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水鏡に映る白銀の軍勢を背に、私は深く、冷たい空気を肺の奥底まで吸い込んだ。


成金の娘としてチヤホヤされ、破産してからは泥水を啜り、村人から石を投げられてきた、荒波のような十八年間。私の人生は常に、他者の悪意や欲望に振り回されるだけの小舟のようだった。

けれど今は違う。私には神が授けてくれたこの楽園があり、隣には絶大な力を持つ黒衣の騎士がいる。何より、私自身の足で立ち向かうという「覚悟」があった。


「ルシアン。行きましょう」

「御意。貴女の往く道は、すべて私が切り拓きましょう」


ルシアンは私の腰を抱き寄せると、軽やかにバルコニーを蹴った。

私たちは湖の澄んだ風に乗り、飛ぶようにして対岸へと向かう。ギデオンたちを見下ろした時と同じように、私たちの足元には水精ウンディーネたちが集い、目に見えない水の階段を作り出して私たちを支えてくれていた。


岸辺に降り立つと、そこには異様な光景が広がっていた。

数百人の重装騎士たちが隙間なく陣形を組み、その後方では数十人の魔術師たちが、複雑で巨大な赤い魔法陣を地面に描き出している。結界を焼き切るための攻城魔法だ。

そして、その中心。黄金の甲冑を纏った白髪の男——クロード・ヴァン・レヴェナント公爵が、傲慢に顎を引き上げて私たちをねめつけていた。


「ほう。出てきたか、奇跡の水を独占する湖の魔女よ」

クロード公爵のしゃがれた声が、風に乗って響く。

「よもやよもや、大魔法陣の完成を待たずに自ら投降してくるとはな。ハハ、賢明な判断だ」


「投降? 勘違いしないでください」

私は彼を真っ直ぐに見据え、凛とした声で言い放った。

「ここは神域。あなたたちが土足で踏み入っていい場所ではありません。直ちに兵を引きなさい」


「神域だと? ハッ! 笑わせるな、小娘如きが。寝言を抜かしおって」

クロード公爵は鼻で笑った。

「この王国の領土内にあるものは、すべて王室——引いてはこの私のものである。瘴気しょうきを浄化するその水、我が独占し、貴様の代わりに、民草どもに『適正な価格』で売り捌いてやろうというのだ。光栄に思え」


やはり、ルシアンの言った通りだった。

彼らは瘴気で苦しむ人々を救う気など毛頭ない。この奇跡の水を高値で売りつけ、さらなる富と権力を搾り取るつも主なのだ。父の強欲など可愛く思えるほどの、国を巻き込んだ巨大な腐敗。


「……お断りします。この水は、あなたの私欲を満たすためのものではありません」


「身の程知らずの小娘が。ならば、力ずくでその城ごと沈めてやるまでだ。……ん?」

公爵の視線が、私の隣で静かに控えるルシアンへと移った。その途端、彼の顔にサッと驚がくの色が走る。


「貴様……いや、まさか。あの竜の呪いを受け、野垂れ死んだはずの『狂犬』か?」

クロード公爵の言葉に、周囲の騎士たちがざわめいた。

「まさか、元近衛騎士団長のルシアン・フォン・アルトハウス様か!?」

「馬鹿な、あの方の呪いは最高位の神官でも解けなかったはずだぞ!」


ルシアンは、かつてこの国の近衛騎士団長だったのか。

驚く私をよそに、ルシアンは冷酷な笑みを口元に浮かべた。


「お久しぶりですね、レヴェナント公爵。竜討伐の際、私をおとりにして安全圏へと逃げ出し、呪いに侵された私を『用済み』と王都から追放した……あの日の貴方の醜い逃げ腰、今でも鮮明に覚えておりますよ」

「チィッ……! なぜ生きている! いや、貴様が生きているということは、その女が本当に呪いを解く力を持っているということか!」


公爵の目に、さらにギラギラとした欲望の炎が燃え上がった。

「素晴らしい! 水だけではない。その女自身が極上の『聖女』というわけか! おい、構わん! 魔法陣を起動しろ! 結界を粉砕し、その女を生け捕りにしろ! 狂犬は始末して構わん!」


公爵の号令と共に、魔術師たちが一斉に呪文を詠唱し始めた。

赤い魔法陣が毒々しい光を放ち、そこから巨大な炎の槍が無数に形成され、私たちに向かって雨霰あめあられと降り注ぐ。

大気を焼き焦がす熱波。並の城壁なら一撃で蒸発するほどの破壊力だ。


「ライラ様!」

ルシアンが私を庇うように前に出ようとした。しかし、私は彼の背中をそっと手で制した。


「大丈夫よ。私の城は、私が守る」


私は両手を前にかざし、湖に向かって意志を放った。

(水精たち、盾を!)


