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燃えるような夕陽が、広大な湖面を赤く染め上げていた。

王国の誇る近衛騎士団を無傷で退け、圧倒的な力を見せつけたあの日から、一週間が経過していた。


私——ライラ・アトウッドの日常は、外の世界の喧騒けんそうとは裏腹に、驚くほど静かで穏やかなものだった。

朝は柔らかな日差しと共に目覚め、水精ウンディーネたちが用意してくれた極上の食事をいただく。日中は湖を見下ろす広大な図書室で、かつての自分には縁のなかった歴史や魔法についての書物を読みふけり、夕暮れ時にはルシアンと共に庭園を散策する。


それは、泥水をすすり、明日のパンに怯えていた二年前までの日々が、すべて悪い夢だったのではないかと錯覚してしまうほど、完璧に保護された楽園の生活だった。


しかし、私の心には常に、小さなとげのような緊張感が刺さったままだった。


「ライラ様。ハーブティーをお持ちしました。今日は少し冷えますから、蜂蜜を多めに入れております」

図書室のソファで微睡まどろみかけていた私の膝に、ふわりと温かいブランケットが掛けられる。

顔を上げると、いつものように漆黒の騎士服を隙なく着こなしたルシアンが、ティーカップを手に優しく微笑んでいた。


「ありがとう、ルシアン」

カップを受け取ると、甘く爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。一口飲むと、冷えかけていた体の芯からじんわりと温まっていく。


「……何か、ご心配事でも?」

私の微かな表情のかげりを読み取ったのか、ルシアンがソファの横に片膝をつき、アメジストの瞳で下から私を覗き込んだ。本当に、この過保護な騎士の前ではどんな小さな感情も隠し立てできない。


「心配というか……少し、不思議に思っていたの」

私は窓の外、赤く染まる対岸の景色へ視線を向けた。

「あの日、クロード公爵たちを追い返してから、外の世界が静かすぎないかしら。ギデオンのような商人や、別の貴族がまた攻めてきてもおかしくないと思っていたのに」


私の言葉に、ルシアンはフッと冷ややかな笑みをこぼした。

「無理もありません。王国最強の近衛騎士団と、最高位の攻城魔法陣が、たった一つの水壁に阻まれ、一滴の血も流せずに蹂躙じゅうりんされたのです。あの傲慢なクロード公爵が泥まみれで王都へ逃げ帰ったという事実は、どれほど隠蔽しようとも瞬く間に大陸中に知れ渡りました」

「じゃあ、みんな怖がっているのね」

「ええ。今の貴女は、外界の者たちにとって『神の力を振るう恐るべき湖の魔女』か、あるいは『決して手を出してはならない不可侵の聖域の主』です。よほどの愚か者でない限り、二度と武力でこの湖を奪おうなどとは考えないでしょう」


ルシアンは私の空いた手を取り、その指先にうやうやしく口付けを落とした。

「貴女は、ご自身の安寧を己の力で勝ち取られたのです。どうか、何の憂いもなく、この城で微笑んでいてください」


彼の言葉は甘く、心地よかった。

誰も私を傷つけない。誰も私から奪わない。成金の父がどれほど金と権力を積んでも手に入れられなかった「絶対的な安全」が、ここにはある。


——けれど、私はあの日、公爵に向かって宣言したのだ。

『武力を捨て、真に民を救いたいという祈りと共に頭を垂れるのなら、水を分け与える』と。

私が守りたかったのは、自分自身の安全だけではない。私と同じように、理不尽に虐げられ、飢えに苦しむ人々に手を差し伸べること。それが、私にこの力を与えてくれた神への、唯一の恩返しだと思っていた。


