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祈りの方舟

結界の外は、文字通りの地獄だった。


赤黒い瘴気が視界を塞ぎ、呼吸をするだけで肺が焼け焦げるような猛毒の大気。その中を、正気を失い、肉体を異形へと変異させた数万の魔物たちが、津波のように押し寄せてくる。


だが、その地獄の中心で。

一人の黒い影が、まるで優雅なダンスを踊るかのように、血の飛沫しぶきを咲かせていた。


「ハッ、ハハハハハハッ!! 遅い、遅いぞ塵芥ども!! 貴様らのその程度の殺意で、我が主の国に踏み入ろうなどと、片腹痛い!」


ルシアンの大剣が一閃するたびに、十匹、二十匹の魔物が紙屑のように両断され、宙を舞った。

彼の紫水晶の瞳は、底知れぬ狂気と歓喜に赤く燃え上がっている。返り血を浴び、漆黒の鎧を濡らしても、彼の刃は一瞬たりとも止まらない。


三つ首の巨大な狼の魔物が、ルシアンの背後から襲いかかる。

しかしルシアンは振り返りもせず、空いた左手で狼のあごを鷲掴みにすると、そのまま強引に引き裂いた。


「我が主は、貴様らのような醜い泥蟲どろむしを受け入れるとおっしゃった。あの無限の慈悲……思い出すだけで身の毛がよだつほどの感動だ」

ルシアンは魔物の心臓を握り潰しながら、恍惚こうこつとした吐息を漏らす。


「だが私は違う。私は彼女の『剣』。彼女の美しい手を汚す害虫は、私がこの手で一匹残らず鏖にする。……さあ、次の肉塊はどいつだ!」


ルシアンから放たれる魔力が、竜巻となって魔物の群れを吹き飛ばしていく。

十万という圧倒的な数。だが、ルシアンというたった一つの「死の特異点」の前に、群れは確実に削り取られていた。


「ぐっ……、はぁっ、はぁっ……!」

一方、結界の内側で、私は自らの命をすり減らすような激痛に耐えていた。


ルシアンがどれほど魔物を減らそうと、結界全体に叩きつけられる瘴気の波と、物理的な質量による圧力は消えない。

私の体から限界を超えた魔力が絞り出され、両耳から一筋の血が垂れた。視界がグラグラと揺れ、意識が何度も闇に引きずり込まれそうになる。


「聖女様っ! もうやめてください、このままではあなたが死んでしまう!」

「俺たちを外に出してください! これ以上、俺たちのせいで聖女様を……!」


結界の中に逃げ込んできた難民たちが、私の凄惨な姿を見て泣き叫んだ。

しかし、私は歯を食いしばり、決して天に掲げた両手を下ろさなかった。


「……ダメ、よ。ここで私が倒れたら、外で戦っている彼が……帰る場所を、なくしてしまう」


ルシアンは、私のために命を懸けている。

ならば私は、彼が安心して背中を預けられる「絶対の盾」であり続けなければならない。


(負けない。王国の身勝手な悪意なんかに、絶対に……!)

私が再び力を込めようとした、その時だった。


「——兄弟たちよ! 今こそ、我らの真なる信仰を示す時だ!!」


大気を震わせるような声が響いた。

振り返ると、元・異端審問官の男たちが、泥だらけの麻服のまま、私の背後に整然と並び、地面に両膝をついていた。

彼らだけではない。村の住人たちも、助けられた難民たちも、誰も彼もが互いの手を強く握り合い、私に向かって祈りの姿勢をとっていた。


「教会が我らを見捨てた時、王国が我らを切り捨てた時、我らを抱き留めてくださったのは誰か! 我らの罪をゆるし、泥を啜る日々に終止符を打ってくださったのは誰か!」

「聖女・ライラ様なり!!」

数千人の声が、一つの巨大なうねりとなって神域に響き渡る。


「今、我らの主が痛みに耐えておられる! ならば我らは、その痛みを分かち合おう! 魂を捧げよ! 祈りを魔力に変え、我が主の盾となれ!!」


彼らが一斉に祈りの言葉を紡ぎ始めた瞬間。

信じられないことが起こった。


「え……?」

彼らの体から、淡い金色の光の粒子が立ち昇り始めたのだ。

その光は幾千の束となって私の背中へと流れ込み、枯渇しかけていた私の魔力回路を、優しく、力強く満たしていく。


『ライラ様、これが彼らの『信仰心』です』

私の頭の中に、湖の水精ウンディーネたちの声が響いた。

『人が真に何かに救われ、見返りを求めずに祈りを捧げる時、その魂の共鳴は神聖なる魔力へと昇華されます。……彼らは今、文字通り自分の命の欠片を、あなたに捧げているのです』