湖面が爆発したかのように隆起し、私たちの眼前に厚さ数メートルにも及ぶ巨大な水の防壁が立ち上がった。

炎の槍が次々と水の壁に激突するが、凄まじい水蒸気を上げるだけで、傷一つ、熱一つとしてこちらには届かない。それどころか、神域の浄化の力が宿る水は、魔法の炎そのものを魔力ごと『分解』して無力化してしまった。


「な、なんだと!?」

「総力を結集した攻城魔法が、ただの水壁に防がれただと……!」


魔術師たちが絶望的な悲鳴を上げる。

圧倒的な力を見せつけられ、騎士たちの足が恐怖にすくんでいるのが分かった。


「……素晴らしい。さすがは我があるじ。神の威光そのものだ」

背後で、ルシアンが陶酔しきったような吐息を漏らす。

「ですが、防御だけではあの羽虫どもは飛び去りません。……ライラ様、どうか私に命令を。貴女を害そうとしたあの汚物どもを、一匹残らず絶望の底に叩き落とす許可を!」


ルシアンのアメジストの瞳が、血の飢えに赤く明滅していた。

今にも飛び出しそうに剣の柄を握りしめる彼の手は、歓喜に打ち震えている。

私は彼を見つめ返し、静かに、しかしはっきりと命じた。


「許可するわ、ルシアン。でも、条件がある」

「何なりと!」

「命を奪うのはダメよ。武器と、魔法陣、そして彼らの『戦意』だけを完全にへし折ってきなさい。……できるわね?」


私の条件を聞いて、ルシアンはほんの一瞬だけ残念そうに目を細めたが、すぐに恭しく首を垂れた。

「主の御心のままに。血の雨を降らせられないのはいささか退屈ですが……貴女の慈悲の深さ、私がこの剣で奴らの魂に刻み込んでご覧に入れましょう」


顔を上げたルシアンの姿が、次の瞬間、ブレて消えた。


「え……?」

私が瞬きをした、わずか一秒未満の出来事だった。


——ガキンッ! パァンッ!!


岸辺の陣形から、金属が砕け散る乾いた音と、魔法陣が爆発する轟音が連続して鳴り響いた。

目にも留まらぬ超高速の移動。ルシアンは黒い旋風となって数百人の騎士の間を駆け抜け、彼らが構えていた剣、槍、盾を、ただの一撫でで寸断していく。

悲鳴を上げる暇すらない。騎士たちが気づいた時には、自分たちの手に握られていた武器はただの鉄屑に変わり、足元の地面は深くえぐられていた。


「ヒッ……!?」「ば、化け物め……!」


さらにルシアンは魔術師たちの陣地へと飛び込み、彼らが命がけで描いた魔法陣の中心を、無造作にブーツのかかとで踏み砕いた。

魔力の暴走が起きるはずだが、ルシアンから放たれる圧倒的な覇気が、魔力そのものを完全に押し潰して強制終了させてしまった。


「な、何が起きている!? ええい、何をしている! 狂犬を殺せ!」

状況が理解できず、馬上で喚き散らすクロード公爵。


「煩いですね。虫は虫らしく、泥でも舐めていなさい」

冷酷な声と共に、ルシアンが公爵の真上に舞い降りた。


「ひぃっ!?」

ルシアンは剣の『腹』で、公爵の黄金の兜を容赦なく横殴りにした。

ガァンッ! という重い打撃音と共に、公爵の巨体が馬から吹き飛び、無様に地面の泥水の中へと転がった。


静寂が落ちた。

王国最強と謳われた近衛騎士団と魔術師部隊が、たった一人の騎士によって、一滴の血も流すことなく完全に制圧されたのだ。

武器を失い、戦意をへし折られた騎士たちは、泥まみれになって呻く公爵を見下ろし、ガタガタと震えながら一斉にその場にひざまずいた。


ルシアンは倒れた公爵の首筋に剣の切っ先を突きつけ、冷徹に言い放つ。

「我が主の慈悲に感謝することですね、レヴェナント公爵。主の『殺すな』という命がなければ、貴方の首はすでに三千の肉片となってこの地に散らばっていた」


「う、うぅ……貴様ら、王国を敵に回して、ただで済むと……!」

泥だらけの公爵が、震える声で負け惜しみを吐く。

私はゆっくりと湖の上を歩き、彼らの前へと進み出た。


「王国を敵に回す? いいえ、逆です」

私の静かな声が、張り詰めた空気に響き渡る。

「民を苦しめる瘴気を盾に取り、私腹を肥やそうとするあなたたちこそが、神を敵に回しているのです。この水は、力や権力で奪い取ることは絶対にできません」


私は公爵を見下ろし、最終通告を突きつけた。

「二度と、武器を持ってここへ来ないこと。……ただし。もしもあなたたちが武力を捨て、真に民を救いたいという『祈り』と共に頭を垂れるのなら。その時は、浄化の水を分け与えることを約束します」


それは私の決意表明だった。

ただこもって身を守るだけでなく、世界に対して自らのルールを提示する。慈悲は与えるが、決して媚びないし、利用もされない。


クロード公爵は屈辱に顔を真っ赤に染めながらも、首筋に突きつけられたルシアンの剣の冷たさに、それ以上反抗することはできなかった。

「……退け! 退却だ!!」


絞り出すような怒声と共に、近衛騎士団は這うようにして逃げ出していった。

豪奢な馬車も、黄金の甲冑も泥に塗れ、その背中はどこまでも惨めだった。


嵐が去った岸辺に、静かな風が吹き抜ける。

ルシアンが剣を鞘に納め、私に向かって静かにひざまずいた。


「見事な采配でした、我が主。……貴女は今日、事実上、この国の腐敗に宣戦布告をなされたのですね」

「ええ。怒らせちゃったわね、王国の偉い人たちを」

「構いません。王国が軍を差し向けるなら、私がすべて斬り捨てます。……貴女が玉座に座るその日まで、この身は貴女の剣にして盾です」


彼の紫水晶の瞳は、揺るぎない狂信と、痛いほどの愛情に満ちていた。

泥を噛むような人生から一転、私は強大すぎる力と、重すぎる騎士の愛を手に入れてしまった。


湖のさざ波が、朝日を反射してキラキラと輝いている。

私の新しい人生は、鳥籠を壊し、いよいよ世界そのものを巻き込む波乱の渦へと足を踏み入れたのだった。

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