12
中央正教会の異端審問局が「聖国アトウッド」に寝返ってから、二週間が過ぎた。
白亜の城のバルコニーから見下ろす湖畔の景色は、以前にも増して活気に満ちていた。
数百人もの元・異端審問官たちが村に加わったことで、開墾のスピードは爆発的に上がった。水精たちの加護を受けた黒土の畑はどこまでも広がり、麦やトマト、美しい花々が風に揺れている。
ただ、一つだけ予想外だったことがあるとすれば。
「おお……! 見よ兄弟たち! 聖女様が祝福を下されたこのトマトの、なんという神々しい赤色を!」
「嗚呼、我が手でこの神聖なる土に触れられる喜び! 鍬を振るうたびに、魂が浄化されていくのが分かるぞ!」
「聖女様、万歳! 労働は祈りなり!!」
……彼らの「狂信」のベクトルが、教会から私へと完全にスライドしただけで、その熱量自体は全く変わっていなかったことだ。
真っ白な法衣を泥だらけの麻服に着替えた彼らは、鍬や鋤をまるで聖遺物のように天高く掲げ、涙を流しながら畑を耕している。
「……随分と賑やかになったわね、ルシアン」
バルコニーのティーテーブルで紅茶を飲みながら、私は思わず苦笑いをこぼした。
「ええ。少々鬱陶しくはありますが、彼らの労働力は馬鹿になりません。それに、主の奇跡を直接その目に焼き付けられた彼らの信仰心は、鋼よりも強固です。いざという時は、命を投げ出してでもこの湖の盾となるでしょう」
私の背後に控えるルシアンが、冷徹な計算式を弾き出すように淡々と答えた。
彼は相変わらず私に対しては甘く過保護だが、外の世界の人間に対しては徹底的にドライだ。元・異端審問官たちに対しても、「使い勝手の良い労働力兼、肉の盾」くらいにしか思っていない節がある。
「盾なんて言わないで。彼らもこの国の立派な民なんだから」
「失礼いたしました。貴女のその底なしのご慈悲には、恐れ入るばかりです」
ルシアンは悪びれる様子もなく微笑み、私の空いたカップに新しい紅茶を注いだ。
「それで、王都の様子はどう?」
私は声のトーンを少し落とし、本題に入った。
あれだけの大規模な異端審問局が丸ごと消息を絶ち(教会の立場からすれば寝返ったなどとは認めたくないだろう)、指揮官であったバルディア司教だけが泡を吹いて王都へ送り返されたのだ。王国と教会が大混乱に陥っているのは想像に難くない。
ルシアンはアメジストの瞳を細め、フッと冷ややかな笑みを浮かべた。
「水鏡の監視網や、王都に潜ませた使い魔からの情報によれば……レヴェナント公爵は、完全に失脚したようです」
「失脚……あの大貴族が?」
「はい。近衛騎士団を無傷で敗走させ、あまつさえ教会の異端審問局まで喪失させた責任を追及されたのでしょう。公爵はすべての特権を剥奪され、地下牢に幽閉されたとのこと。……王室と教会が、公爵を『トカゲの尻尾』として切り捨てたのです」
自業自得とはいえ、あの傲慢だった公爵の呆気ない末路に、私は小さく息を吐いた。
「じゃあ、これで少しは静かになるかしら」
「……いいえ。むしろ、ここからが本番でしょう」
ルシアンの声音が、ふっと鋭く研ぎ澄まされた。
「公爵という腐った肉を切り捨てたことで、いよいよ王国の『中枢』が直接動いてくるはずです。……いえ、すでに動いていると言うべきでしょうか」
ルシアンが視線を向けたのは、湖の遥か彼方、深い森へと続く街道の入り口だった。
私はバルコニーの手すりに寄りかかり、目を凝らした。
そこには、武装した軍隊はいなかった。
代わりに、白馬に跨った十名ほどの軽装の騎士たちが、ゆっくりと湖畔に向けて進み出てきたのだ。
彼らの先頭で風に揺れているのは、戦意を示す軍旗ではない。純白の布——つまり、「白旗」だった。
「白旗……降伏、あるいは対話の申し入れ?」
「そのようです。しかも、あの旗に描かれている紋章は……」
ルシアンの額に、ピキリと青筋が浮かんだ。彼から放たれる空気が、急速に零下まで冷え込んでいく。
「王家の、直属の紋章。……どうやら、とびきりの大物が直々にお出ましになったようです」
ルシアンのただならぬ気配に、私は彼を見上げた。
「ルシアン、知っている人なの?」
「……ええ。かつて、私が最も忠誠を誓い、そして……私を魔竜の呪いごと切り捨てた男です」
ルシアンの声には、抑えきれない憎悪と、どす黒い殺意が滲んでいた。
「第一王位継承者、アーサー・ヴァン・エルディア王太子。……まさか、あの男自身がこの湖に足を踏み入れるとは」
