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泥を噛む日々と、嵐の夜の訪問者

 極上の贅に溺れた代償は、あまりにも重く、そして氷のように冷淡なものだった。


 かつての私——ライラ・アトウッドがその身を置いていた場所。そこは、冷ややかな輝きを放つ大理石の床がどこまでも続き、常に百合の香気が漂う壮麗な邸宅に他ならない。成金として一世を風靡した父は、その有り余る財力に飽かせて村の人々を「泥にまみれた家畜」と笑い飛ばし、金で買える限りの虚飾を身にまとって闊歩かっぽしていた。

 けれど、泡のように膨らんだ富が弾けるのは、一瞬の出来事だった。


 父の無謀な投機と際限なき放蕩ほうとうにより、アトウッド家の財産は一夜にして霧散した。債権者たちが怒号を上げ、玄関の重厚な扉を叩き壊さんばかりに押し寄せたあの夜。母は一番高く売れる宝石だけを懐に詰め込み、以前から通じていた商人の男が操る馬車へと飛び乗った。

「あんたみたいな縁起の悪いあの男の娘、連れていけるわけないじゃない」

 薄情な背中と共に残されたのは、実の母から私へ送られた、最後にして最低の言葉。


 後に遺されたのは、山のように積まれた借用書と、急激な転落によるストレスで心臓を病み、数日もしないうちに事切れた父の亡骸なきがら。そして、父から散々見下されてきた村人たちの、凍りつくような軽蔑の視線。それが私の世界のすべてになった。


 あれから二年。

 十八歳になった今の私が立っているのは、村の外れにある崩れかけの小屋の前。爪の間に土を詰まらせ、泥にまみれて這いつくばる、それが私の日常だ。


「おい、疫病神。こっちへ来るなよ」


 背後から飛んできたつぶてのような言葉に、私は深く被ったボロ布のフードをさらに引き下げた。

 わずかな野菜を売るために村へ向かう道すがら。かつて父が「不潔だ」と罵り、土足で踏みにじるような態度を取ったパン屋の主人が、呪いでも払うかのように道に塩を撒きながら私を睨みつけている。

「お前の家と関わると不幸になるってのは、村の共通認識なんだ。さっさと消えな! あのゴミのように死ね!」


 反論する気力など、とうの昔に枯れ果てている。

 実際、私に関わった人間は皆、不幸に見舞われた。父は死に、母は行方不明。高慢だった執事もメイドも、散り散りになった後は悲惨な末路を辿ったという噂が絶えない。「関わると不幸になる」というレッテルは、この村で生きる私にとって、逃れることのできない重い鎖だ。村を出ていくお金など一硬貨すら残されていない。


 足早に村を抜け、自分の小さな畑へと戻る。

 夕闇が迫る中、空には不穏な重低音を響かせる雨雲が、低く垂れ込めていた。


「空が唸っている……今夜は、荒れるわね」


 独り言は、冷たい風にさらわれて虚しく消える。

 夕食は、具のない薄いスープと、石のように硬い黒パンの一切れ。それすらも、明日の空腹を思えば半分しか喉を通せない。かつて銀の食器で供された、あの色彩豊かなフルコース。それを思い出すことは、今の私にとって猛毒を仰ぐのと同じだった。


