13
アーサー王太子が白旗を掲げて引き返してから、一ヶ月が経過した。
湖畔の「聖国アトウッド」は、もはやただの難民キャンプと呼べる規模ではなくなっていた。
私が水精たちの力を借りて精製した白亜の石材を用いて、村人たちと元・異端審問官たちが協力し、立派な家屋や舗装された街道を次々と造り上げている。
特筆すべきは、元・異端審問官たちの異常なまでの「信仰心」と「労働力」だった。
彼らは日中は泥にまみれて狂ったように畑を耕し、夜になれば徹夜で石を積み上げている。聞けば、「聖女様の慈悲に報いるため、この神域に相応しい大聖堂を建造する」のだという。
「……大聖堂って、いくらなんでもやりすぎじゃないかしら」
「何を仰いますか。貴女様の神威を考えれば、むしろこれでも質素すぎるくらいです」
完成しつつある巨大な礼拝堂のドームを見上げながらため息をつく私に、隣を歩くルシアンが真顔で答えた。
今日も黒い騎士服に身を包んだ彼は、すっかりこの聖国の「軍務長官」兼「大司祭」のような立ち位置に収まっている。
「彼らには、私が直接『ライラ様を讃える祈りの作法』を叩き込んでおきました。今では、一日五回の礼拝を欠かす者は一人もおりません」
「ル、ルシアン……あなた、裏でそんなことしてたの?」
「当然です。貴女の恩恵をタダで享受するなど、虫が良すぎますからね。体と魂の両方で、その借りを返させねば」
ルシアンは涼しい顔で言い放つ。
彼の私に対する「狂信」は、元・異端審問官たちのそれよりも遥かに深く、そして重い。私が「やめて」と言えば素直に従うものの、私が目を離した隙に、村人たちに私の偉大さを説いて回るという布教活動を熱心に行っているようだった。
「まあ、みんなが平和に笑って暮らせるなら、それでいいのだけれど……」
私が苦笑して湖に目を向けた、その時だった。
——ピリッ。
背筋を、冷たい静電気が走った。
同時に、湖面に浮かんでいた水精たちが、一斉にパシャパシャと暴れ出し、怯えたように私の足元へと集まってきた。
(……え? 何、この感覚)
大気が、微かに震えている。
いや、震えているのではない。空気が重く、生臭く変質し始めているのだ。
「ライラ様」
ルシアンの声が、一瞬で「剣」のそれに変わった。
彼が鋭い視線を向けたのは、王都がある南東の空。
抜けるような青空だったはずのそこが、まるで墨汁をこぼしたように、赤黒い斑模様に染まり始めていた。
「あれは……まさか」
ドドドドドドド……ッ!!
地鳴りが響いてきた。
遠くの山々の稜線から、真っ黒な「壁」が押し寄せてくるのが見えた。
一瞬、巨大な嵐かと思った。だが違う。それは、致死量の毒を孕んだ高濃度の「瘴気の雲」であり、さらにその雲の下には、無数の蠢く影があった。
「瘴気にあてられ、魔物と化した獣の群れ……『スタンピード』です」
ルシアンが舌打ちをした。
「規模が異常だ。数万……いや、十万は下らない。しかも、あの瘴気の雲の動き、自然現象ではありません。明らかに『魔術的な指向性』を持って、この湖へと誘導されています」
「誘導されている? 誰に……」
「王国しかいないでしょう。……おそらく、王都の地下に眠る古代の防衛兵器『風の神殿』を強制起動させたのだと思われます。王都に溜まった瘴気を強引に吹き飛ばし、周辺の魔物を巻き込んで、この聖国へ向かって押し流しているのです」
私は息を呑んだ。
アーサー王太子が言っていた、「王国もこのまま黙って滅びを待つことはできない」という言葉が脳裏をよぎる。
まさか。
あの優しげな青年が、こんな非道な手段を?
「アーサー殿下の独断とは思えません。焦った国王か、あるいは強硬派の貴族たちが暴走したのでしょう」
ルシアンは私の内心を見透かしたように言った。
「奴らの狙いは明白です。この規格外の瘴気と魔物の群れをぶつければ、いかに貴女の結界といえど魔力を消耗し、破綻する。……結界が消えた後、疲弊しきった我々を王国の正規軍で叩き潰し、湖を制圧する腹積もりでしょう」
あまりの浅ましく、自己中心的な策に、私は怒りよりも先にめまいを覚えた。
自分たちの都を守るため、そして私から湖を奪うために、致死の瘴気を領土中に撒き散らしているのだ。
あの黒い津波の通り道にある王国の辺境の村々がどうなるかなど、彼らは少しも考えていない。
「……助けて! 開けてくれぇっ!!」
悲痛な叫び声が、神域の結界の外側から響いた。
黒い津波から命からがら逃げてきた周辺の村の農民たちが、透明な壁をドンドンと叩き、涙ながらに救いを求めている。
その背後には、赤黒い目を血走らせた魔物の群れが、もう数キロ先まで迫っていた。
「ライラ様」
ルシアンが、スッと私の前に立ち塞がった。彼の手には、すでに黒い大剣が握られている。
「この結界の強度なら、あの津波をやり過ごすことは十分に可能です。ですが、外の難民を中に入れるために結界を解けば、その隙に瘴気と魔物が雪崩れ込んできます」
ルシアンは冷酷な事実を告げた。
「彼らは見捨てましょう。我が主の安全を脅かすリスクは、一切排除すべきです。私が結界の外に出て、群れを一掃してきます」
ルシアンなら、本当に十万の群れに一人で突っ込み、血の海を造り上げて帰ってくるだろう。
だが、彼がいかに強かろうと、形のない「瘴気の雲」まで斬ることはできない。外に出れば、逃げ遅れた難民たちは確実に瘴気に飲まれて死ぬ。
「……ダメよ」
私は、震える両手を強く握り締め、ルシアンの背中を押しのけて前へ出た。
「見捨てるなんて、絶対にしない。そんなことをしたら、泥水を見捨てて高台に逃げたあの王族たちと同じになってしまう」
「ですが、結界を開けば……!」
「開かないわ」
私は、迫り来る黒い津波と、絶望に泣き叫ぶ難民たちを見据えた。
「開かずに……『広げる』のよ。この神域を、彼らを包み込むところまで」
「なっ……!?」
ルシアンが驚愕に目を見開いた。
結界を維持するだけでも莫大な魔力が必要だ。それを、動的に拡張し、数万の難民と押し寄せる瘴気の波ごと覆い尽くすなど、神業を超えた狂気の沙汰だった。
「水精たち、聞いて!」
私は両手を空高く掲げ、自らの魂の奥底に眠る全魔力を解放した。
私の金糸の髪が、魔力の余波でふわりと空中に舞い上がる。
「ここは私の国。私の許しなく、一つの命も奪うことは許さない! ——『天を覆う水晶の盾』!!」
ピキィィィィィィィィンッ!!!!
