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「聖国アトウッド」の建国宣言から数日が過ぎた。

朝靄あさもやが晴れゆく湖の岸辺には、にわかには信じがたい光景が広がっていた。


湖畔を囲むように、真っ白な石造りの簡素な家屋がいくつも建ち並び、その裏手には豊かな黒土が広がる畑が開墾されていたのだ。

家も、畑も、すべて私が水精ウンディーネたちの力を借りて一晩で創り出したものだ。瘴気に汚染されていない純粋な水と魔力を含んだ土壌は、いた種をわずか数日で大人の背丈ほどに成長させるという、恐るべき豊穣ほうじょうの奇跡を起こしていた。


「聖女様! 見てください、トマトがこんなに赤く実りました!」

「こっちの麦も、もう穂が垂れています! これで今日から、子供たちに腹いっぱいパンを食わせてやれます!」


バルコニーから岸辺へ降り立った私を囲むように、難民たちが歓喜の声を上げて集まってくる。

数日前まで泥にまみれ、死んだような目をしていた彼らの顔には、今や太陽のような明るい笑顔と生気が満ちていた。継ぎ接ぎのボロ布は水精たちが織り上げた清潔な麻の服に変わり、誰もが自分の役割を見つけて生き生きと働いている。


「ふふ、良かったわね。でも、採りすぎには注意してね。土にも休息が必要だから」

「はいっ! 聖女様の教え通り、大切に育てます!」


私は微笑みながら、彼らが籠いっぱいに収穫した瑞々しい野菜を見つめた。

かつての成金の父なら、これらをすべて自分のためだけに独占し、彼らを奴隷のようにこき使っただろう。あるいは、ただ食料を与え続けるだけの「施し」で彼らを骨抜きにし、依存させていたかもしれない。

だが、私は彼らに「生きる術」を与えた。

家と畑を与え、農作業のやり方を教え(私も貧乏農家として二年間泥にまみれた経験が、こんなところで役に立つとは思わなかった)、自分たちの手で明日を切り拓く喜びを思い出してもらったのだ。


「ライラ様」


少し離れた木陰から、漆黒の騎士服に身を包んだルシアンが静かに歩み寄ってきた。

彼が近づくと、難民たちは弾かれたように道を空け、深々と頭を下げる。彼らにとってルシアンは、聖女である私を守る「畏れ多き黒き剣」であり、同時にどんな魔物や外敵よりも恐ろしい絶対的な監視者だった。


「ルシアン。パトロールから戻ったの?」

「はい。結界の異常はありません。水鏡の監視網にも、王国の軍勢の気配は皆無です」


ルシアンは私の前に片膝をつき、いつものように恭しく私の手を取った。

「それにしても……貴女は本当に、底知れぬお方だ。ただ水と食料を与えるだけでなく、彼らに『誇り』を取り戻させるとは」

「誇りがないと、人は簡単に折れてしまうもの。私がそうだったから、よく分かるのよ」


私が答えると、ルシアンはアメジストの瞳を細め、愛おしげに私の指先に口付けた。

「彼らも理解しているはずです。この平和が、貴女の慈悲の上にのみ成り立っている砂上の楼閣であると。もし怠惰に溺れるようなことがあれば、私が直ちに湖の底へ沈めてやりますが」

