水鏡の楽園と、自らだけが幸福であることの苦しみ
温かな朝食を終えた後も、私の心はまだふんわりとした綿毛の上に浮かんでいるようだった。
胃の腑に落ちた極上のスープと、焼きたてのパンの甘い香り。昨日まで泥水を啜るようにして生きてきた私にとって、それは暴力的なまでの幸福感だった。しかし、長年の貧困が染み付いた体は、すぐにはこの豪奢な現実を許容してくれない。
無意識のうちに、私は残ったパンの一切れをナプキンで包み、ドレスの隠しポケットに滑り込ませようとしていた。明日食べるものがなくなるかもしれないという、染み付いた恐怖への反射行動だ。
「……あっ」
パンを隠そうとした手が、ふいに止まる。
斜め向かいの席から、ルシアンのアメジストの瞳が静かにこちらを見つめていたからだ。
私は顔から火が出るほど恥ずかしくなり、俯いてナプキンをテーブルに戻そうとした。神に選ばれ、城の主となった人間が、まるで飢えたネズミのようにパンの切れ端を隠そうとするなんて。彼に軽蔑されるに違いない。
しかし、ルシアンの行動は私の予想を裏切るものだった。
彼は音もなく席を立つと、私の傍らに歩み寄り、片膝をついた。そして、私が握りしめていたナプキン越しのパンを、両手でそっと包み込んだ。
「ルシアン……?」
「何も恥じることは何もありません、ライラ様」
彼の声は、春の雪解け水のように柔らかかった。
「貴女がこれまで、どれほどの不安と飢えの中で夜を明かしてきたか。その傷が、一朝一夕で癒えるはずがない。……どうか、気の済むようになさってください。ですが、これだけは約束していただきたい」
ルシアンは私の手に額を押し当て、祈るような姿勢で言葉を紡いだ。
「貴女がこの先、二度と飢えや寒さに震える夜は来ない。私が、決してそのような目には遭わせない。貴女の望むものは、この命に代えてもすべてこの足元にひざまずかせてみせます。ですから……どうか、私を頼ってください」
熱を帯びた吐息が手の甲にかかり、私は思わず息を呑む。
彼の言葉には、単なる騎士の忠誠を超えた、痛切なまでの執着が混じっていた。呪いの激痛から解放してくれた私を、彼は本気で「御神体」か何かのように崇拝しているのだ。
その重すぎる感情に戸惑いながらも、私は不思議と恐怖を感じなかった。むしろ、凍りついていた心の奥底に、ぽっと温かい火が灯るのを感じる。
「……ありがとう、ルシアン。でも、命に代えるなんて言わないで。あなたが無事でいてくれることが、私の望みよ」
「——っ!」
ルシアンの肩が、微かに震えた。顔を上げた彼の瞳には、狂おしいほどの感情が渦を巻いている。
「貴女というお方は……。ええ、承知いたしました。この命すらも、もはや貴女のもの。勝手に散らすような真似は決して致しません」
彼は私の手の甲に恭しく口付けを落とし、ようやく立ち上がった。
その仕草があまりにも流麗で、私はごまかすように立ち上がり、話題を変えることにした。
「そ、それよりルシアン! このお城のこと、もっと教えてもらえるかしら。あのお世話をしてくれた侍女の人たちも、どこから来たのか不思議で……」
「ご案内いたしましょう」
彼に導かれてダイニングを出ると、どこまでも続く回廊が広がっていた。
白亜の壁には神話の場面を描いたタペストリーが掛けられ、床には足音を吸い込む深い蒼色の絨毯が敷き詰められている。窓の外には、見渡す限りの澄んだ湖面が太陽の光を反射して煌めき、まるで空と水の世界に閉じ込められたかのようだ。
廊下の途中で、朝食の給仕をしてくれたメイドの一人とすれ違った。
彼女は足を止め、優雅なカーテシー(お辞儀)をして通り過ぎていく。だが、その足元を見て私は小さく声を上げた。
彼女の足は床についておらず、ドレスの裾がふわりと空気に溶けるように透けていたのだ。
「彼女たちは、人間ではありません」
私の驚きを察したルシアンが、静かに解説する。
「この湖と城が神の力で顕現した際、貴女に仕えるために生み出された『水精』たちです。彼女たちは眠りも食事も必要とせず、ただ主である貴女の快適さのためだけに存在しています」