 その夜、予感は最悪の形で的中した。

 凄まじい嵐が村を襲う。叩きつけるような雨が、茅葺き屋根の隙間から容赦なく漏れ落ち、私はバケツを抱えて浸水を防ごうと部屋の中を走り回った。

 雷鳴が鼓膜を震わせるたびに、古い家屋が悲鳴を上げて激しく揺れる。

 空腹と寒さ、そして暗闇から這い寄る「孤独」という名の怪物が、私を丸呑みにしようとしている——そんな恐怖に、私は膝を抱えて震えるしかなかった。


 ——その時。


 激しい雨音を突き抜けて、微かな、けれど確かな異音が混じった。


 トントン、と。

 何者かが、私の家の戸を叩いたのだ。


 心臓が跳ね上がる。

 こんな嵐の夜に、ましてや「疫病神の家」と忌み嫌われている場所を訪ねる物好きなど、この世にいるはずがない。借金の取り立てか、あるいは嵐の混乱に乗じた暴漢か。

 私は護身用の古びた鎌を握りしめ、音を立てないよう扉へ歩み寄った。


「……ど、どなたですか?」


 返ってきたのは、強風に煽られて消え入りそうな、老人の震える声だった。


「すみません……。旅の者ですが、嵐で道に迷ってしまいましてな。一晩だけでいい、軒先を貸してはいただけませんか……」

「妻も一緒なのです。どうか、お慈悲を……」


 息を呑み、穴が空いた扉の隙間から外を覗き見る。

 そこにいたのは、ずぶ濡れになり、今にもその場に崩れ落ちそうなほど衰弱した老夫婦。身に纏うのは継ぎ接ぎだらけのボロ布で、足元には靴さえない。


 村の人たちなら、迷わず彼らを追い返すだろう。自分たちの安寧を脅かす「物乞い」として、あるいは忌むべき存在として。

 ましてや、私自身の暮らしだって明日をも知れぬ困窮の極み。見ず知らずの他人に分け与える余裕など、欠片もありはしない。


 けれど。

 震える彼らの姿に、二年前、すべてを失って冷たい雨の中に放り出された自分自身の残像が重なった。

 あの時、誰か一人でもいい、私に温かい手を差し伸べてくれたなら。


(……呪われてるなんて、ただの迷信よ)


 恐怖を振り払い、私は重い横木を外して扉を大きく開け放った。


「さあ、早く中へ! そんなところにいたら、凍え死んでしまいます!」


 吹き込んできた雨風に顔を顰めながら、二人を狭い室内へと招き入れる。

 老夫婦は驚いたように目を見開き、それから絞り出すような声で、深々と頭を下げた。


「ああ、ありがとうございます……。なんて慈悲深いお嬢さんだ」

「ごめんなさいね、こんな汚い格好でお邪魔して……」


 私は慌てて、唯一の宝物である清潔な麻の布を持ち出し、彼らの体を拭った。

「いいんです。お座りください。火を、火を強くしますね」


 貴重な薪を惜しみなく暖炉に放り込み、火をおこす。パチパチとはぜる炎が、二人の青白い顔を次第に赤く照らし出していく。

 改めて見れば、二人はどこか浮世離れした雰囲気を纏っていた。酷い身なりをしているにもかかわらず、その眼差しは不思議なほど穏やかで、深く澄んでいる。それに、物乞い特有の酷い臭いがしない。寧ろ、香りそのものが感じられず、不思議なほどに無臭だった。


