EP 7
地獄を浸かる覚悟
叩きつけるような熱帯の雨が、迷彩服を重く泥まみれにしていた。
日本の最南端、国境の空白地帯に位置する無名島。
「……クソが。完全に包囲されとるじゃねえか」
第一空挺団・特殊作戦群、坂上信長一等陸尉は、赤外線スコープから目を離し、低く吐き捨てた。
普段の標準語は鳴りを潜め、極度の緊張と熱が彼の奥底にある「広島の血」を呼び覚ましている。
極秘の偵察任務だった。
だが、島に上陸した彼ら小隊を待っていたのは、国籍不明の完全武装した傭兵部隊だった。通信は強力なジャミングで遮断され、退路は完全に断たれている。
大国が仕掛けた、露骨な「罠」だ。
ここで信長たちが一発でも発砲すれば、それを口実に他国の正規軍が「自国民の保護」を名目に雪崩れ込んでくる。
(親父……アンタが言ってた通りじゃ。俺はまだ、半人前じゃった)
信長は、泥まみれのアサルトライフルを強く握りしめた。
『オドレはまだ地獄に浸かっとらん。兵士が地獄に浸かって進まんと、国民は守れん』
偉大な父の言葉が、脳裏をよぎる。
死の恐怖はない。
あるのは、このまま無様に殺されれば、親父の顔に泥を塗るという焦燥だけだ。
「……野郎ども、弾倉を確認しろ。地獄の底まで、何人か道連れにしてやる」
信長が血の味のする唾を吐き捨て、引き金に指をかけた、その時だった。
『——待ちなさい、信長一尉。発砲は許可しません』
ノイズまみれの骨伝導イヤホンから、凛とした女の声が響いた。
早乙女蘭の神業的な暗号解読によって、一瞬だけ繋がった細い通信線。その先にいるのは、日野輝夜だった。
*
市ヶ谷・防衛省地下。
作戦会議室の空気は、文字通り「凍りついて」いた。
「そこを退け、輝夜」
出雲艦隊打撃軍・総司令官、坂上真一。
彼の全身から立ち上る殺気は、かつてないほど濃密な「死」の匂いを放っていた。
「第一護衛隊群、および平上の航空部隊にスクランブルをかける。あの島を焦土にしてでも、陸の連中を連れ戻す」
それは、司令官としての判断ではない。
一人の「父親」としての、怒りに狂った獣の咆哮だった。
「なりません」
輝夜は、大股で歩み出ようとする坂上の前に立ち塞がった。
「今、出雲艦隊が動けば、奴らの思う壺です。日本から先制攻撃を仕掛けたという既成事実を作られ、国境線は火の海になります。それは、あなたが守ろうとしている『日常』を、自らの手で壊すことと同義です」
「御託はええ!!」
ドンッ!!
坂上の巨大な拳が、輝夜のすぐ横の壁を砕き割った。
コンクリートの粉塵が舞う。常人なら、その暴力の気配だけで気絶してもおかしくない圧力。
「あれはワシの息子じゃ!! ワシが地獄に落とした命じゃ!! ワシが迎えに行かんで誰が行くと言うんじゃ!!」
坂上の悲痛な叫び。
鬼の面が剥がれ落ち、血を吐くような父親の顔がそこにあった。
輝夜の心臓が、痛いほど跳ねる。
息が詰まりそうになるほどの恐怖。だが、彼女は一歩も引かなかった。
手元の備前焼のタンブラーを両手で包み込むように強く握りしめ、真っ直ぐに坂上の目を見据える。
「私が、行きます」
輝夜の声は、静かだった。
だが、その声は会議室のどんな喧騒よりも確かに、坂上の鼓膜を打った。
「あなたは、地獄の門番です。ここを動いてはいけない。……信長さんは、私が必ず生きて連れ帰ります。誰一人、犠牲にはさせない。武力以外の方法で」
「……お嬢ちゃん、オドレ、自分が何を言うとるか分かっとるんか」
「ええ。分かっています」
輝夜は、タンブラーを置き、マイクのスイッチを叩いた。
「信長一尉、聞こえますか。日野輝夜です」
『……霞が関のお姫様が、こんな最前線に何の用じゃ。こっちは今から、地獄の釜の蓋を開けるところなんでな』
「蓋は閉じたままにしてください。現在、あなたの部隊に向けられた銃口は、物理的な弾丸ではありません。国際政治という名の『刃』です。ですから——」
輝夜の瞳に、絶対的な自信という名の光が宿る。
「——ここから先は、私の戦場です。あなたはただ、生き延びることだけを考えてください」
『……ハッ。無茶苦茶言いよるわ』
通信の向こうで、信長が短く笑う気配がした。
「約束します。明日もあなたが、美味しいお肉を食べられる世界を、私が作ります。……今は耐えてください。月が、必ずあなたを導きますから」
輝夜は通信を切ると、即座に振り返った。
「蘭さん。桜田国際法務官との秘匿回線を繋いでください。義正さんにも、ただちにダミー会社経由で『ある物資』の手配を。……大国に、高くつく勉強代を払わせます」
坂上は、その小さな背中を呆然と見つめていた。
地獄を知らない無垢な少女が、たった一人で、世界という巨大な闇に立ち向かおうとしている。
(……本物の、月じゃ)
地獄の産声を上げるはずだった戦場に、冷たく、そして優しい光が差し込もうとしていた。




