EP 8
阿修羅の法廷
ダージリンの華やかな香りが、冷え切った会議室にふわりと漂った。
「さあ、どうぞ。自家製のスコーンです。クロテッドクリームをたっぷり乗せるのが、一番美味しいんですよ」
外務省・特別応接室。
日本政府・首席国際法務官の桜田リベラは、完璧な淑女の微笑みを浮かべて、ボーンチャイナのティーカップをテーブルに置いた。
向かいに座るのは、顔をしかめるロシア大使オルロフと、薄笑いを浮かべる中国大使の張だ。
彼らは「緊急の国境協議」という名目で呼び出されていた。
「桜田法務官。お茶会のお誘いなら他所でやっていただきたい」
オルロフが苛立たしげにテーブルを叩く。
「現在、我が国の『民間海洋調査団』が、貴国の武装勢力——自衛隊によって不法に包囲されている。彼らに手を出せば、我が国は自国民保護のために、あらゆる手段を講じる準備がある」
「民間、ですか」
リベラはスコーンにクリームを塗りながら、小首を傾げた。
「ええ、民間です。いかなる理由があれ、正規軍が民間人に銃口を向ければ、それは国際法違反の『戦争犯罪』だ。お分かりかな?」
張大使が、扇子を弄りながら冷酷に告げる。
彼らの狙いは明白だった。
信長たち自衛隊に「民間人を攻撃させた」という既成事実を作り、堂々と軍事介入するための大義名分を得ること。
だが、リベラは慌てるどころか、ふふっ、と優雅に笑った。
そして、傍らに立つ日野輝夜に視線を送る。
「では、日野補佐官。例の書類を」
「はい」
輝夜がテーブルの中央に滑らせたのは、分厚い不動産登記簿と、英語で書かれた一枚の契約書だった。
「……何だ、これは」
「たった三十分前に締結された、該当の無名島における『完全な土地所有権』の譲渡契約書です」
輝夜が淡々と説明する。
「買い手は、桜田財閥傘下の環境保護財団。そして、代理交渉人はフリーコンサルタントの力武義正氏。彼が、島に独自の利権を持っていた海外のダミー会社から、時価の三倍という法外な値段で全権利を買い上げました」
オルロフと張の顔から、余裕の色が消え去る。
「つまり、あの島は現在、純然たる『日本の私有地』であり、『自然保護区』です」
リベラが、ティーカップをコトリと置いた。
その瞬間、彼女が纏っていた温和な空気が、氷点下まで凍りついた。
リベラの脳裏に、息子の優太の寝顔がよぎる。
(この子に、戦争のサイレンを聞かせるわけにはいかない。地獄の炎を、この国に降らせるわけにはいかない——!)
心臓の奥で、かつて関東一帯を震え上がらせた「修羅」の血が沸騰する。
リベラは、純白のレースの手袋を外すと、テーブルに両手をつき、二人の大国大使を射抜くように睨みつけた。
「民間人、と仰いましたね。結構です。ならば、あの島にいる完全武装の男たちは、他国の私有地に不法侵入し、自然保護区を荒らしている『ただの密猟者』にして『重犯罪者』です」
「なっ……! 詭弁だ! そんな子供騙しの法解釈が——」
「通ります。私が通すのよ」
リベラの声が、ドスの効いた低いものに変わる。
法の女神の仮面が割れ、血の通った阿修羅が顔を出した。
「重犯罪者が自動小銃で武装している以上、地元警察では対応不可能。よって、現行の国内法に基づき、自衛隊は『治安出動』として彼らを【逮捕】します。……これは軍事衝突じゃありません。ただのお巡りさんの、お仕事です」
「貴様ら……正気か!」
オルロフが立ち上がるが、リベラは冷酷な笑みを深めた。
「そちらこそ、よくお考えになって。ただの密猟者が逮捕された程度で、国軍を動かしますか? もし動かせば、今度はあなた方の国が、国際法をガン無視した『侵略国家』として世界中から経済制裁を受けることになりますよ」
完璧な、詰み(チェックメイト)だった。
輝夜の立案した「戦争の枠組み自体を書き換える」という異常な戦略。
義正の「金」による強引な盤面の構築。
そして、リベラの「法」という名の絶対的な暴力。
これらが一つに重なり、大国が仕掛けた地獄の罠を、見事に粉砕したのだ。
「……見事だ」
張大使が、扇子をパチンと閉じた。
怒りを通り越し、どこか感嘆したような声だった。
「法と経済を刃とし、血を一滴も流さずに退路を断つとは。……霞が関には、恐ろしい魔女が棲んでいるらしい」
「魔女ではありません」
ずっと黙っていた輝夜が、静かに口を開いた。
「私はただ、皆が明日も笑って過ごせる世界を作りたいだけです。あなた方の国の方々にとっても、兵士が死なないことは、同じように利益のはずです」
輝夜の、一切の嘘がない透明な言葉。
その純粋な「月」の光に当てられ、二人の大使は何も言えずに部屋を後にした。
*
「……終わりましたね」
応接室に二人きりになると、リベラはふうっと息を吐き、ソファに深く沈み込んだ。
額には薄っすらと汗が浮かんでいる。
「リベラさん。見事な法廷戦術でした」
「やめてよ、心臓バクバクだったわ。……でも、これで信長くんを、一発の銃弾も撃たせずに連れて帰れる」
リベラは冷めた紅茶を一口飲み、ふわりと、いつもの聖母のような微笑みを取り戻した。
「輝夜ちゃん。あなたの描く世界は、本当に無茶苦茶で、最高に綺麗ね」
「私の力ではありません。皆さんが、あの暗闇の中で道を切り拓いてくれたからです」
南の島では今頃、銃を下ろし、呆然とする信長たちの姿があるはずだ。
血を流さずに勝利する。
地獄を知る男たちに、新しい戦い方を示した瞬間だった。
だが、安堵する輝夜の背後に、さらなる巨大な影が忍び寄っていることを、彼女たちはまだ知らなかった。




