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泥濘の亡霊と、城主たる者の覚悟

 湖の対岸に現れた男、ギデオン・ウォルポール。

 豪奢な毛皮を羽織り、腹を揺らしながら唾を飛ばすその醜悪な姿が水鏡に映し出された瞬間、私の胸の奥で、蓋をしていたはずの黒い感情がドロリと音を立ててあふれ出した。


 父を甘言で騙し、無謀な投機へと走らせた元凶。母に色目を使って手懐け、アトウッド家の財産を内側から食い荒らした寄生虫。夜逃げした母からすべての宝石を巻き上げた後、彼女を娼館に売り飛ばしたという黒い噂すらある男だ。

 彼がなぜ、今更になって私の元へやって来たのか。


「おい、あの城を見ろ! 湖の中心に、とんでもねぇ城が浮いてやがる!」


 水鏡の向こうで、傭兵の一人が私たちのいる城を指差して叫んだ。

 ギデオンは豚のように目を細め、遥か遠くの白亜の城塞をねめつける。その瞳に、隠しきれない強欲の光が宿るのが見えた。


「なんてこった……。アトウッドの小娘が隠し財産を持っていたという噂、どうやら本当だったようだな。こんな魔法仕掛けの城を建てやがって。だが、所詮は世間知らずの小娘だ。あの城ごと、俺の借金のカタとして丸呑みにしてやる!」


 卑劣な高笑いが、水鏡を越えて私の耳を汚す。

 どうやら彼は、この城が神の奇跡によって生まれたものだとは微塵も思っていないらしい。父の隠し財産(遺物)だと決めつけ、私から最後の血の一滴まで搾り取ろうとしているのだ。


「……やはり、生かしておく価値のないゴミですね」


 真横から響いた絶対零度の声に、私はハッと我に返った。

 ルシアンだった。彼は抜刀した剣をだらりと下げたまま、水鏡に映るギデオンを氷のような瞳で見下ろしている。

 彼のまとう空気が、先ほどまでの甘やかな騎士のものから、完全に「殺戮者」のそれへと変貌していた。


「ここでお待ちください、ライラ様。今すぐあの豚の首をはねて、貴女の御前に並べてご覧に入れましょう」

「ルシアン、待って!」


 湖面へ飛び出そうとする彼のマントを、私は必死に掴んだ。

「手を汚さないで。あんな男のために、あなたが罪を被る必要はないわ」


「罪? これは掃除です。私の剣は、貴女の御心を煩わせる害悪を排除するためにのみ存在します」

 ルシアンは一切の躊躇ためらいもなく言い切る。その顔には、狂気じみた陶酔すら浮かんでいた。私に害をなすものを殺すことが、彼にとって無上の喜びであるかのように。


「ダメよ!」

 私は彼の前に回り込み、両手を通せんぼするように広げた。

「私がやめてと言っているの。……あなたは私に忠誠を誓ってくれたんでしょう? なら、私の命令を聞いて」


「……っ」

 私の強い視線に射抜かれ、ルシアンはピタリと動きを止めた。剣を握る手が微かに震え、不満と葛藤がその美しい顔を歪ませる。


「……承知、いたしました。主の命とあらば」

 ギリッと奥歯を噛みしめる音が聞こえそうなくらい悔しげに、ルシアンは剣をさやに納めた。しかし、その殺気は一向に収まる気配がない。


「ありがとう。……それにね、ルシアン。あんな男、ただ殺すだけじゃ生温いわ」

「ん……?」


 私の口から出た意外な言葉に、ルシアンが目を丸くした。

 私は水鏡の中のギデオンを冷ややかに見据える。

 泥を這うような数年間。石を投げられ、蔑まれ、飢えに苦しんだ日々。そのすべてを仕組んだ男が、今度は私の新しい居場所まで奪いに来たのだ。


 神様は私に、慈悲の報酬としてこの城と力をくれた。

 ならば、その力を自分の尊厳を守るために使うのは、決して間違っていない……はずだ。


「私からすべてを奪った男に、本当の『絶望』がどんなものか教えてあげる。……ルシアン、力を貸してくれる?」

「——ああっ! もちろんです、もちろんですとも! 我があるじ!」


 ルシアンの表情が、歓喜に歪んだ。私の冷酷な一面を見たことが、彼の中の何かを激しく刺激したらしい。頬を上気させ、熱に浮かされたように私の手を取り、その甲に深く唇を落とす。


