪奢なペルシャ絨毯の上に、虚空から現れた水の渦が一人の中年男……いや、少年の姿をした何かを吐き出していた。
「シ、シオン……!? 馬鹿な、なぜここに!」
部屋の暗がりから、灰色のローブを纏った暗殺ギルドの長『毒蜘蛛』が姿を現し、倒れ伏す少年に駆け寄った。
シオンは白目を剥き、口からだらだらと涎を垂らしていた。外傷は一切ない。だが、その虚ろな瞳には、かつての冷酷な暗殺者としての光は微塵も残っていなかった。
「……信じられん」
シオンの胸ぐらを掴み、その脈を探った毒蜘蛛の声が、初めて明確な『恐怖』に震えた。
「魔力が……完全に『消滅』している。破壊されたのではない、最初からそんなものは存在しなかったかのように、細胞レベルで浄化されている……! それに、この体……筋力も、暗殺者としての反射神経も、すべて普通の十歳の子供のものに造り替えられているぞ!」
「なんだと!? そんな馬鹿な魔法があるわけがなかろう!」
「魔法ではないのです、公爵閣下。これは……文字通りの『神の御業』だ」
毒蜘蛛がシオンを床に下ろした直後。
シオンの服に染み込んでいた水滴が空中にフワリと浮かび上がり、集まって一つの水鏡を形成した。そこから、氷のように冷たい少女の声が響く。
『慈悲は、救いを求める者にのみ与えられる。悪意を持って近づく者には、絶望のみを与えよう』
それは、紛れもなく「湖の聖女」ライラの声だった。
水鏡がパチンと弾けて消え去ると、執務室には重苦しい沈黙だけが残された。
「……公爵閣下。我がギルドは、この件から一切手を引かせていただきます」
毒蜘蛛はジリジリと後ずさりをした。
「あの方は、人間が手を出していい存在ではない。物理的な攻撃も、呪毒の暗殺も通じず、触れれば存在そのものを書き換えられる。……これ以上関われば、我々は真の『神罰』を受け、ギルドごとこの世から消し去られるでしょう」
「待て! 逃げる気か! 報酬は十倍……いや、百倍払う!」
「命あっての金です。ご自愛なさいませ、閣下」
影に溶け込むように消え去った毒蜘蛛。
残された公爵は、ただの無力な子供と化したシオンを見下ろし、ガチガチと歯の根を鳴らして震えた。
軍隊も、暗殺者も通じない。あの湖には、間違いなく人智を超えた化け物が巣食っている。
「……そうだ。教皇だ」
公爵の血走った目に、狂気じみた閃きが宿る。
「自らを『聖国』と名乗り、奇跡を騙る異端の魔女……。聖王国の『正統なる神』を奉じる中央教会が、あのような邪教の存在を許すはずがない。……異端審問だ! 教会の狂信者どもを嗾けて、あの魔女を火炙りにしてやる!」
泥まみれの公爵は、最後の切り札にすがるように、狂った笑い声を上げ始めた。
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同じ夜。
神域の湖に浮かぶ白亜の城。その最上階にある私の私室は、重い静寂に包まれていた。
「……っ、ふぅ……」
私は、洗面台の前に立ち、震える両手を何度も何度も石鹸で洗い流していた。
冷徹な裁きを下し、シオンを王都へ送り返してから数時間。
村人たちの前では毅然と振る舞い、「聖国の主」としての威厳を保ち続けた。けれど、自室に戻り、一人になった瞬間、張り詰めていた糸がプツリと切れてしまったのだ。
私は今日、一人の人間の人生を完全に壊した。
命を奪うことだけは避けた。だが、彼が血の滲むような思いで培ってきたであろう暗殺者としての力や技術を、私の都合で一方的に『なかったこと』にしてしまったのだ。
それはある意味、殺すよりも傲慢で、残酷な行為だったのではないか。
(私は、正しいことをしたのよね……? みんなを守るためには、あれしかなかった。でも……)
どれだけ洗っても、自分の手が恐ろしい罪に塗れているような気がしてならない。
