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「今度こそ、一匹残らずみなごろしにする許可を」


そのルシアンの言葉には、寸分の迷いもなかった。

彼は本気で、眼下に集結した数百人の異端審問官の首をね、神域の湖を血で染めるつもりだ。彼にとって、主である私を「魔女」と呼んで侮辱する者は、呼吸をすることすら許されない絶対悪なのだから。


しかし、私は彼の腰の剣の柄にそっと手を添え、ゆっくりとその刃をさやへと押し戻した。


「ダメよ、ルシアン」

「……なぜですか。奴らは今は結界の外で吠えているだけとはいえ、強固な魔力と狂気に裏打ちされた『殺意』を持っています。放置すれば、必ず貴女の障害となる」


「ええ、分かっているわ」

私はバルコニーから、白装束の狂信者たちを見下ろした。

「でも、彼らを殺してはいけない。レヴェナント公爵の狙いはまさにそこにあるのよ。もし私たちが彼らを皆殺しにすれば、教会は彼らを『邪教の魔女に立ち向かい散った尊き殉教者』として祭り上げる。そうなれば、王国中の数百万人の信徒が、文字通り死を恐れぬ狂戦士となってこの湖に押し寄せてくるわ」


「……っ」

ルシアンはギリッと奥歯を鳴らした。

物理的な軍隊なら何万人来ようが彼一人で斬り捨てるだろう。だが、相手が「信仰」という狂気にりつかれた民衆となれば、殺せば殺すほど憎悪が膨れ上がり、敵が増える泥沼に陥ってしまう。


「では、どうなされるおつもりで? 奴らのあの狂気を、話し合いで鎮められるとは到底思えませんが」

「話し合いはしないわ。私たちが壊すべきは、彼らの肉体じゃなくて、彼らがすがりついている『偽りの権威』よ」


私は顔を上げ、ルシアンの冷たいアメジストの瞳を真っ直ぐに見つめた。

「私を『魔女』と呼ぶなら、教えてあげる。本物の『神の奇跡』とはどういうものか。……ルシアン、私の隣を歩いて」

「……御意。我が主の往く道に、絶対の勝利を」


私は湖に向かって意志を放ち、岸辺へと続く幅広の水晶の橋を架けた。

私たちが橋を渡り始めると、村の難民たちも不安そうに家から出てきて、固唾を呑んで私たちの背中を見守っていた。


私たちが岸辺に降り立つと、数百人の白装束の信徒たちが、憎悪に満ちた目で私を睨みつけてきた。

その中心で、巨大な馬車の上に立つ司教が、黄金の杖を振りかざして私を指差した。


「よくぞ姿を現したな、神の御名を騙る邪悪なる魔女よ! 我が名は中央正教会・異端審問局を束ねるバルディア司教! 貴様のその穢らわしい幻術で愚民を惑わすのもここまでだ!」


恰幅の良いバルディア司教の顔は、私に対する侮蔑と、自分こそが絶対的な正義であるという傲慢さに満ちていた。

「大人しくその薄汚い命を差し出せば、魂だけは浄化の炎で救済してやろう。だが抵抗するというなら、この湖ごと貴様らを焼き尽くすまでだ!」


「幻術、ですか」

私は静かに、けれど周囲の空気を震わせるほど凛とした声で応えた。

瘴気しょうきに苦しむ人々を救い、飢えを満たすこの力が、あなたには幻術に見えるのですね」


「黙れ、娼婦め!」

バルディア司教が唾を飛ばして怒鳴った。

「神の奇跡を起こせるのは、正統なる教会の高位聖職者のみ! 貴様のような身元も知れぬ小娘が奇跡を為すなど、悪魔と契約した証拠である! おい、そこの愚民ども!」


司教は、私の背後で震えている難民たちに向かって声を張り上げた。

「貴様らはその魔女に騙されているのだ! 今すぐこちらへ来い! 教会にすがれば、神は貴様らの罪をゆるし、正しい道へと導いてくださるぞ!」


しかし、難民たちは誰一人として動かなかった。

それどころか、彼らは互いに手を取り合い、私の背中を庇うように立ち塞がった。


「ふざけるな!」

先日、私の水で救われた男の子・レオの母親が、震える声で、しかしはっきりと叫んだ。

「私たちが瘴気で死にそうになっていた時、あなたたち教会は何をしてくれた!? 高いお布施を要求して、払えない私たちを王都から追い出したじゃないか! 私たちを救ってくれたのは、聖女様だけだ!」