「貴女のその誇り高いお姿……ああ、素晴らしい。貴女の望む地獄を、あの男に与えましょう。ご指示を」

「まずは、彼らを少しだけ泳がせるわ。ここへ来たいというなら、来させてあげましょう。……絶望的な方法でね」


 私はバルコニーの縁に立ち、広大な湖に向かって静かに祈った。

 神から与えられた力は、この場所では私の思考と直結している。この湖の意思は、私自身だ。


水精ウンディーネたち。彼らに道を作りなさい。ただし……決して戻れない道を)


 ピチャリ、と水面が跳ねた。

 次の瞬間、対岸で騒いでいたギデオンたちの目の前に、湖の水が割れて一本の細い道が現れた。

 モーセの海割りのように、両側には巨大な水壁がそそり立ち、城へと続く透明な水晶の道が一直線に伸びている。


「な、なんだこれは!?」

 傭兵たちが悲鳴を上げて後ずさる中、ギデオンだけは貪欲な笑みを浮かべた。


「ははは! 見ろ、魔法の道だ! あのアトウッドの小娘が、俺の威光に恐れをなして道を譲りやがったんだ! 進めー! 城も城の財宝も、すべて俺のものだ!」


 欲に目がくらんだギデオンは、傭兵たちを怒鳴りつけ、馬車を水晶の道へと進ませた。

 おずおずと足を踏み入れる傭兵たち。馬車の車輪が、氷のように滑らかな道の上を進んでいく。

 彼らが湖の中ほどまで進んだ頃合いを見計らい、私は冷たく言い放った。


「閉ざして」


 ドザァァァァァッ!!


 凄まじい轟音と共に、背後の道が崩れ落ちた。

 慌てて振り返ったギデオンたちの目に映ったのは、もはや戻る道を失い、湖の中心で完全に孤立した自分たちの姿だった。

 両側にそびえ立つ水壁は、今にも彼らを押し潰さんと不気味な水音を立てている。


「ひぃっ!? なんだ!? 道が消えたぞ!」

「罠だ! 騙されたんだ! 引き返すぞ!」

 パニックに陥る傭兵たち。馬はいななき、馬車は滑る足場で立ち往生している。


「う、うろたえるな! 前に進め! 城は目の前だ!」

 青ざめた顔で強がるギデオンだが、彼の震える声はすでに恐怖に支配されていた。

 彼らはもう、私の指先一つで命を散らすことができる、哀れな虫けら同然だ。


「さあ、ルシアン。お出迎えに行きましょうか。彼らに、身の程を教えるために」

「御意のままに、我が美しき主よ」


 ルシアンは私の腰を抱き寄せると、ふわりと宙に舞い上がった。

 重力から解放されたかのように、私たちはバルコニーから一直線に、湖の上に立ち往生するギデオンたちの頭上へと舞い降りた。

 空気を踏みしめるようにして、ルシアンが空中に留まる。私は彼の腕に抱かれながら、眼下の愚か者たちを冷ややかに見下ろした。


「誰かと思えば、ウォルポール商会のご主人ではありませんか」


 私の静かな、しかし魔力を帯びて湖全体に響き渡る声に、ギデオンたちは弾かれたように頭上を見上げた。


「なっ……き、貴様は! ライラ・アトウッドか!?」

 ギデオンが馬車の窓から身を乗り出し、私を指差して叫ぶ。その目は、豪華なドレスを纏い、空を飛ぶ騎士に抱かれた私を見て、信じられないものを見るように見開かれていた。


「ええ。お久しぶりですね。まさか、私の新しい家まで借金の取り立てに来ていただけるとは。その熱意には感服いたしますわ」


「ふ、ふざけるな! お前が隠し持っていたその城と財宝は、すべて俺のものだ! さっさと魔法を解いて、俺を城に招き入れろ!」

 この期に及んでまだ吠えるギデオンに、私は呆れを通り越して笑いそうになった。


「隠し財宝? 勘違いしないで。これは、私が神から賜ったものよ。あなたのような強欲な泥棒が足を踏み入れていい場所じゃないのよ」


「か、神だと? ハハハ、寝言なら寝ている時に言え! いいか、俺のバックには王国の有力貴族がついているんだぞ! 俺に逆らえば、ただでは済まないと思え! 貴様の妄想の神など、怖くもないわ!」


