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水底の過去と黒衣の忠騎士

 手の甲に落とされた、ひどく熱く、そして柔らかな感触。

 ひざまずく青年の唇が私の肌に触れたのだと理解するまでに、数秒の時間を要した。


「……えっ、あ、あの……っ!?」


 弾かれたように手を引き抜くと、青年は伏せていた顔をゆっくりと上げた。

 色素の薄い、透き通るような白い肌。対照的に闇よりも深い漆黒の髪が、大理石のような額にかかっている。そして何より目を引くのは、吸い込まれそうなほどに鮮烈な、アメジスト色の瞳だった。

 彫刻の神々すら嫉妬しそうな美貌に、私は息を呑む。かつて父の屋敷に出入りしていたどんな貴公子よりも、彼には圧倒的な気品と、得体の知れない凄みがあった。


「驚かせて申し訳ありません、我があるじ


 青年は立ち上がると、豪奢な装飾が施された黒金の騎士服の胸に手を当て、深く一礼した。長身で、肩幅は広く、引き締まった体躯は彼が幾多の戦場を潜り抜けてきた熟練の戦士であることを物語っている。


「私の名はルシアン。ルシアン・フォン・アルトハウス。神託により、この『神域』を護り、貴女様に永遠の忠誠を誓うべく馳せ参じた騎士団の長にございます」

「る、るしあん、様……? 神域? 神託って……」


 あまりの展開に、私の頭は完全に思考を放棄しかけていた。

 昨日の夕方まで、私は間違いなく泥まみれの貧乏農家だった。雨漏りする小屋で、具のないスープを啜り、パンの切れ端を齧っていたのだ。

 それが一晩眠って起きたら、王族のようなドレスを着せられ、見知らぬ美青年にかしずかれている。狂気か、それとも死んだ後の幸福な幻覚か。


 混乱する私を見かねたのか、ルシアンは微かに目元を和らげ、優しく手を差し伸べた。

「百の言葉で説明するよりも、まずはご自身の目で確かめられるのがよろしいでしょう。こちらへ」


 彼に導かれるまま、私は寝室に続く広いバルコニーへと足を踏み出した。

 冷たい朝の空気が頬を撫でる。

 そして、眼下に広がる光景を目にした瞬間、私は声にならない悲鳴を上げてその場にへたり込みそうになった。ルシアンが咄嗟に私の肩を支えてくれなければ、間違いなく腰を抜かしていただろう。


「……嘘でしょう……?」


 村が消えていた。

 パン屋も、肉屋も、かつて私が住んでいた父の豪邸の跡地も。私に石を投げ、「疫病神」と罵った村人たちの住処も、すべてが幻だったかのように跡形もなく消え去っている。


 代わりにそこにあったのは、見渡す限りの巨大な湖だった。

 空の青を鏡のように反射する、透明で静寂に満ちた水面。

 私が今立っているこの壮麗な城は、かつて私のボロ小屋があった小高い丘——今は湖の中心に浮かぶ孤島となった場所——の上に、巨大な白亜の城塞としてそびえ立っていたのである。


『欲に目がくらみ、弱き者を蔑む村は、今夜、水底へと沈むでしょう』


 昨夜の老婦人——女神の言葉が、脳裏にフラッシュバックする。

 あの嵐は、ただの天災ではなかったのだ。神の怒りであり、浄化の鉄槌だった。神に不敬に接し、また私を虐げ、疫病というムチで罵ってきていた者たちは皆、あの冷たい水の底へと沈んでしまったのだ。


「そんな……あんなに、あんなにあっさりと……」

 震える両手で顔を覆う。

 村の人々を憎んでいなかったと言えば嘘になる。顔を見れば嫌味を言われ、塩を撒かれ、正当な報酬すら支払われない日々。いっそ全員いなくなってしまえばいいと、暗い感情を抱いた夜も確かにあった。