しかし、一週間経っても、祈りを捧げに来る者は誰もいなかった。

やはり、誰も私を信じてはいないのだろうか。「関わると不幸になる」というかつてのレッテルが、形を変えて私を孤立させているような気がして、胸の奥がチクリと痛んだ。


その時だった。


——カァァァン……。


城の尖塔から、侵入者を知らせる鐘の音が、ひどく弱々しく、単発で鳴り響いた。

軍隊が攻めてきた時のけたたましい連打とは違う。まるで、風に揺れて偶然鳴ってしまったかのような、か細い音だった。


「ルシアン!」

「下がっていてください、ライラ様」


ルシアンの目つきが一瞬にして猛禽もうきんのそれに変わり、剣の柄に手が掛かる。

私たちは足早にバルコニーへと向かい、水鏡を展開した。


そこに映し出されたのは、武装した兵士でも、欲に目の眩んだ商人でもなかった。


「これは……」

私は息を呑み、思わず水鏡に両手をついた。


湖の岸辺に倒れ込んでいるのは、十数人の集団だった。

身に纏っているのは、ギデオンの着ていた豪奢な毛皮とは対極にある、継ぎ接ぎだらけで泥にまみれたボロ布。足には靴すらなく、血が滲んでいる。

痩せこけ、土気色になった顔。中には、顔や腕に赤黒いあざ——ルシアンの首にあったのと同じ、瘴気しょうきによる呪いの侵食——が浮かび上がっている者もいた。


「瘴気から逃れてきた、難民たちですね」

ルシアンの声が、零下まで冷え切った。

「王都からあぶれ、汚染された大地を彷徨さまよい歩いてきたのでしょう。……チッ。どこで噂を聞きつけたのか知りませんが、不快な羽虫が寄り付いたものです」


「ルシアン! なんてことを言うの!」

私は彼を鋭く睨みつけた。

「彼らは軍隊じゃないわ。ただの、助けを求めている普通の人たちよ!」


「ライラ様、彼らの目をご覧ください」

ルシアンが指差した水鏡の向こう。倒れ伏した難民たちは、絶望に満ちた目で、遥か彼方に浮かぶ私たちの白亜の城を見つめていた。その手は、すがるように虚空へと伸ばされている。


「彼らは、貴女を神聖な存在として敬っているわけではありません。ただ、自分が助かりたいがために、奇跡の水を求めて這い寄ってきた亡者です。……かつて、貴女の父上に群がり、没落した途端に掌を返した村の寄生虫どもと何も変わらない。関われば、必ず貴女を汚す泥泥でいねいです」


ルシアンの言葉は、氷のように冷徹で、そしてある意味では真理を突いていた。

見返りを求めず、無条件の愛を捧げてくる者などいない。彼らは飢えを満たし、呪いを解くためにこの水を求めている。私が力を持っていなければ、見向きもしなかっただろう。

裏切られる恐怖。利用される恐怖。二年前のトラウマが、私の足に重い鎖を巻きつけようとする。


水鏡の中で、一人の女性が泥に顔を擦り付けながら、必死に声を振り絞っているのが見えた。

その腕の中には、瘴気の痣に全身を侵され、ピクリとも動かない小さな子供が抱かれていた。


『どうか……どうか、慈悲深き湖の主様……!』


声は結界に阻まれて届かないはずなのに、幻聴のように彼女の悲痛な叫びが私の耳に響いた。


『私の命はどうなってもいい……! この子だけは、この子にだけは、どうか奇跡のお水を……!』


——その姿が、二年前の嵐の夜、私の家の扉を叩いた老夫婦の姿と重なった。


あの時、私は迷った。自分の明日のパンさえ無いのに、見ず知らずの人間を助ける余裕なんてないと。

けれど、私は扉を開けた。自分の過去の痛みを、彼らに味わわせたくなかったから。


(私は、変わらない。どんな力を持っても、あの時の私を決して忘れない)


「……道を、開くわ」

私は水鏡から手を離し、静かに宣言した。


「ライラ様! 正気ですか!」

ルシアンが血相を変えて私の肩を掴んだ。

「あの者たちは瘴気を帯びています! 万が一、貴女のお体に障りでもあれば……!」


「私の手で、あなたの呪いを解いたことを忘れたの? 瘴気なんて怖くないわ」

私は彼の大きな手を、両手でそっと包み込んだ。

「ルシアン。あなたが私を心配してくれているのは分かってる。でも、あの人たちを見捨てたら、私はあの冷酷な村人たちや、クロード公爵と同じ穴のむじなに成り下がってしまう。私は、自分の誇りのために彼らを助けたいの」