涙がボロボロと溢れ、洗面台の陶器に吸い込まれていく。
——コンコン。
不意に、控えめなノックの音が響いた。
「……ライラ様。起きておいでですか」
ルシアンの声だった。
「ル、ルシアン? ええ、起きているわ。入って」
私は慌ててタオルで顔を拭い、寝室の方へと歩み出た。
扉を開けて入ってきたルシアンの姿に、私は息を呑んだ。
いつも隙のない黒い騎士服を纏っている彼が、今は鎧を外し、無防備な白いシャツ一枚の姿だった。しかもその手には、鞘から抜かれた鋭い短剣が握られている。
「ルシアン……? その短剣、どうしたの?」
ルシアンは私の前まで歩み寄ると、静かに、だが重々しい動作で片膝をついた。
そして、短剣の柄を私の方へと差し出したのだ。
「私を、罰してください」
彼の紫水晶の瞳は、痛々しいほどの自責の念に染まっていた。
「私の三秒の遅れが、あのような塵芥に、貴女の神聖なる御肌を傷つけることを許してしまった。……騎士として、万死に値する失態です」
「ルシアン、あれはもう治ったわ。それに、あなたが村のみんなを助けてくれたから……」
「なりません!」
ルシアンの強い声が、私を遮った。
「貴女は今日、村人たちの前で『悪意には絶望を』と宣言なされた。ならば、主の血を流させた私という『無能』もまた、相応の罰を受けねば、貴女の言葉の重みが失われてしまいます。……どうか、この短剣で私の左腕を切り落としてください。それができぬと仰るなら、私が自ら……」
ルシアンが自らの右手に短剣を持ち替え、躊躇なく自身の左腕に刃を立てようとした。
「やめてっ!!」
私は無我夢中で飛び出し、彼の右手にしがみついた。
ガキンッ、と音を立てて短剣が床に落ちる。
「ライラ様……?」
「馬鹿なこと言わないで! あなたが自分の腕を切り落としたりしたら、私は誰に守ってもらえばいいのよ!?」
私はルシアンの胸ぐらを両手で強く掴み、涙でぐしゃぐしゃになった顔で彼を睨みつけた。
「あなたは私の剣でしょ!? 私の盾なんでしょ!? だったら、私に無断で自分を傷つけることなんて、絶対に許さない! あなたの体も、あなたの心も、今はもう全部私のものなんだから!!」
感情のままに叫んだ私の言葉に、ルシアンは目を見開き、そして息を呑んだ。
「……私のすべてが、貴女のもの」
ルシアンは呆然とその言葉を反芻し、やがて、その美しい顔をクシャリと歪ませた。
彼の大柄な体が、まるで迷子になった子供のように震え始める。
「ああっ……。なんという、圧倒的なご慈悲……」
ルシアンは私をそっと引き寄せ、壊れ物を扱うように、その力強い腕で私を抱きしめた。
「貴女のその独占欲に満ちたお言葉が、私の罪を洗い流し、私の魂を永遠に縛り付ける……。ええ、私の腕も、命も、血の一滴に至るまで、すべては貴女の所有物です。貴女が傷つけるなと仰るなら、この身は世界が滅びるまで無傷であり続けましょう」
彼の熱い吐息が私の首筋にかかり、背中を撫でる彼の手のひらから、狂おしいほどの愛情と執着が伝わってくる。
「……怖かったの」
私は彼の胸に顔を埋め、ついに堪えきれずに嗚咽を漏らした。
「私、今日……人の人生を、ぐちゃぐちゃにしちゃった。もう、昔の私には戻れない。……自分が、どんどん恐ろしい人間になっていくみたいで……」
「貴女は何も間違っていません」
ルシアンは私の金糸の髪に何度も口付けを落とし、甘く囁いた。
「貴女は神として、当然の裁きを下しただけです。もし貴女の手が罪に穢れたというのなら、私がその穢れをすべて舐め取りましょう。貴女が歩む道が血塗られるというのなら、私が先に世界中の人間を皆殺しにして、赤い絨毯を敷いてご覧に入れます。……だから、どうか泣かないで」
彼の異常なまでの狂信。
普通なら恐怖を覚えるようなその重すぎる愛の言葉が、今の私には何よりも温かく、心を支える絶対的な楔に感じられた。