「何もお出しできるものはないのですが……せめて、これを」


 自分の夕食だったはずの黒パンと、温め直した薄い野菜スープをテーブルに並べた。

 スープといっても、中身はクズ野菜の切れ端や近場の野草と塩のみ。それでも、今の私が差し出せる「最大級の献身」だった。


「お嬢さん、これはあんたの食事でしょう? 私たちは、端っこで休ませてもらうだけで十分ですよ」

「いいえ、私はさっき頂いたばかりですから」


 咄嗟についた嘘。腹の虫が鳴りそうになるのを必死で抑え込み、私は努めて明るい笑みを浮かべてみせた。

「温かいうちにどうぞ。それと、このワインも……」


 棚の奥に秘蔵していた、父の遺品の最後の一本。安物の酸っぱいワインだが、気付け薬にはなるはずだ。

 私はそれを木杯に注ぎ、二人に差し出した。


 老夫婦は顔を見合わせ、それから愛おしそうに、そして一滴も無駄にせぬようスープを啜り、パンを分け合って食べ始めた。


「ああ、美味しい……。これほど温かいスープは、生まれて初めてだ」

「お嬢さん、あんたの名前は?」


「……ライラ、と申します」

「ライラさん。あんたは、この村で幸せに暮らしているのかい?」


 老爺の静かな問いに、言葉が詰まる。

 破産、夜逃げ、父の死、村人からの虐げ、底の見えない借金。

 真実を語れば、この穏やかな老人たちを悲しませることになる。


「……ええ。少し不自由はしていますが……その……こうして屋根のある家があるだけで、私は幸せです」


 再びの、嘘。

 自分を偽る虚しさに胸が疼いたが、今はただ、この二人が少しでも心安らかに過ごせることだけを願った。


 食事が終わる頃、外の嵐はいっそうの狂暴さを増した。

 空が怒り狂っているかのような、地の底から響く雷鳴。そして遠く、村の方角から絶望的な叫び声が聞こえた気がした。


「ライラさん。あんたは、こんなボロ屋だというのに、私たちのような薄汚い老人にすべてを差し出してくれた」

 老爺が、静かに立ち上がる。

 その瞬間、狭い室内を支配する空気が、劇的な変質を遂げた。


 暖炉の火が、あり得ないほどの黄金色に輝き始めたのだ。


「え……!?」


 私は目を見開いた。

 老夫婦の肉体が、内側から溢れ出す眩い光に包まれていく。

 ずぶ濡れだったボロ布は、いつの間にか神話から抜け出したような美しい絹の衣へと変わり、刻まれていた深いしわは、神々しいまでの威厳をたたえた表情へと昇華していく。


「冷たい雨に打たれ、この国のすべての扉を叩いた。だが、我らを招き入れ、最後の一片のパンまで分け与えようとしたのは……この呪われたと言われる家のお嬢さん、そなただけだった」


 老婦人——いや、女神のごとき気高さを纏った女性が、慈愛に満ちた微笑を向ける。


「死者の遺恨を口実に、捌け口に縋り、弱き者を蔑む村は今夜、水底へと沈むでしょう。ですが、慈悲の心を持つ貴女には、ふさわしい報酬を与えなければなりません」


「ま、待ってください。あなたたちは、一体……!?」


 混乱し、後ずさる私。しかし、神のごとき圧倒的な存在感を放つ老爺が、優しく私の手を取った。

 彼の指先が触れた瞬間、荒れ果てた私の掌から傷が消え去り、全身に未知の活力がみなぎっていく。


「我らは、この世界の秩序を司る者。試させてもらったのだよ。人間の心に、まだ真の『愛』が残っているかどうかを」


 神の宣言と共に、凄まじい地響きが轟いた。

 窓の外を見れば、村の方角から押し寄せる巨大な濁流。家々が次々と飲み込まれていく惨劇の中、なぜか私の住むこの小さな丘の上の家だけが、透明な光の結界に守られ、嵐の牙を寄せ付けない。


「ライラよ。貴女の父が犯した罪、そして貴女が受けた不当な仕打ち……そのすべてを我らが清算しよう」


「せ、清算……?」


「左様。今日から貴女は、『不幸を呼ぶ娘』ではない。世界で最も『愛』に選ばれた女性となるのだ」


 光が爆発した。

 意識は白銀の世界へと吸い込まれ、私は深い、温かな眠りの中へと落ちていった。


 ——目が覚めた時。


 そこには、昨夜までのボロ小屋の痕跡など、塵ほども残っていなかった。

 私が横たわっていたのは、雲のように柔らかなシルクのベッドの上。

 天井を見上げれば、緻密なフレスコ画と、虹色の火花を散らすクリスタルのシャンデリア。窓の向こうには、嵐の去った後の清冽な青空と、楽園を思わせる広大な庭園が広がっている。


 そして、私の枕元には一通の羊皮紙と、太陽の光を凝縮したかのような宝石の冠が置かれていた。


『慈愛を愛でしライラへ。

 貴女の願い、あるいは貴女が真に愛する者との出会いを、この場所で待ちなさい。

 すべての負債は霧散し、貴女を苦しめた者は泥へと帰った。

 ここが、貴女の新しい王国の始まりだ』


「……え……!?」


 震える手で自分の体を確かめる。

 ボロボロだった服は、最高級のドレスへと変わり、首元にはかつて母が盗み去ったどの宝石よりも鮮烈な輝きを放つペンダントが揺れている。


 借金まみれの貧乏農家だった私が、一晩にして、世界で最も尊き者へと変貌してしまった。

 戸惑いながらも外へ出ようと扉を開けると、そこには整然と居並ぶ数多の騎士たちと、一人の美しい青年が立っていた。


 漆黒の髪。鋭くも、その奥に深い情熱を秘めた瞳。

 彼は私を見つめると、これ以上ないほど恭しく膝を突き、その手を取った。


「——ずっと、貴女をお探ししておりました。我が運命のあるじよ」


 成金の娘から貧乏農家、そして今、私の運命は、神の悪戯か慈悲か、全く予期せぬ方向へと大きく旋回を始めてしまった。


 物乞いを助けたら、大変なことになった……いえ大変どころでは済まない。私の人生を根底から覆す、甘く激しい物語が幕を開けてしまったのだ。

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