「……ほう。王国の貴族ですか」

 私に代わって口を開いたのは、ルシアンだった。

 彼は私を抱き抱えたまま、片手でスッと剣を抜いた。


「ライラ様。これ以上、この汚物がこの神聖な場所を汚すのを聞いていることすら不快です。少しだけ、黙らせてもよろしいでしょうか?」


「ええ。殺さない程度にね」


「十分ですね」


 ルシアンが剣を軽く振り下ろした。

 ただそれだけ。

 何の魔法も使っていない、純粋な剣閃。しかし、それは目に見えない巨大な衝撃波となって、ギデオンの馬車を真っ二つに両断した。


「ヒッ!?」


 轟音と共に馬車が弾け飛び、ギデオンと傭兵たちが水晶の道に投げ出される。

 彼らが持っていた武器や荷物は、すべて容赦なく湖の底へと沈んでいった。

 豪奢な毛皮は水浸しになり、宝石の指輪もどこかへ消え失せ、ギデオンはただの惨めな初老の男として、氷のように冷たい足場に這いつくばっている。


「ひぃぃぃっ! ば、化け物……!」

 圧倒的な力の差を理解した傭兵たちは、武器を放り出してガタガタと震え上がった。


「これでお分かりいただけたかしら?」

 私はゆっくりと彼らの目の前に降り立ち、見下ろした。

「ここは私の神域。あなたたちのちっぽけな権力も、お金も、何の意味も持たない世界よ」


「ま、待ってくれ! ライラ、いや、ライラ様!」

 ギデオンは突然態度を豹変させ、私の足元にすがりつこうとした。

「わ、悪かった! 借金はチャラにする! だから、助けてくれ! 俺にはまだ、守るべき家族がいるんだ! 病弱な妻と幼い娘が」


 その言葉を聞いた瞬間、私の表情から一切の感情が消え去った。


「守るべきもの? あなたに、そんな言葉を口にする資格があると思っているの?」

「ひっ……!」


 私の静かな怒りに、ギデオンが息を呑む。

「あなたは私の父を騙し、母をそそのかし、私たち家族のすべてを奪った。私がどんなに惨めな思いでこの数年を生きてきたか、想像したことすらもないでしょう。なのに、自らが窮地になった時だけ許しを乞うのね」


 私は彼から一歩離れ、冷酷に言い放った。


「あなたの命は奪わないわ。でも、二度と私の前に現れないと誓いなさい。もし再び私に関わろうとすれば……次はこの湖の底に魂を沈めるわ」


「ち、誓う! 誓うとも! だから、元の場所に戻してくれ!」

 土下座をして泣き叫ぶギデオン。かつて父を嘲笑った男の、あまりにも無様な姿。

 胸がすっとするかと思ったが、残ったのはただの虚しさだけだった。こんな男のために、私はずっと怯えて生きてきたのか、と。


(水精たち、彼らを元の場所へ追い返して)


 私が念じると、彼らの足元の水晶の道が波打ち、強引な水流となって彼らを陸地へと押し流していった。

 悲鳴を上げながら泥だらけの岸辺に放り出される男たちを、私は静かに見届けた。


「……お優しいですね、ライラ様。私なら、彼らの四肢を落として一生この湖で飼い殺しにしてやるところですが」

 背後からルシアンが、少し不満げに呟く。

「それは趣味が悪いわよ、ルシアン」この地を、穢してはならない気がした。

「貴女が甘すぎるのですよ。あのような輩は、必ずまた貴女を狙ってきます。その時は……」

「その時は、あなたが守ってくれるんでしょう?」

 私が振り返って微笑むと、ルシアンはハッとして、すぐに深く首を垂れた。


「……ええ。必ず」

 その横顔には、私の予想を超えた、狂おしいほどの忠誠心が刻まれていた。


 過去の因縁は、ひとまず退けた。

 しかし、ギデオンの言葉が気にかかる。「王国の有力貴族がついている」。この騒動は、まだ終わりの始まりに過ぎないのかもしれない。


 私は小さく息を吐き、自分の城へと向かってルシアンと共に空へと舞い上がった。

 泥にまみれた日々は終わった。ここからは、私の意志で、私の運命を切り拓くのだ。

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