全身の痛みが嘘のように消え去り、代わりに内側から爆発的な力が湧き上がってくる。

一人では支えきれなかったはずの重圧が、数千人の手によって背中を支えられているかのような安心感に変わった。


「……ありがとう。みんな」

私は涙を拭い、両手に満ちた光の魔力を、上空の結界へと一気に解き放った。


「『天を覆う水晶の盾」


神域を覆っていた水のドームが、神々しい金色の光を放ち始めた。

結界の表面に取り付いていた魔物たちが、その光に触れた瞬間、悲鳴を上げて浄化され、灰となって消え去っていく。

上空を覆っていた赤黒い瘴気の雲すらも、光の結界に弾き返され、チリヂリに霧散し始めたのだ。


「——?」

結界の外で、魔物の死骸の山の上に立っていたルシアンが、背後から放たれた圧倒的な光を振り返り、歓喜に頬を歪めた。


「ああ……なんという美しさだ。貴女はやはり、私の思い描いた通りの、絶対の神に等しいお方だ」


ルシアンは空を見上げた。

瘴気の雲が散り、その中心にあった「核」——王都から放たれた魔力誘導の要である、巨大な魔石の塊が、空中に露出していた。


「主が舞台を整えてくださった。ならば、最後の一撃は私が」

ルシアンは両手で黒い大剣を構え、深く腰を落とした。

彼の全身から立ち昇る殺気が、刃に収束し、一本の巨大な黒い槍へと姿を変える。


「消し飛べ!」


ルシアンが大地を蹴り、空を割るような跳躍を見せた。

放たれた漆黒の刃は、残存していた数万の魔物の群れを一直線に切り裂き、上空の「魔石の核」へと突き刺さった。


巨大な爆発音と共に、魔力誘導の核が粉々に砕け散った。

核を失った瘴気はコントロールを失い、ただの薄い毒霧となって風に流されていく。統率を失った魔物たちも、ルシアンの圧倒的な力と結界の光に恐れをなし、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。


——静寂が戻ってきた。


数時間ぶりに、太陽の光が神域の湖畔に降り注ぐ。

黒い津波は完全に去り、後に残ったのは、ルシアンが築き上げた魔物の死骸の山だけだった。


「終わった……」

私が両手を下ろすと同時に、数千人の民衆から、地鳴りのような歓声が上がった。

皆が抱き合い、涙を流し、生きてこの惨劇を乗り越えられた奇跡を喜び合っている。


結界の一部を開くと、血と泥にまみれたルシアンが、ゆっくりと歩いて帰ってきた。


「ルシアン……!」

私は周りの目も気にせず走り出し、彼の大きな体に飛びついた。

鉄の匂いと、酷い血の匂いがした。だが、私にとってそれは、何よりも安心する匂いだった。


「ただいま戻りました、ライラ様。……お怪我はありませんか」

ルシアンは私の背中に回そうとした手を止め、自身の血で私を汚さないように配慮しながら、優しく微笑んだ。


「馬鹿ね、私は結界の中にいたのよ。無茶をしたのはあなたの方じゃない」

私は彼の手を強引に引き寄せ、私の背中に回させた。

「無事でよかった……。本当に、死ぬかと思ったんだから」


「私が貴女を置いて死ぬはずがありません」

ルシアンは私の耳元で、甘く、だがどこか恐ろしい響きを帯びた声で囁いた。

「ですが……王国は一線を越えました。彼らは、あわよくば貴女を殺す気で、この災厄をけしかけたのです」


「……ええ」

私はルシアンの胸から顔を上げ、南東の空——王都がある方角を冷たく見据えた。


これまでは、降りかかる火の粉を払うだけだった。

王国が勝手に自滅していくのなら、この神域で静かに暮らしていればいいと思っていた。


しかし、彼らは自分の命を繋ぐために、何の罪もない辺境の民を犠牲にし、私の楽園を力尽くで奪い取ろうとした。

これが、アーサー王太子や国王が下した「最善の策」だというのなら。


「彼らに国を治める資格はないわ」

私の静かな、しかし確かな怒りの声に、ルシアンが歓喜の笑みを浮かべた。


「では、ついに王都へ進軍を?」

「ええ。この神域を真の『聖国』として確定させるためには、腐りきった王国の権威を、根本から叩き潰す必要がある」


私は振り返り、私を見つめる数千の民衆に向かって宣言した。


「みんな、聞いて! 私たちは今日、王国の悪意を退けた。だが、根本の悪を断たない限り、平和は訪れない。……私は、エルディア王国との決別を宣言する。そして、王都の地下で瘴気を生み出している根源を、私自身の手で浄化しに行く!」


オオオォォォォォッ!!

民衆が剣や鍬を掲げ、熱狂的な叫び声を上げた。

もはや誰も、王国という名ばかりの権威など恐れてはいなかった。彼らの前には、死の災厄すらも退けた本物の神が立っているのだから。


「さあ、ルシアン。剣を研ぎなさい」

私はルシアンの血塗られた頬にそっと手を添え、不敵に微笑んだ。


「王座を引きずり下ろしにいくわよ」

「御意のままに。——我が絶対の女王陛下」


ルシアンがその場にひざまずき、私の手の甲に誓いの口付けを落とす。


防衛戦は終わった。

次なる舞台は、腐敗の温床たる王都。

聖女と黒騎士の、王国に対する「逆襲」の火蓋が、今、切って落とされた。

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