崩れゆく王都
「我らも共に参ります、聖女様! 我が血肉を、王国の邪悪なる者どもを討つための礎としてください!」
神域の湖畔は、異常な熱気に包まれていた。
王都へ向かうと宣言した私に対し、元・異端審問官たちや村の若者たちが、手製の槍や鍬を握りしめ、血走った目で進軍への参加を志願してきたのだ。
彼らの信仰心と熱量は本物だ。もし私が頷けば、彼らは一切の恐怖を抱くことなく、笑顔で王国の正規軍に突撃し、喜んで死んでいくだろう。
だが、私は静かに首を振った。
「気持ちは嬉しいわ。でも、あなたたちはこの神域に残ってちょうだい」
「な、なぜですか!? 我らの信仰が足りぬと仰るのですか!」
「違うわ。あなたたちは、私にとって何よりも大切な『宝』だからよ」
私は、興奮して前に出ようとする男たちの前に立ち、その荒れた両手を優しく包み込んだ。
「あなたたちが流す血の一滴すら、私は惜しいの。……王国がどれほどの軍勢を揃えようと、私とルシアンがいれば十分に制圧できる。だから、あなたたちはここで畑を耕し、家族を守り、そして……私に『祈り』を捧げ続けて。あなたたちの祈りがある限り、私は絶対に負けないから」
その言葉に、男たちの目からボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
「おおお……! なんという慈愛……。聖女よ、我らの聖女よ……!」
「わかりました! 我らはこの地で、魂を擦り減らすほどに祈りを捧げ、聖女様の背中をお守りいたします!」
民衆がその場にひれ伏し、一斉に祈りの言葉を紡ぎ始める。
彼らの体から立ち昇る淡い金色の光——純粋な信仰心による魔力の供給が、見えない糸となって私の心臓に繋がり、無限の活力を与えてくれるのを感じた。
「……見事な手綱捌きですね。狂信の刃をあえて手元に置き、無尽蔵の魔力タンクとして運用するとは」
隣に立つルシアンが、うっとりとした目で私を見下ろした。
「あれだけの狂徒を連れ歩けば行軍の足手まといになりますし、無駄死にさせれば後味が悪い。理にかなった素晴らしいご判断です」
「……ルシアン、あなた本当に性格悪いわね」
私は呆れたようにため息をついた。私は純粋に彼らを死なせたくなかっただけなのに、この黒騎士の脳内では私が冷酷で合理的な支配者に変換されているらしい。
「さあ、行きましょうか。主の御成りに相応しい『玉座』は、私がご用意いたしました」
ルシアンが恭しく手を差し出す。
彼が指し示した湖面には、水精たちが氷と水流を複雑に編み上げて創り出した、透き通るような巨大な「氷の馬車」が浮かんでいた。それを牽くのは、馬ではなく、魔力で形作られた二頭の巨大な水竜だ。
そしてルシアン自身は、王国の厩舎からかつて奪ってきた漆黒の軍馬に跨っている。
「私の命を狙った愚か者どもに、地獄の底まで続く赤い絨毯を敷いてご覧に入れましょう」
「殺しは最低限にしてね。私たちが落とすべきは、兵士の首じゃなくて王冠よ」
私が氷の馬車に乗り込むと、水竜が低く咆哮を上げ、王都へ向けて滑るように進み始めた。
聖女と黒騎士。たった二人(と水精たち)による、王都への逆襲の進軍が始まった。
────
同じ頃、エルディア王国・王都の中枢は、かつてないほどの絶望と混乱の底に沈んでいた。
「馬鹿な……十万の群れだぞ!? 高濃度の瘴気ごと、奴らの結界に直撃させたのだぞ!? なぜ奴らは生きている!?」
玉座の間で、豪奢な王衣を乱した国王が、ヒステリックに叫び声を上げていた。
「へ、陛下……。王都の地下の『風の神殿』の術式が逆流し、観測の水晶が砕け散りました。……誘導の核であった魔石が、何者かによって物理的に粉砕されたものと……」
震え上がる宮廷魔術師の報告に、国王は玉座に力なく崩れ落ちた。
自らの身を守るため、そして目障りな聖女の楽園を奪うために、王国は禁忌の防衛兵器を起動した。辺境の村々がどうなろうと知ったことではない。十万の魔物が結界を破り、聖女を疲弊させたところを正規軍で叩く。それが、老いた国王と強硬派の貴族たちが立てた「完璧な策」だった。
だが、結果はどうだ。
十万の群れは一人の黒騎士によって翻弄させられ、瘴気の波は聖女の神々しい光によって完全に浄化されてしまった。
「だから申し上げたではありませんか、父上」
静まり返った玉座の間に、冷たく、だが深い悲哀を帯びた声が響いた。
アーサー王太子だった。彼はすでに銀色の甲冑を身に纏い、腰に王家伝来の聖剣を下げていた。
「あの方は、武力や策で屈服させられる相手ではないと。私設の異端審問局ですら寝返るほどの、本物の『奇跡』なのだと。……父上方の浅ましい悪意が、ついに眠れる神の逆鱗に触れたのです」
「黙れアーサー! 余を愚弄するか!」
国王が血走った目で息子を睨みつける。