「精霊……。じゃあ、この広大なお城にいる生きた人間は、私とあなただけなの?」
「左様です。ここは外界から完全に隔絶された『神域』。神に選ばれた貴女と、神託に導かれた私以外の立ち入りは、あの湖の結界によって固く拒絶されています」
ルシアンの言葉に、私は少しだけ胸を撫で下ろした。
あの世かもしれない。けれど、そうだとしても、あの醜悪な村人たちも、私を借金取りの的にした冷酷な金貸したちも、もうここへは来られない。私は、過去の呪縛から完全に切り離されたのだ。
「……ねえ、ルシアン。外の世界は、今どうなっているの?」
バルコニーに出た私は、湖の遥か彼方、水平線の向こうに見える霞んだ陸地を見つめながら尋ねた。
ルシアンは私の少し後ろに立ち、油断なく周囲に気を配りながら答えた。
「外界は今、酷い有様です。数年前から『瘴気』と呼ばれる黒い霧が大陸全土を覆い始め、作物は枯れ、魔物が跋扈しています。私の首にあった呪いも、その瘴気から生まれた竜によるものでした。王国の騎士団も必死に抗っていますが、被害は広がる一方です」
「そんなことに……」
「ですが、ご安心を。この湖の結界は、神の織りなした結界。いかなる瘴気も魔物も通しません。ここは、世界で唯一残された無垢なる楽園です」
ルシアンは誇り高き声で言い切った。
しかし、私の心には小さな棘が刺さったような違和感が残った。
自分だけが安全な楽園で、美味しい食事を摂り、温かいベッドで眠る。外の世界では、かつての私のように飢えと寒さに苦しむ人々がいるかもしれないのに。
成金の父は、自分だけが贅沢を貪り、他者を見下した結果、すべてを失った。私は、同じ道を歩みたくはない。
「ルシアン」
「はい」
「神様は私に、この力と居場所を『慈悲の報酬』だと言って与えてくれたわ。だとしたら、私はただここに引きこもって、安穏と暮らしているだけでいいのかしら」
「……ライラ様」
「私の手であなたの呪いが解けたように、この結界の力や、あふれる源を外の世界に分けることはできないのかしら」
私が振り向いて尋ねると、ルシアンは驚いたように目を見張った。
そして、その美しい顔を複雑に歪め、苦しげに眉根を寄せる。
「……貴女は、どこまでも気高く、そしてお優しい。ですが、私は反対です」
「どうして?」
「外の人間は愚かです。かつて貴女を傷つけた村人たちのように、貴女の優しさに付け込み、その力を利用し、奪い尽くそうとする輩が必ず現れるでしょう。私は、貴女がこれ以上外界の泥に触れることを望みません」
一歩踏み出した彼の瞳には、昏い独占欲と、強烈な庇護欲が燃えていた。
「貴女は、ここでただ微笑んでくださればいい。外の穢れはすべて私が斬り伏せます。貴女を傷つける可能性のあるものは、王族であろうと騎士であろうと、この湖の底に沈めてみせる。……どうか、この安全な鳥籠の中で、私にだけその慈悲を向けてはいただけませんか」
懇願するような、それでいて有無を言わさぬ迫力を持ったルシアンの言葉。
私は彼が、かつての絶望から私という「光」を見出し、それに過剰なまでに依存していることに気づいた。私を守るためなら、彼は世界中を敵に回すことすら躊躇わないだろう。
(でも、それではダメだわ)
私は彼から逃げることなく、まっすぐにその紫水晶の瞳を見つめ返した。
「ルシアン。私は鳥籠の小鳥になるつもりはないわ。昨日まで泥を這っていた女よ? そんなにヤワじゃない」
「ライラ様……」
「それに、あなたがすべてを斬り伏せたら、大勢が傷ついてしまうじゃない。なによりあなた自身が。私は、私を助けてくれたあなたに、血塗られた道を歩んでほしくないの」
そっと手を伸ばし、彼の冷たい頬に触れる。
ビクッと体を震わせたルシアンは、私の手の中にすり寄るように顔を傾け、目を閉じた。まるで、主の愛撫を待つ獰猛な獣のように。
「私はこの城の主として、外の世界とどう向き合うか、きちんと自分で決めたい。だから、その時は……私の剣として、傍で支えてくれるかしら?」
しばらくの沈黙の後。
ルシアンは私の掌に熱い吐息を落とし、深く首を垂れた。