空間が、甲高い悲鳴を上げた。
湖から無数の水柱が天に向かって撃ち出され、上空で弾けて広大な「水のドーム」を形成していく。
神域の境界線が、凄まじいスピードで外側へと拡大していく。
「あ、あああっ……!」
難民たちが悲鳴を上げて目を瞑った。
だが、彼らを呑み込んだのは死の瘴気ではなく、温かく、すべてを洗い流す清らかな水の結界だった。
直後。
ズドォォォォォォォォンッ!!!!
拡大した結界の表面に、十万の魔物の群れと、漆黒の瘴気の津波が激突した。
空が完全に黒に塗り潰され、太陽の光が遮られる。結界の外側で、無数の魔物たちが忌々しげに爪を立て、毒の雨を降らせているのが見えた。
「くっ……!」
私は膝をつきそうになり、必死に踏み止まった。
凄まじい重圧。何十頭もの象に同時に踏みつけられているような、魂が削られるような負荷。鼻血がツーと垂れ、全身の骨が軋むような痛みに襲われる。
「ライラ様っ!!」
ルシアンが慌てて私を抱きとめた。
「無茶です! これほどの規模の結界を維持し続ければ、貴女の命が……!」
「大丈夫……、まだ……いけるわ」
私は荒い息を吐きながら、ルシアンの腕の中で不敵に笑ってみせた。
「王国が、自分たちの都合で命を切り捨てるというなら……私は、その切り捨てられた命を全部拾ってあげる。全部救って、全部私のものにして、王国の王座を空っぽにしてやるわ」
その言葉は、もはや聖女の慈悲ではなく、怒りに燃える女王の傲慢さだったかもしれない。
だが、私を抱きとめるルシアンの顔を見た瞬間、私は彼の表情に釘付けになった。
「あ、ああ……」
ルシアンは、震えていた。
恐怖からではない。彼の紫水晶の瞳には、狂わんばかりの恍惚と、底なしの愛欲が渦巻いていたのだ。
「なんという……なんという強欲。世界中のすべての命を、ご自身のものになさると? 神の如き慈悲と、悪魔の如き傲慢。……素晴らしい。ああっ、本当に、貴女という方は……!」
ルシアンは私の額に、熱病に浮かされたように何度も口付けを落とした。
「わかりました。貴女がすべてを救うと仰るなら、この結界は『方舟』です。……ならば私は、方舟に群がる害虫どもを、一匹残らず駆除してまいりましょう」
ルシアンが立ち上がる。
その背中から、どす黒い、それこそ外の瘴気すらも霞むほどの異常な殺気と魔力が噴れ上がった。
「私の命を削って、貴女の魔力を補填します。結界の一部に、私だけが通れる『穴』を開けてください」
「ルシアン……十万の魔物よ!? いくらあなたでも……」
「我が主が命を削っているのに、私が安全な場所で剣を振るっていては、罰が当たります」
ルシアンは妖艶に微笑み、血に飢えた大剣を肩に担いだ。
「それに、ちょうど腹が立っていたところなのです。……貴女が創り上げたこの美しい景色を、薄汚い泥で汚そうとする、愚かな王国に」
彼が結界の縁へ向かって歩き出すと、避難してきていた難民たちや村人たちが、息を呑んで道を空けた。
漆黒の騎士が、絶対防壁の前に立つ。
「開けてください、ライラ様」
私は深く息を吸い込み、彼の前方の結界のみ、ほんの一瞬だけ解除した。
ドッと流れ込んでこようとする瘴気の波を、ルシアンは凄まじい咆哮と共に大剣で薙ぎ払った。
「さあ、塵芥ども……! 我が主の絶対の領域で、絶望を味わえ!!」
結界の外へ飛び出した一人の黒騎士と、十万の魔物の軍勢。
聖国アトウッドの存亡をかけた、狂気の防衛戦が幕を開けた。




