EP 9
月が闇を照らす時
防衛省地下、出雲艦隊・作戦会議室。
南の島での「治安出動」が血を流さずに完了したという報告に、室内が安堵の空気に包まれたのも束の間だった。
巨大なメインモニターが突如としてノイズに覆われ、一人の男の顔を映し出した。
『——見事な法廷遊戯だった。拍手を送ろう、日本の友人たち』
第七艦隊総司令官、ジャック・フォークナー大将。
日に焼けた分厚い顔に、ラッキーストライクを咥え、野獣のように目を細めている。
『だが、極東の海は君たちの箱庭じゃない。ロシアと中国が動いた以上、我々第七艦隊も「地域の安定」のために介入させてもらう。現在、我が艦隊は当該海域の完全封鎖に向けて進路を取った。……君たちのオモチャの補給線も、これでお終いだ』
大国の、むき出しの暴力。
どれほど見事な法と経済の盾を築こうと、最後は圧倒的な物理的質量ですべてを押し潰す。それが世界の「現実(地獄)」だった。
坂上真一の顔から、血の気が引く。
第七艦隊との正面衝突となれば、日本は地図から消えかねない。
「……ジャック大将。こがいな真似、ただで済むと思うとるんか」
坂上が低い声で唸るが、ジャックは鼻で笑った。
『力なき正義は無能だ、坂上司令。大人しく霞が関のスカートの陰に隠れて——』
「——通信回線、暗号化完了。私が話します」
凛とした声が、ジャックの言葉を遮った。
モニターの前に進み出たのは、日野輝夜だった。
その手には、いつもと同じ備前焼のタンブラーが握られている。
『君が、霞が関の新しいお姫様か。悪いが、政治家のママゴトに付き合う時間は——』
「ママゴトではありません。これは、降伏勧告です」
作戦会議室の空気が、凍りついた。
坂上も、モニター越しのジャックも、一瞬自分の耳を疑った。
日本が、アメリカ第七艦隊に降伏勧告?
狂気の沙汰だった。
ジャックの纏う空気が、一気に殺意を帯びる。画面越しでさえ、鼓膜が破れそうなほどの重圧。
輝夜の指先が、氷のように冷たくなる。
心臓が肋骨を突き破るほどの勢いで早鐘を打ち、喉がカラカラに乾いた。
目の前にいるのは、世界最大の軍事力の象徴。一歩間違えれば、自分の言葉一つで日本中が火の海になる。故郷の村がダムに沈んだ時のように、圧倒的な暴力がすべてを飲み込んでいく幻覚が脳裏を過った。
だが、輝夜は備前焼のザラリとした土の感触を掌に押し付け、痛みを錨にして己を繋ぎ止めた。
(私は、月になる。暗闇に怯える彼らを導く、絶対に揺らがない光に——!)
「蘭さん、義正さんから送られた『アレ』を、第七艦隊の司令部システムに強制表示させてください」
「ん。了解。……ファイアウォール突破。表示した」
蘭が角砂糖を噛み砕きながら、エンターキーをターン!と叩く。
ジャックの顔色が変わった。
彼の手元の端末に、大量のデータが濁流のように表示されたのだ。
「……何だ、このデータは」
「あなた方の第七艦隊を支える、次世代兵器群の『サプライチェーン(供給網)の完全な掌握リスト』です」
輝夜の声は、どこまでも澄み切っていた。
夜空から冷たく見下ろす、絶対的な月光のように。
「力武義正氏が構築したダミー会社群は、出雲艦隊への補給ルートを作るのと同時に、あなた方の兵器システムに不可欠なレアアースと、蘭さんが意図的に流出させた『代替不可能なAIモジュール』の市場を完全に独占しました」
輝夜は、備前焼のタンブラーから一口だけ水を飲み、静かに告げた。
「現在、第七艦隊の心臓部は、私が握っています。もし出雲艦隊の航路を少しでも妨害すれば、あなた方の次世代兵器群は、明日から単なる鉄クズに変わるでしょう」
『……ハッタリだ! 一国の官僚が、世界の市場を——』
「ハッタリかどうか、試してみますか?」
輝夜が、ふっと微笑んだ。
それは、慈愛に満ちた、あまりにも美しい微笑みだった。
「ジャック大将。私は争いを望みません。皆が、それぞれの場所で輝きながら働いて、夜には美味しいお酒を飲める……そんな『おはよう』と言える世界を作りたいのです。あなた方の国の兵士たちにも、帰りを待つ家族がいるはずです」
冷徹な経済の刃を首筋に突きつけながら、口にするのは底抜けに無垢な理想。
その異常なアンバランスさが、ジャックの背筋に冷たい汗を伝わせた。
「私の月に、迷いはありません。……引いてください。さもなくば、私があなた方の世界を、経済と情報の冬で凍らせます」
沈黙。
永遠にも似た数十秒。
やがて、ジャック・フォークナーは、咥えていたラッキーストライクを灰皿に押し付けた。
『……狂ってる。日本は、とんでもない魔女を生み出したな』
ジャックは低く笑うと、首を振った。
『艦隊を下げろ。極東の海は今夜から、彼女の「月」の支配下だ』
通信が切れた。
真っ暗になったモニターの光だけが、輝夜の顔を照らしている。
作戦会議室は、水を打ったように静まり返っていた。
一発の銃弾も撃たず。一滴の血も流さず。
たった一人の二十五歳の女性が、言葉と論理と狂気にも似た理想だけで、世界最強の艦隊を退かせたのだ。
「……終わりましたね」
輝夜が振り返り、小さく息を吐いた。
その顔は、先ほどまでの冷徹な魔女ではなく、どこにでもいる年相応の女性のそれに少しだけ戻っていた。
坂上真一は、その小さな背中を、ただ呆然と見つめていた。
特攻隊の祖父から受け継ぎ、自らも浸かってきた血と泥の『地獄』。
それが今、目の前で、彼女の放つ圧倒的な光によって跡形もなく消し飛ばされたのだ。
「……恐れ入ったわ」
坂上は、胸ポケットのハイライトを取り出そうとした手を止め、代わりにコーヒーキャンディを口に放り込んだ。
「アンタは本物じゃ。地獄を知らんからこそ、地獄そのものを書き換えよった」
地獄の門番が、初めて自らの意志で、門を閉ざした瞬間だった。
坂上は姿勢を正し、日野輝夜に向けて、最敬礼の敬礼を送った。
「出雲艦隊はこれより、貴女の『月』の導きに従う。……存分に照らしてくれや、霞が関の姫君」
輝夜は目を丸くした後、嬉しそうに、花が咲くように笑った。
世界を覆っていた深い夜の闇が、今、静かに明けようとしていた。