「そうだ! 聖女様こそが本物だ! 帰れ、薄汚い豚司教!」


難民たちの怒声に、バルディア司教の顔が屈辱で真っ赤に染まった。


「お、おのれ……悪魔に魂を売った愚民どもめ! もはや救いの余地なし! ならば、我が教会に伝わる真なる『神の炎』にて、貴様らのそのけがれた結界ごと灰塵かいじんに帰してくれよう!」


バルディア司教が合図を送ると、馬車の奥から数人の神官が、うやうやしく一つの豪華な箱を運んできた。

箱が開かれると、中から眩い光を放つ黄金の燭台しょくだいが現れた。その先端には、薪もないのに赤々と燃え盛る不思議な炎が宿っている。


「おおおっ……!」

信徒たちが一斉に地面にひざまずき、祈りの言葉を呟き始めた。


「見よ! これぞ初代教皇様より伝わりし聖遺物、『浄化の聖火』なり! いかなる邪悪な結界も、この聖なる炎の前には紙屑同然よ!」

「……チッ。ただの高密度の魔力塊を燃やしているだけですが、確かに厄介な熱量です。ライラ様、私が切り伏せますか?」

ルシアンが小声で尋ねてきたが、私は首を振った。


「いいえ。あれは私が受け止めるわ。……ルシアンは、手出し無用よ」

「しかし!」

「私を信じて」


私が微笑みかけると、ルシアンは苦しげに顔を歪めながらも、剣の柄から手を離して一歩下がった。


「燃え尽きよ、魔女!!」

バルディア司教が聖火の燭台を私に向けて振り下ろした。

瞬間、燭台から放たれた炎が巨大な火竜のような形をとり、凄まじい熱波と共に私たちを呑み込もうと迫り来る。


「聖女様っ!!」

背後で難民たちが悲鳴を上げる。


私は一歩前に踏み出し、両手を広げた。

(水精たち。彼らに教えてあげて。——真の光の姿を)


——ピキィィィィィンッ!!!


湖面が、まるで巨大な鏡のように光を放った。

次の瞬間、私の足元から無数の水精ウンディーネたちが一条の光の柱となって立ち昇り、迫り来る「聖なる炎」を正面から受け止めた。


ジュゥゥゥゥゥッ!!

水と炎が激突し、凄まじい水蒸気が発生する。

しかし、ただの水蒸気ではない。それは虹色の光を帯びた、極めて純度の高い神聖な魔力の粒子だった。


「な、なんだと!?」

バルディア司教が驚愕の声を上げる。

彼が絶対の自信を持っていた「浄化の炎」は、私の放つ光の柱に触れた瞬間、燃え広がるどころか、まるで汚れを洗い流されるようにシュゥゥと小さくしぼんでいくではないか。


「馬鹿な! 聖遺物の炎が、ただの水に押し負けるなど!」

「ただの水ではありません」


私は静かに語りかけた。

「あなたのその炎は、人を傷つけ、焼き尽くすための『暴力』。……対して、私の水は、命を育み、傷を癒やすための『祈り』です。偽りの権威で振りかざす暴力が、人々の祈りの結晶に勝てるはずがありません」