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三十分後。
私は「聖国アトウッド」の主として、湖畔に設えられた純白の天幕の下で、王国からの使者を迎え入れていた。
私の隣には、全身から触れる者を切り裂くような殺気を放つルシアンが立っている。
対するは、白旗を掲げてやってきた十名の騎士たち。そしてその中央に立つ、一人の青年だった。
太陽の光を吸い込んだような眩い金髪に、抜けるように青い瞳。
王族特有の気品と、どこか親しみやすさを感じさせる柔和な顔立ち。彼こそが、このエルディア王国の第一王子、アーサーだった。
「突然の訪問を許していただき、感謝いたします。湖の聖女、ライラ・アトウッド殿」
アーサー王太子は、武装を解いた姿で私の前に進み出ると、王族であるにもかかわらず、深く、美しい所作で頭を下げた。
「顔を上げてください、アーサー殿下」
私は玉座代わりに用意された椅子から一歩も動かず、静かに応えた。
「王国の次期国王たる方が、護衛も少なく、このような辺境まで自ら足を運ばれるとは。……どのようなご用件でしょうか」
「謝罪と、ご提案に参りました」
アーサーは顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめた。
「まず、レヴェナント公爵および中央教会が、貴女様とこの地に暮らす民に対して行った数々の非礼と暴力。王家を代表し、心より謝罪いたします。公爵はすでに捕縛し、教会にも厳重な警告を下しました。彼らが二度とこの湖を脅かすことはありません」
その言葉は、驚くほど真摯に聞こえた。
しかし、私の隣に立つルシアンは、鼻で冷たく笑った。
「見え透いた芝居を。公爵が近衛騎士団を動かした時点で、王家がそれを知らぬはずがない。貴様らは公爵がこの湖を制圧できれば良しとし、失敗したから慌てて責任を擦り付けただけだろうが」
ルシアンの容赦のない言葉に、アーサーの背後に控えていた騎士たちがいきり立った。
「貴様っ、殿下に向かってなんという口の利き方を!」
「落ちぶれた狂犬が、王家に牙を剥くか!」
「下がれ、お前たち」
アーサーは手で騎士たちを制し、痛ましげな瞳でルシアンを見つめた。
「……久しいな、ルシアン。君が呪いから解放され、こうして健在であることを、私は心から嬉しく思う」
「気安いな。私の名はルシアン・フォン・アルトハウス。今はただの、ライラ様の忠実なる剣だ。貴様に名前を呼ばれる筋合いはない」
「私を恨むのは当然だ。あの日、魔竜の呪いに侵された君を救うことができず、王都から追放する公爵の決定を止められなかった私の無力を……どうか許してほしい」
アーサーの青い瞳が、悲痛に揺れる。
かつて彼らは、主従でありながら、背中を預け合う親友のような関係だったのだと、その態度から察せられた。
しかし、ルシアンの殺意は微塵も揺るがなかった。
「許す? 勘違いするな。私は貴様を恨んでなどいない。あの腐った王都から追放されたおかげで、私は真に忠誠を誓うべき『神』——ライラ様に出会うことができた。むしろ感謝しているほどだ」
ルシアンは私の肩にそっと手を添え、優越感に満ちた冷酷な笑みをアーサーに向けた。
「だから、昔話をしに来たのなら帰れ。貴様らが何を企んでいようと、私は我が主の敵をすべて斬り捨てる。それだけだ」
「……相変わらず、君は不器用だな」
アーサーは小さく息を吐き、再び私へと視線を戻した。
「ライラ殿。ルシアンの言う通り、王家は公爵の暴走を黙認していた。それは事実です。王国は今、瘴気の蔓延により国力の底が見え始めている。奇跡の水を独占しようとした公爵の強欲に、すがりたかった部分があるのです」
彼は自らの非を包み隠さず認めた。
その率直さは、これまでのギデオンや公爵、司教とは明らかに異質だった。
「ですが、貴女の真の力と、民を救う慈悲の心を知り、私は王室会議で父王を説得しました。力で奪うのではなく、手を取り合うべきだと。……ライラ殿。どうか、王国の『公式な聖女』として、私たちと共にこの瘴気の世界を救ってはいただけないでしょうか」
アーサーの提案に、村の難民たちや元・異端審問官たちがざわめいた。
王国の公式な聖女。それは、私が日陰者の「魔女」から、正真正銘の国家の英雄として迎え入れられることを意味している。
「王国の庇護下に入り、水を提供しろということですか」