「近衛騎士団はまだ残っておる! 王都の城壁は鉄壁だ! たかが小娘一人と狂犬一匹、城門の前で生贄にしてくれるわ! 全軍に防衛態勢を敷かせよ!!」
王の狂乱に、アーサーはただ重く、暗い溜息を吐いた。
(すでに遅い。王都の民は、自らの真上にあった瘴気の雲が吹き飛ばされた光景を見ている。そして、その光が『聖国』の方角から放たれたことも。……民の心は、もう王家にはない)
アーサーは踵を返し、玉座の間を後にした。
彼にできることは、もはやただ一つ。次期国王としての意地と命を懸けて、かつての友であった黒騎士と、畏怖すべき聖女の前に立ち塞がることだけだった。
────
王都の巨大な正門の前には、八千を超える完全武装の近衛騎士団と王国兵が、幾重にも防衛線を敷いていた。
城壁の上には無数の弓兵が並び、巨大なバリスタ(弩砲)が、真っ直ぐに街道の先へと向けられている。
「……来るぞッ!!」
見張り台の兵士が悲鳴のような声を上げた。
街道の彼方から、陽炎を揺らして「それ」は現れた。
透き通るような二頭の水竜が牽引する、美しい氷の馬車。その横を悠然と並走する、漆黒の馬に跨った黒騎士。
たったそれだけ。軍隊はおろか、従者の姿すらない。
だが、彼らが近づくにつれ、王国兵たちの顔からはみるみるうちに血の気が引いていった。
「な、なんだあの魔力は……」
「息が……できない……ッ」
距離が縮まるごとに、空気が変わる。
氷の馬車に乗るライラから放たれる、圧倒的で清らかな「神気」。それは、罪深き者にとっては、自らの醜さを強制的に突きつけられる恐ろしい審判の光に等しい。
さらに、その隣の黒騎士から放たれるのは、神気とは真逆の、ドス黒く冷酷な「殺意」だった。
神のような威圧と、悪魔の殺気。
その二つの波動が複雑に絡み合い、兵士たちの戦意を根こそぎ刈り取っていく。
「構えろ! 弓兵、放てぇぇぇっ!!」
恐怖に耐えきれなくなった指揮官が、絶叫と共に号令を下した。
ビュンッ! という風切り音と共に、数千の矢が空を覆い尽くし、雨のように私たちへと降り注ぐ。
「……無駄なことを」
ルシアンが剣を抜こうとしたが、私は彼を手で制し、静かに指を鳴らした。
——パチン。
その瞬間、私たちの頭上に落ちてくるはずだった数千の矢が、空中でピタリと静止した。
矢の先端、鉄の鏃の部分が、突如として空中に現れた「水球」に包み込まれたのだ。
「なっ……!?」
城壁の上の兵士たちが驚愕に目を見開く。
「お返しします。刃は抜いて」
私が指先を軽く払うと、水球に包まれた数千の矢が、そのままの勢いで城壁の兵士たちに向かって跳ね返っていった。
「ひぃっ!? 盾を構えろ!!」
パニックに陥る兵士たち。だが、彼らを襲ったのは鋭い痛みではなかった。
鏃を水球に包まれた矢は、兵士たちの兜や胸当てにボコンッ、ボコンッと鈍い音を立ててぶつかり、彼らを無傷のまま城壁の床へと転がしたのだ。
「誰も殺さない。けれど、抵抗するならその武器の無力を思い知りなさい」
私の声は、魔力に乗って王都の正門一帯に響き渡った。
私は氷の馬車からゆっくりと立ち上がり、右手を前にかざした。
「開けなさい」
私の意志に呼応するように、王都の地下水路と堀の水が爆発的に膨張し、巨大な城門の裏側に回り込んだ。
閂を水圧で破壊し、鉄の蝶番を瞬時に錆びつかせ、分厚い鋼鉄の門扉を内側から強引に押し開いていく。
王国が誇る難攻不落の正門が、たった一人の魔法によって解放された。
「あ、あああ……」
「化け物だ……神の怒りだ……!」
防衛線を敷いていた兵士たちは、神の天罰を恐れ、もはや剣を握ることすらできず、次々とその場にへたり込み、武器を放り出した。
完全に開け放たれた王都への道。
だが、その土煙の向こう側に、ただ一人だけ、逃げずに立っている人影があった。
「——ここから先へは、通さない」
銀色の甲冑を纏い、王家伝来の聖剣を抜き放ったアーサー王太子。
彼の青い瞳は、絶望と覚悟が入り混じった、痛々しいほどの決意に満ちていた。
「来たか、アーサー」
ルシアンが、漆黒の馬からゆっくりと降り立ち、愛用の黒い大剣を肩に担いだ。
彼の顔には、かつての主に対する未練など微塵もない。あるのは、獲物を前にした極上の捕食者の笑みだけだった。
「ライラ様。どうか、この獲物は私にお譲りください」
「……殺してはダメよ、ルシアン」
「分かっておりますが、約束はできません。加減の効く相手ではないので。ただ、二度と貴女に牙を剥けぬよう、その高慢な『両腕』と『王の誇り』だけを切り落としてご覧に入れましょう」
土煙が晴れ、王都の門跡で対峙する、かつての友にして、光と闇に分かれた二人の騎士。
聖国と王国の命運を懸けた最後の戦いが、今、幕を開けようとしていた。