「もう、すぐそうやって脅すんだから」


私が苦笑して彼の肩を軽く叩くと、ルシアンは悪びれる様子もなく立ち上がった。

彼が厳格な「悪役」を演じてくれているおかげで、私はただの「優しい聖女」でいられる。彼の不器用な優しさに、私はどれほど救われているか分からない。


「聖女様っ!」


その時、小さな足音が駆けてきた。

数日前、瘴気に侵されて死にかけていた小さな男の子——レオだ。

顔の半分を覆っていた毒々しいあざはすっかり消え去り、今では林檎りんごのように赤い頬をした元気な子供に戻っている。


「どうしたの、レオ?」

私が屈み込むと、レオは背中に隠していた両手をパッと前に突き出した。


「これ、聖女様にあげる!」

彼の手の中にあったのは、湖畔に咲く小さな白い花を編み込んで作った、不格好な花冠だった。


「母ちゃんと一緒に作ったんだ。聖女様は、世界で一番綺麗だから、お花が似合うって!」

「まあ……!」


私は目を見開いた。

歪で、所々茎が飛び出している、子供の拙い手作りの花冠。金銭的な価値など皆無に等しい。

けれど、私にとっては、かつて母が狂ったように集め、そして持ち逃げしていったどの宝石よりも、眩しく、温かく輝いて見えた。


「ありがとう、レオ。とっても嬉しいわ」

私が身を屈めると、レオは背伸びをして、私の金色の髪の上にそっと花冠を乗せてくれた。


「えへへ、やっぱり似合う! お兄ちゃんもそう思うでしょ?」

レオが無邪気にルシアンを見上げると、周囲の大人たちが「ヒッ」と息を呑んだ。あの冷酷無比な黒騎士に、子供とはいえ気安く話しかけるなど自殺行為に等しいと思ったのだろう。


ルシアンは一瞬、目を丸くして虚を突かれたような顔をした。

しかし、すぐに口元に微かな、けれど確かな笑みを浮かべた。


「……ええ。世界中のどんな王冠よりも、我が主に相応しい。よくやりましたね、小さな騎士殿」

ルシアンが大きな手でレオの頭をポンと撫でると、周囲の大人たちからホゥッと安堵の溜息が漏れた。


「私、これを一生の宝物にするわ」

私が花冠にそっと触れて微笑むと、難民たちから温かい拍手が巻き起こった。


お金も、権力も、恐怖で縛り付ける力もいらない。

誰かを思いやり、誰かから感謝される。そんな当たり前の温もりが、今の私にとっては最高の贅沢だった。

この小さな楽園を、私は絶対に守り抜いてみせる。そう強く心に誓った。


——だが。

光が強ければ強いほど、そこに生じる闇もまた、色濃く、深く沈み込むものだ。


同じ頃。

神域の湖から遥か遠く離れた、王都のレヴェナント公爵邸。


豪奢な調度品で飾られた執務室は、嵐が過ぎ去った後のように荒れ果てていた。

砕け散った高価な壺、引き裂かれた絵画。そして、執務机の奥で、黄金の甲冑を脱ぎ捨てたクロード公爵が、血走った目で荒い息を吐いていた。


「おのれ……! おのれおのれおのれええええっ!!」

バンッ! と机を叩き割らんばかりの勢いで拳を振り下ろす。


「この私が! 王国筆頭公爵たるこの私が、泥水に塗れ、一介の小娘と狂犬の前に屈しただと!? 許さん……絶対に許さんぞ、ライラ・アトウッド!!」


近衛騎士団を無傷で制圧された屈辱は、公爵のプライドを粉々に打ち砕いていた。

武力による制圧は不可能。あの「水壁」と、狂犬ルシアンの超絶的な剣技を突破できる軍隊など、この大陸には存在しない。それは公爵自身が誰よりも痛感していた。


「……公爵閣下。随分とご立腹のようで」


不意に、部屋の隅の影が揺らぎ、声が響いた。

窓も扉も閉まり切っている密室に、いつの間にか一人の人影が立っていた。

全身を灰色のローブで覆い、顔の上半分を奇妙な蜘蛛の巣の仮面で隠した、性別すら定かではない細身の人物。


「チッ……『毒蜘蛛』か。入る時はノックをしろと言っているだろう」

公爵は舌打ちをして、忌々しげに相手を睨んだ。


『毒蜘蛛』——王国の裏社会を牛耳り、暗殺、諜報、破壊工作を請け負う闇のギルドの長。公爵が汚れ仕事を行わせるための、最も有能で、最も危険な手駒だった。


「そんな無粋な真似、私の性に合いませんでね。……それより、大方のご用件は察しがついておりますよ。あの『湖の聖女』とやらの件でしょう?」

毒蜘蛛の仮面の奥で、愉悦に歪んだ目が光った。


「そうだ」

公爵はギリッと奥歯を鳴らした。

「奴らは私の顔に泥を塗った。もはやあの湖の利権などどうでもいい。あの生意気な小娘を、絶望のどん底に引きずり下ろし、泣き叫ばせながら殺したい。……武力が通じないのなら、お前たちのやり方で内側から崩せ」