「ええ。もちろん、見返りは十分に用意いたします。この湖一帯を完全に貴女の『独立自治領』として認め、不可侵を王家の名のもとに誓約します。さらに、必要な物資や資金も無制限に援助しましょう」
破格の条件だった。
もはや誰も私たちを脅かさず、物資の心配もいらない。私の望んでいた「安全で平和な楽園」が、王国の保証付きで手に入るのだ。
しかし。
私は、彼の青い瞳の奥に、僅かに揺らめく「為政者の冷酷さ」を見逃さなかった。
「……お断りします」
私の静かな、しかしはっきりとした拒絶の声が、天幕の下に響き渡った。
「ライラ殿……? なぜですか。これは貴女にとっても、この村の民にとっても、最高の条件のはずです」
アーサーが驚きに目を丸くする。
「ええ、とても魅力的な条件です。——『私にとって』は」
私は椅子から立ち上がり、一歩前へ出た。
「アーサー殿下。私が王国の聖女となり、この水を王家に提供したとして……その水は、誰の元へ届くのでしょうか?」
「それは、もちろん……瘴気に苦しむ王国の民へ」
「嘘ですね」
私はピシャリと言い放った。
「あなたが提供した水を、王家はどう扱うか。まずは王族や貴族、富裕層から優先的に配分し、残った僅かな水を、高値で平民に売りつけるのでしょう。結局、一番水が必要な泥まみれの弱者たちの元には、一滴も届かない」
アーサーの肩が、微かにビクッと跳ねた。
「私は、二年間泥水を啜って生きてきました。権力者がどれほど綺麗事を並べても、いざという時には弱者を見捨てることを、肌で知っています」
私は彼の青い瞳を射抜くように見据えた。
「私は、誰かの道具にはならない。この水は、王家の権威を保つためでも、貴族の延命のためでもなく……自らの足でここへ辿り着き、祈りを捧げた者たちにのみ与えられる。それが、私の絶対のルールです」
「……っ」
アーサーは言葉に詰まり、唇を噛んだ。
彼の提案は、一見すると平和的な同盟だったが、本質は「奇跡の水という圧倒的な利権を、王家の管理下に置くこと」に他ならなかったのだ。
「王国と敵対するおつもりですか、ライラ殿。貴女の力とルシアンの剣があればこの湖は守り切れるでしょう。しかし、外界から完全に孤立して、本当にこの民たちを養っていけると?」
アーサーの声に、初めて為政者としての強硬な響きが混ざった。
「孤立などしません。現に、こうして毎日多くの人々が救いを求めて集まってきています」
私は毅然として微笑んだ。
「もし王国が本当に民を救いたいと願うなら、王冠を外し、身分を捨て、一人の人間としてこの湖の列に並びなさい。そうすれば、喜んで水を分け与えましょう」
それは、一国の王太子に対する、完全なる屈服の要求だった。
背後の騎士たちが怒りで剣に手をかけようとしたが、ルシアンが一瞬だけ放った殺気の波動に当てられ、全員が悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。
「……素晴らしい」
ルシアンが、うっとりとした吐息を漏らす。
「これぞ我が主。王国の権威すら足元にひれ伏させる、真の女王の御姿だ」
アーサーはへたり込む騎士たちを見下ろし、やがて深く、重い溜息を吐いた。
「……私の負けだ、ライラ殿。君は、私が思っていたよりもずっと気高く、そして恐ろしい人だ」
アーサーは再び、私に向かって深く頭を下げた。
「今日のところは、これで引き下がります。しかし……王国も、このまま黙って滅びを待つことはできない。いずれまた、別の形で対峙することになるでしょう。その時まで……どうか、ご無事で」
アーサーは最後に、ルシアンの方を悲しげに振り返り、踵を返した。
白旗を掲げた使節団は、来た時よりもずっと重い足取りで、森の奥へと消えていった。
「帰しましたね、ライラ様。殺してもよかったのに」
ルシアンが、少しだけ残念そうに呟く。
「ダメよ。王太子を殺したら、それこそ全面戦争だもの。……それに、あの人は悪い人じゃない。ただ、王家に縛られているだけ」
「王家の犬であることに変わりはありません。彼が次に牙を剥くなら、その時は私が……」
「ええ、その時はお願いするわ」
私は緊張で震えそうになる手を隠し、ルシアンに向かって優しく微笑んだ。
王国の甘い誘惑を撥ね退け、私は本当の意味で「孤高の聖国」としての道を歩み始めた。
それは、世界中すべての権力を敵に回すという、茨の道の始まりでもあった。
けれど、私の隣には最強の騎士がいて、背後には私を信じてくれる民がいる。もう、何も恐れることはなかった。