「……御意のままに。貴女が望むのなら、たとえ地獄の底であろうと、この剣で道を切り拓きましょう」
降参したように告げる彼の声には、隠しきれない歓喜の響きが混じっていた。主から頼られること、その存在意義を与えられることが、彼にとって何よりの甘露なのだろう。
――その時だった。
澄み切っていた青空に、突如として不協和音のような甲高い鐘の音が鳴り響いた。
城の尖塔に設置された、侵入者を知らせる魔力感知の鐘だ。
「ルシアン!」
「下がっていてください」
先ほどまでの甘やかな空気は一瞬にして霧散した。ルシアンの瞳が、獲物を狙う鷹のように鋭く細められる。彼は腰の剣の柄に手を掛けると、バルコニーの手すりから遥か遠く、湖の岸辺を睨みつけた。
私も彼の背中に隠れるようにして、視線の先を追う。
湖の対岸。昨日まで村へと続いていたはずの街道の切れ目に、土埃を上げて数十人の集団がやって来ているのが見えた。
距離があるため人間の顔までは見えないが、先頭には豪奢な幌馬車があり、その後ろを武装した傭兵のような男たちが固めている。
「あれは……王国の兵士?」
「いえ。旗印がありません。あれは、大商人のキャラバンです」
ルシアンが視力を強化する魔法を使っているのか、的確に状況を読み取っていく。
「……商人?」
その言葉を聞いた瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。
アトウッド家が没落したあの夜。
母が宝石を詰め込んで飛び乗った、商人の馬車。その後も、執拗に私の元に借金の取り立てに来ていた、あの狡猾な男たちの顔が脳裏を過る。
「ルシアン、結界は……」
「ご安心を。彼らには、湖の上を渡る術はありません。強引に船を出そうとすれば、水精たちが即座に渦を巻き起こして沈めるでしょう。……いかがなさいますか? 私が湖面を駆けて、あの者たちの首を刎ねて参りましょうか」
物騒極まりない提案を、さも「雑草を抜いてきましょうか」という程度のテンションで口にするルシアン。
私は慌てて彼の腕を掴んだ。
「だ、ダメよ! まだ相手が誰かも、目的すら分からないのに!」
「しかし、彼らは貴女の安寧を脅かす害虫です」
「私が確認するわ。……神様がくれたこの結界なら、安全な場所から向こうの様子を見るくらいできるんじゃない?」
私がそう念じると、不思議なことにバルコニーの目の前の空間が水面のように波打ち、対岸の様子が空中に大きな鏡のように映し出された。
映像の中に映ったのは、湖の出現に混乱し、右往左往する傭兵たちの姿。
そして、幌馬車から苛立たしげに降りてきた、太った初老の男だった。豪奢な毛皮を羽織り、両手にはこれ見よがしに宝石の指輪をはめている。
その顔を見た瞬間、私の全身の血が凍りついた。
「どういうことだ! アトウッドの小娘が住んでいる村はここだったはずだろう! なぜ湖になっているんだ!」
男の怒鳴り声が、水鏡を通じてこちらのバルコニーに響き渡る。
間違いない。
あの男は、父を騙して借金まみれにさせ、母をそそのかして駆け落ちした張本人。
大商人、ギデオン・ウォルポール。
私からすべてを奪い、泥沼に叩き落とした、憎悪の元凶だった。
「……あいつ……」
無意識のうちに、私の両手は強く握りしめられ、爪が掌に食い込んでいた。
「あの者、知り合いですか?」
ルシアンの声が、零下まで冷え切っていた。私の感情の揺れを敏感に察知したのだろう。彼の全身から、目に見えそうなほどの濃密な殺気が立ち昇り始めている。
「……ええ。私の家を、めちゃくちゃにした男よ」
震える声で答えると、ルシアンはゆっくりと剣を鞘から引き抜いた。刃が立てる冷たい金属音が、空気を切り裂く。
「理由としては、十分すぎる。……主よ。あのような汚物は、私が片付けてまいります。貴女はどうか、その美しい目を覆っていてください」
ルシアンの紫水晶の瞳が、血の悦楽を求めるように妖しく光った。
過去の亡霊が、早速私の楽園の扉を叩きに来た。
だが今の私はもう、無力に泣き寝入りするだけの貧弱な農家の娘ではないのだ。