私の真っ直ぐな視線に、ルシアンは息を呑み、そして苦しげに顔を歪めた。

彼は私が傷つくことを何よりも恐れている。けれど同時に、私のその「気高さ」を誰よりも崇拝してしまっているのだ。


「……っ。貴女という方は、本当に……」

ルシアンは深く息を吐き出し、諦めたように首を垂れた。

「御意のままに。ですが、彼らが貴女に指一本でも触れようとすれば、その瞬間に首をねます。それだけは譲れません」


「ふふっ。相変わらず物騒な騎士様ね。……さあ、行きましょう」


私は湖に向かって念じ、岸辺から城へと続く、幅の広い水晶の橋を架けた。

ギデオンたちを罠にかけた時のような細い道ではない。誰一人として足を踏み外すことのない、広く、穏やかな光を放つ慈愛の道だ。


私たちが橋を渡って岸辺へと近づいていくと、水晶の道が現れたことに驚愕していた難民たちは、私たちの姿を認めるなり、一斉に地面に平伏した。

神々しい光を放つ水精ウンディーネたちを従え、漆黒の死神のような騎士を傍らに侍らせた私の姿は、彼らの目に本物の女神のように映ったに違いない。


「お、おお……! 聖女様……!」

「噂は本当だった……! どうか、どうかお慈悲を……!」


泥にまみれた額をすりむくほどに擦りつけ、彼らは泣き叫んだ。

私は彼らの数歩手前で足を止め、静かに語りかけた。


「顔を上げてください。……あなたたちは、武器を持たず、祈りを持ってここへ来た。ならば、私が約束した通り、この湖の浄化の水を分け与えましょう」

私の言葉に、難民たちの間に歓喜の嗚咽おえつが広がった。


私はルシアンをその場に留まらせ、一人で彼らの中へと歩みを進めた。

「ライラ様……!」とルシアンの切羽詰まった声が聞こえたが、私は振り返らなかった。


私が向かったのは、意識を失った子供を抱きしめ、声を枯らして泣いているあの母親の元だった。

間近で見ると、子供の顔の半分は瘴気の黒い痣に覆われ、呼吸は浅く、今にも命の灯火が消えそうになっていた。


「お、恐れ多いです、聖女様! 私たちはけがれています、どうか、お触れにならないで……!」

母親が慌てて後ずさろうとするが、私はその場に膝をつき、泥で汚れるのも構わずに高級なドレスの裾を地面に広げた。


「大丈夫よ。痛かったわね、苦しかったわね」


私は躊躇ためらうことなく、子供の黒く変色した頬に両手を添えた。

ルシアンの呪いを解いた時と同じように、私の奥底から温かい光の奔流が湧き上がるのを感じた。

神域の主たる私の意志に呼応し、周囲の湖水から澄んだ魔力が集まり、私の手を通じて子供の体へと流れ込んでいく。


「あっ……」

母親が息を呑んだ。

私の手が触れた部分から、毒々しい瘴気の痣がシュゥゥと音を立てて蒸発し、白く柔らかな本来の肌が露わになっていく。

苦痛に歪んでいた子供の表情が、見る間に穏やかな寝顔へと変わり、やがて「ん……」と小さな寝息を立て始めたのだ。


「あ、ああ……! あぁっ……!」

母親は子供をきつく抱きしめ、私に向かって何度も何度も頭を下げた。

「ありがとうございます! ありがとうございます、奇跡の聖女様! この御恩は、死んでも忘れません!」


「いいのよ。……さあ、あなたも。水を飲みなさい。水精たちが持ってきたこの水は、すべての飢えと呪いを洗い流してくれるわ」


水精たちが、難民一人一人に、透き通った水が入ったグラスを配っていく。

水を口にした者たちの体から次々と痣が消え、落ち窪んだ頬に生気が戻っていく光景は、まさに神の奇跡そのものだった。


全員の浄化を見届け、私が立ち上がろうとした時。

「……っ!」

一度に大量の浄化の力を使ったせいか、急な立ち眩みに襲われ、体がグラリと傾いた。


「ライラ様!!」

疾風のごとく駆けつけたルシアンが、泥に倒れ込む寸前の私の体をしっかりと抱き留めた。

「だから言ったのです! ご無理をなさるなと!」


「ふふ……ごめんなさい。ちょっと、張り切りすぎちゃったみたい」

彼の腕の中で苦笑する私を、ルシアンは怒りと心配がないまぜになったような、切実な瞳で見つめていた。


やがて、彼は私を腕に抱いたまま、平伏する難民たちを鋭く見下ろした。

「……貴様ら、よく聞け」


ルシアンの低く、魔力すら帯びた威圧的な声に、難民たちがビクッと肩を震わせる。

「我が主の慈悲により、貴様らの命は繋ぎ止められた。だが、勘違いするな。ここは貴様らを甘やかす救貧院ではない。この奇跡の裏には、主が身を削るほどの痛みがあることを忘れるな」

「ルシアン……もういいわ……」


「いいえ。彼らには、知らしめなければなりません」

ルシアンは私を抱き直すと、宣言するように声を張り上げた。

「我が主、ライラ・アトウッド様は、腐りきったこの世界に降り立った唯一の光だ! 今日よりこの湖は『聖国アトウッド』となり、主の慈悲を乞うすべての弱者を庇護する! だが……もし主の恩を忘れ、裏切るような真似をする者がいれば、私が地の果てまで追い詰め、その魂ごと切り刻むと知れ!」


それは、単なる庇護の約束ではなく、新しい国の建国宣言だった。

王国の権威に屈せず、弱者を切り捨てる世界そのものに対する、ルシアンなりの強烈な宣戦布告。


「聖女ライラ様、万歳!」

「聖女様! 黒騎士様!」


難民たちが、涙を流しながら私たちの名を叫び始めた。

その熱狂的な声は、かつて私を「死神」と呼んで石を投げた村人たちの嘲笑とは、全く違うものだった。


「……勝手に国なんて作っちゃって。王様が知ったら、また激怒するわよ」

ルシアンの胸に寄りかかりながら、私が小さく文句を言うと、彼は私を見つめて不敵に微笑んだ。


「王が怒ろうが、悪魔が牙を向こうが、それは関係ありません。貴女が玉座に座るのなら、私が世界を貴女の足元に跪かせてみせます。……これが、私の狂信ですから」


泥まみれのどん底から始まった私の人生。

まさか自分が「聖女」として国を興すことになるとは、夢にも思わなかった。

けれど、この歪で、不器用で、どうしようもなく過保護な騎士が隣にいてくれるなら、どんな未来が待っていても、もう二度と怯えることはないだろう。


夕陽が沈み、湖が深い群青色に染まっていく。

私の新しい王国は、泥にまみれた彼らの涙と祈りによって、今、静かにその産声を上げたのだった。

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