「内側から、ですか。……なるほど」

毒蜘蛛はくつくつと喉の奥で笑った。

「強固な城壁も、無敵の狂騎士も、外からの攻撃には無類の強さを誇るでしょう。しかし、主君の『慈悲』という甘い弱点につけ込めば、毒を回すのは容易いことです」


「小娘は数日前、難民どもを受け入れ、庇護下に置いたという情報が入っている。お前たちのギルドの人間を難民に偽装させ、あの結界の中へ潜り込ませろ。そして……」

公爵の顔に、悪辣あくらつな笑みが浮かぶ。


「小娘の信頼を勝ち取り、あの狂騎士の目を盗んで、確実に小娘の息の根を止めろ。見事やり遂げれば、報酬は望むままにくれてやる」


「承知いたしました。温室の聖女様に、本物の『人間の悪意』という致死毒をたっぷりと味わわせて差し上げましょう。……数日後を、お楽しみに」


影が揺らぎ、毒蜘蛛の姿は煙のように執務室から掻き消えた。

後に残された公爵は、狂気を孕んだ目で王都の空を睨みつけ、低く歪んだ笑い声を上げた。


再び、神域の湖。

太陽が中天に差し掛かった頃、結界の最外周を警戒していた水精ウンディーネの一人が、バルコニーにいた私の元へふわりと舞い上がってきた。


『主様。岸辺に、新たな巡礼者たちが参りました』

水精の透き通るような思念が、直接脳内に響く。


「本当? ルシアン、水鏡を出して」

「……御意」


ルシアンが少しだけ不機嫌そうに指を弾くと、バルコニーの空間に水鏡が展開された。

そこに映っていたのは、数日前の難民たちと同じように、泥にまみれ、ボロボロの衣服を纏った二十人ほどの集団だった。彼らもまた、瘴気の呪いに苦しみ、湖の水を求めて倒れ伏している。


「また難民ですね。どうやら、本当にここは『聖国』として噂が広まってしまったらしい。……どうされますか、ライラ様」

ルシアンは疑り深い目で水鏡を睨みつけながら尋ねた。


「もちろん、受け入れるわ。彼らも助けを求めているんだもの」

「……そう仰ると思いました。ですが、念のため私が直接出向き、一人残らず素性を尋問してから結界内へ入れます。王国のスパイが紛れ込んでいる可能性もゼロではありませんから」

「もう、心配性なんだから。でも、分かったわ。あなたに任せる」


私は彼に微笑みかけ、彼を岸辺へと送り出した。

ルシアンの警戒は正しい。外の世界には悪意が満ちている。けれど、だからといって目の前で苦しんでいる人を見捨てることは、私にはできないのだ。


数十分後。

ルシアンの厳しい尋問をパスした新たな難民たちが、水晶の橋を渡って村へと案内されてきた。

先に定住していた難民たちが、温かいスープを持って彼らを出迎えている。その光景をバルコニーから見下ろしながら、私は胸を撫で下ろした。


——だが、私は気づいていなかった。


スープを受け取りながら、感涙にむせび泣いている新参の難民たち。

その集団の最後尾で、深くフードを被った小柄な人物が、私とルシアンの姿をジッと見上げていたことを。


その人物の口元が、一瞬だけ、三日月のように歪に吊り上がったことを。


外からのいかなる暴力も弾き返す神が与えてくれた完璧な鳥籠に、今、音もなく一滴の「猛毒」が垂らされようとしていた。

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