 けれど、いざそれが現実になり、何百という命が水底に沈んだという事実を突きつけられると、足の震えが止まらなかった。


「ご自身を責める必要はありません、ライラ様」

 ルシアンの低く落ち着いた声が、耳元に落ちる。

「あの者たちは、自らのごうによって滅びたのです。神は彼らに何度もやり直す機会を与えていた。だが、彼らは最後まで弱き者を踏みにじる道を選んだ。……貴女が心を痛める価値など、泥一粒ほどもありません」


 冷徹なまでに響くその言葉は、どこか彼自身の過去をも切り捨てているように聞こえた。


「それに……」

 ルシアンは不意に私の前に再び片膝をつき、下から私を見上げた。アメジストの瞳が、熱を帯びて私を射抜く。

「貴女が彼らを哀れむその美しい心が、私を救ってくれたのですから」


「あなたを……救った?」

「はい」


 ルシアンは自身の黒い手袋をゆっくりと外し、首元を覆っていた詰襟のホックをいくつか外した。

 見えたのは、彼の白磁のような肌に刻まれた、毒々しい赤黒いあざ。まるでいばらのように首筋から胸元へと這うその模様は、見ているだけでおぞましい呪いの力を発していた。


「私は数年前、国境を荒らした竜の討伐において、癒えることのない猛毒の呪いを受けました。全身の血が焼けるような激痛に昼夜問わずさいなまれ、心身ともに限界を迎えていた」

 ルシアンの言葉に、私は息を呑む。そんな恐ろしい状態にありながら、彼は微塵も苦痛を感じさせないほど毅然としていた。


「神殿の最高位の神官たちもさじを投げ、私が自死を選ぶのは時間の問題でした。しかし昨夜、私の脳内に直接、神の啓示が下ったのです。

『辺境の地に、真の愛と慈悲を証明した聖女が現れた。かの者の城へ赴き、剣を捧げよ。さすれば、呪いは浄化されん』と」


 ルシアンは私の手を取り、己の首元——呪いの痣が最も濃い場所へと、私のてのひらをそっと押し当てた。

「……あっ」

 信じられないことが起きた。

 私の手が触れた瞬間、禍々しい茨の痣が、まるで太陽に照らされた朝露のように、シュゥゥと音を立てて薄れていったのだ。彼を苦しめていた熱が引き、穏やかな肌の温もりだけが掌に残る。


「……私の痛みが、消えていく。何年ぶりか分からないほどの、穏やかな静寂です」

 ルシアンは深い息を吐き出し、まるで聖遺物に触れるかのように、私の手を両手で包み込んだ。その瞳には、狂信的なまでの敬意と、隠しきれない熱情が渦巻いている。


「ライラ様。貴女は私が生涯を懸けて探し求めていた、唯一の光。どうか、この命を貴女のために使わせていただきたい」


 彼の熱烈な告白に、私はどう返事をしていいか分からず、ただ瞬きを繰り返した。

 貧乏農家の娘が、突然神の加護を受け、凄腕の美形騎士から命を捧げられる。こんなのおとぎ話でも出来すぎている。夢よ。きっと夢だわ。

 しかし、掌から伝わる彼の体温と、鼓動は、これが紛れもない現実であることを私に突きつけていた。


「……ルシアン様」

「様は不要です。どうか、ルシアンと」

「じゃあ、ルシアン。……一つだけ、お願いしてもいいかしら」

「何なりと。この国の王冠をご所望とあらば、直ちに奪ってまいりましょう」


「そんな物騒なものは要らないわ」

 私は慌てて首を振った。大真面目な顔で国を傾けようとする騎士団長をなだめ、私は自分のお腹をさすった。


「あの……お腹が、空いてしまって。なにか、温かいものを食べられないかしら?」

 昨日、黒パンの欠片すら食べていないのだ。神様のおかげで体は嘘のように軽いけれど、胃袋の空虚さだけはどうにもならなかった。


 ルシアンはきょとんと目を丸くした後、フッと吹き出すように笑った。氷の彫像のようだった彼が初めて見せた、年相応の柔らかな笑顔。その破壊力に、私の心臓が不覚にもトクンと跳ねた。