彼が私の「闇」をすべて肯定し、引き受けてくれるからこそ、私は明日もまた「聖女」として光の中を歩き続けることができるのだ。
「……ええ。罰の代わりに、命令するわ」
私は顔を上げ、涙に濡れた目で彼を見つめた。
「一生、私の傍を離れないで。私がどんな決断を下しても、私を守り抜いて」
「御意。この命が燃え尽きる、その先の永遠まで」
ルシアンの誓いの口付けが、私の額に優しく落ちた。
こうして、震える夜は静かに過ぎていった。
互いの歪な心を補い合うように結びついた私たちは、もはやどんな外敵にも屈しない強固な絆を手に入れたのだと、そう信じていた。
——だが。
世界は、私たちの想像以上に広く、そして狂気に満ちていた。
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翌朝。
雲一つない青空が広がる湖畔に、それまでとは全く質の違う「異音」が響き渡った。
——ボォォォォォォッ。
重く、腹の底に響くような、巨大な角笛の音。
パトロールをしていたルシアンが、バルコニーで朝のお茶を飲んでいた私の元へ、かつてないほど険しい顔で飛んできた。
「ライラ様。岸辺へ」
「ルシアン……今の音は?」
「王国軍ではありません。……厄介な羽虫どもが、大挙して押し寄せてきました」
水鏡を展開するまでもない。
私たちが並んでバルコニーの欄干から対岸を見下ろすと、そこには異様な光景が広がっていた。
真っ白な法衣を纏った、数百人規模の集団。
彼らの手には武器ではなく、太陽の光を反射してギラギラと輝く、巨大な「黄金の十字架」の旗が何本も掲げられている。
そして集団の中心には、純白の天馬が牽く、走る大聖堂のような巨大で豪奢な馬車が鎮座していた。
「あれは……」
「大陸の信仰を独占する最大宗教、中央正教会の『異端審問局』です」
ルシアンが、嫌悪感を隠そうともせずに吐き捨てた。
「レヴェナント公爵の差し金でしょう。武力で勝てぬと悟り、今度は『神の権威』を引っ張り出してきやがった。……自らを『聖国』と名乗る貴女を、偽神を奉じる異端として断罪するつもりに違いありません」
公爵の執念深さに呆れると同時に、私の背筋に冷たいものが走った。
軍隊なら、剣で追い返すことができる。暗殺者なら、捕らえて罰することができる。
しかし、「宗教」という実態のない権威と狂信に支配された者たちを相手に、果たして力で屈服させることができるのだろうか。
「……聖女を騙る邪悪なる魔女よ!!」
対岸から、魔力によって拡声された男の声が湖に響き渡った。
馬車の上に立つ、豪奢な司教服を着た恰幅の良い男が、私たちに向かって黄金の杖を突きつけている。
「神聖なる神の御名を汚し、愚かな民を惑わす大罪人! ただちに結界を解き、主の御前にて火炙りの刑に処されるべく、その身を捧げよ!!」
その言葉に呼応するように、数百人の白装束の信徒たちが「魔女に死を!」「異端に浄化の炎を!」と狂ったような叫び声を上げ始めた。
その目には、理性の光はない。自分たちこそが絶対的な正義であると信じて疑わない、狂信者のそれだ。
「……ふざけたことを。我が主を前に、火炙りだと?」
ルシアンの全身から、かつてないほどのドス黒い殺気が噴れ上がった。
彼の紫水晶の瞳が、血の飢えに赤く輝き始める。
「ライラ様。命令を」
ルシアンは腰の剣の柄に手をかけ、氷の刃のような声で囁いた。
「今度こそ、一匹残らず鏖にする許可を。あの薄汚い狂信者どもの首で、この湖の岸辺を埋め尽くしてご覧に入れます」
眼下で燃え上がる、白き十字の狂信。
私の傍らで殺意を滾らせる、黒き騎士の狂信。
二つの狂気が真っ向から衝突しようとする中、私は自らの内にある神域の力を確かめるように、深く、静かに息を吸い込んだ。