私が両手を天高く掲げると、湖からさらなる水柱が立ち上がり、空中で一つの巨大な形を結んだ。

透き通るような水の羽、眩い光を放つ後背。

それは、見上げるほど巨大な「水の天使」の姿だった。


「あ、ああ……」

信徒たちの間から、震えるような感嘆の声が漏れた。


水の天使は、優しく微笑むような仕草で両手を合わせると、そこから無数の光のしずくを降らせた。

光の雫が信徒たちの白装束に降り注ぐと、彼らが長旅と瘴気で受けていた疲労や小さな傷が、見る間に癒やされていく。


「な……痛みが、消えた……?」

「ああ……なんという、温かく、慈悲深い光……」


彼らが信じてきた「教会」は、恐怖と戒律で信徒を縛り、異端を火炙りにするだけの冷酷な組織だった。

しかし今、彼らの目の前にあるのは、自分たちを殺そうとした敵にすら癒やしを与える、圧倒的で無償の「慈愛」だった。


どちらが真の「神の奇跡」か。

誰の目にも明らかだった。


「騙されるな! それは悪魔の幻術だ! 目を覚ませ!」

バルディア司教が狂乱して叫び、再び聖火の燭台を掲げようとした。


だが——ピキッ。

燭台の黄金の表面に、亀裂が走った。

私の放つ圧倒的な「神性」と「浄化の力」に当てられ、偽りの聖遺物である燭台が、自らの内包する魔力に耐えきれずに崩壊を始めたのだ。


「なっ……聖遺物が!? 馬鹿な、そんな馬鹿な!!」

パァンッ!! という甲高い音と共に、黄金の燭台は粉々に砕け散り、バルディア司教の手からこぼれ落ちた。


「ああ……神よ……」

信徒の一人が、手から武器である十字架の槍を取り落とし、私の前に両膝をついた。

それを皮切りに、一人、また一人と、白装束の狂信者たちが次々と武器を捨て、地面にひれ伏していく。


「お許しください……。我々は、目が眩んでおりました……」

「あなた様こそが……真なる神の御使い……!」


数百人の異端審問官が、涙を流しながら私に向かって祈りを捧げ始めたのだ。

彼らの信仰心は、教会の権威から、目の前の私という「絶対的な光」へと完全に書き換えられてしまった。


「き、貴様ら! 何をしている! 立て! 異端を殺せぇぇぇっ!!」

バルディア司教は完全に孤立し、馬車の上で醜く喚き散らしている。

その時、私の背後から黒い旋風が巻き起こった。


「——本当に、見苦しい豚ですね」

「ひぃっ!?」


ルシアンが、いつの間にか馬車の上に跳躍し、バルディア司教の喉元に冷たい剣の切っ先を突きつけていた。

「我が主は『殺すな』と仰った。だから命は奪いませんが……次にその汚い口を開けば、舌を引き抜いて豚の餌にしますよ」

「ひ、ひぐっ……!」


司教は恐怖のあまり泡を吹き、その場にへたり込んで失神してしまった。


圧倒的な勝利。

一滴の血も流すことなく、最強の軍隊よりも恐ろしい「狂信者の群れ」を、自らの信徒へと変えてみせたのだ。


ルシアンが馬車から飛び降り、ひれ伏す元・異端審問官たちの間を縫って私の元へ歩み寄ってきた。

彼の紫水晶の瞳は、かつてないほどの熱を帯び、今にも溶けてしまいそうなほど甘く、そして深い崇拝に満ちていた。


「……私の負けです、ライラ様」

ルシアンは私の足元に跪き、泥で汚れるのも構わずに私の靴の甲に額を擦りつけた。


「暴力でねじ伏せることしか知らなかった私には、到底思いつかない、完璧にして残酷な勝利。……彼らの精神の根幹をへし折り、貴女のとりこにしてしまうとは。貴女は神よりも尊く、そして悪魔よりも恐ろしい」

「もう、変な褒め方しないでよ」


私は苦笑しながら、ルシアンの頭をそっと撫でた。

「でも、これで教会もうかつには手を出せなくなったはずよ。異端審問局が寝返ったなんて知れたら、教会の権威は丸潰れだもの」


「ええ。レヴェナント公爵も、今頃王都で泡を吹いて倒れていることでしょう」

ルシアンが顔を上げ、嗜虐的しぎゃくてきな笑みを浮かべる。


私は、ひれ伏している数百人の白装束に向かって声をかけた。

「顔を上げなさい。あなたたちの罪は、すでに許されました」


彼らが恐る恐る顔を上げると、私は優しく微笑んだ。

「もし、真の神の愛と祈りを学びたいのなら、この湖で土を耕し、作物を育てなさい。教会の冷たい石畳の上ではなく、太陽の下で泥にまみれて生きること。……それが、私からの洗礼です」


「おお……! 聖女様……!」

元・異端審問官たちは感涙にむせびながら、深く深く頭を下げた。


私のちっぽけな「聖国」は、こうして強固な信仰という盾を手に入れた。

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