「……申し訳ありません。我が主は、見栄や虚飾よりも、確かな生を重んじるお方でしたね。直ちに、最高の料理人たちに朝食の用意をさせましょう」


 彼は立ち上がると、扉の外に控えていた侍女たちに指示を出した。

 数分後、私が案内されたのは、壁一面のガラス窓から湖を一望できる広大なダイニングルームだった。

 十メートルはあろうかという長大なマホガニーのテーブル。その上には、焼きたての白パン、濃厚な湯気を立てるコンソメスープ、美しく切り分けられたローストミート、色鮮やかな果物が、山のように並べられていた。

 かつて父の豪邸で見ていたような、いや、それ以上に洗練された料理の数々。


 けれど、私の心は少しだけ冷えていた。

 一人でこの長いテーブルの端に座り、無言で食事を摂る。それは、家族の温もりがとうの昔に消え失せていた、過去のアトウッド家での食事風景と同じだったからだ。成金の父は金に物を言わせた食事を並べるだけで、娘の私と会話をすることなどほとんどなかった。


 私が席につき、侍女がナプキンを膝に広げてくれる。ルシアンは私から数歩離れた壁際に直立し、彫像のように控えていた。


「ルシアン。あなたも、座って」

 私は横に置かれた椅子を指差した。


「……私は護衛の身。主の食事に同席するなど、騎士の規律に反します」

 彼は眉をひそめて辞退したが、私は引き下がらなかった。


「ここは私の城なんでしょう? なら、私のルールが一番のはずよ」

「それは、そうですが……」

「私は、一人で冷たい食事をするのは嫌なの。昨日まで、ずっと一人ぼっちだったから。……あなたが一緒に食べてくれないなら、私も食べないわ」


 少しだけ我儘わがままな子供のように唇を尖らせてみせると、ルシアンは困ったように息を吐いた。そして、諦めたように苦笑し、私の隣の席へと腰を下ろす。


「……降参です。貴女には、どんな魔法よりも勝てる気がしません」

「ふふ、光栄ね」


 私は彼にスープの皿を取り分け、温かな白パンを手渡した。

「いただきましょう。神様がくれた、この素晴らしい一日に」


 口に運んだスープは、驚くほど澄んだ味がした。塩とクズ野菜だけの昨日のスープとは大違いだ。けれど、何よりも美味しく感じたのは、隣に温かい体温を持つ誰かがいて、美味しいねと笑い合えることだった。


 成金の父が求めた「力」や「富」は、結局彼を滅ぼした。

 私が昨日老夫婦に差し出したのは、ただの「思いやり」だけだった。


(私は、父と同じてつは踏まない)


 この神様から与えられた莫大な富も、美しい城も、決して自分を着飾るためには使わない。

 私はこれを、共に生きてくれる人たちを守るための、温かい「家」にするのだ。


 決意を新たにパンを頬張る私を、ルシアンが横からじっと見つめていることに気づいた。


「……なに? 私の顔に、何か付いてる?」

「いえ……」

 ルシアンは優しく目を伏せ、長い睫毛まつげに影を落とした。

「貴女は、私が想像していたよりもずっと……愛おしいお方だと思いまして」


 直球すぎる言葉に、私は思わずスープをむせそうになった。

「げほっ、な、なにを言ってるの!」

「事実を口にしたまでです。我が主よ、覚悟しておいてください。私は一度忠誠を誓ったものには、ひどく執着する性質たちなのです」


 からかうような、けれど底知れぬ本気を含んだその視線から、私は逃れることができなかった。

 泥まみれのどん底から始まった私の人生は、どうやらこの黒衣の騎士に振り回されながら、甘く、騒がしく、全く新しい方向へと舵を切ったらしい。


 窓の外の湖面が、朝日を浴びてキラキラと輝いていた。

 私の新しい人生は、まだ始まったばかりだった。

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