EP 6
国境線のチェス
横須賀基地沖に停泊する、巨大な鋼鉄の城。
アメリカ海軍第七艦隊・旗艦の司令官室で、ジャック・フォークナー大将は、手元のレポートを不機嫌そうに机に放り投げた。
「……信じられん。我々の情報網を完全にバイパスした、独自の軍事兵站ルートだと?」
テキサス育ちの日に焼けた太い指が、ラッキーストライクを取り出す。
ジッポーで火を点け、紫煙を深く吸い込んだ。
提出された報告書には、日本国内のダミー商社を経由し、出雲艦隊へ弾薬と特殊鋼材を供給する「見えない補給線」の存在が示唆されていた。
制海権とは、単に軍艦を並べることではない。
補給という血液を絶え間なく心臓に送り続けるシステムこそが、真の「力」だ。ジャックはそれを誰よりも理解している。
「たった数日で、誰がこんな魔法の算盤を弾いた。……それに、国際法務局の桜田リベラ。あの女狐め、法解釈のグレーゾーンを突いて、この補給ルートを『純然たる民間取引』として合法化しやがった」
ジャックは窓の外、広大な海を見つめた。
強大な同盟国であり、同時にチェス盤の「便利な駒」であったはずの日本が、自らの意志で盤面を動き始めている。
「極東の海に、巨大な白鯨が現れたってわけか。……面白えじゃねえか」
ラッキーストライクの煙が、野獣のような笑みを浮かべるジャックの顔を覆い隠した。
*
同じ頃、東京都内・最高級ホテルのシガーバー。
重厚な革張りのソファで、二人の男が紫煙を燻らせていた。
互いに敵対する大国の代表でありながら、今は奇妙な静寂を共有している。
「見事な『瞞天過海』——天を欺き、海を渡る計略ですな」
中国大使、張慶雲が、独特の甘い香りを放つ高級タバコ『中華』の灰を優雅に落とした。
その細い目の奥には、何手も先の盤面を読む老獪な光が宿っている。
「日本の内閣府に、面白い玩具が入ったと聞いていましたが。どうやら、ただの官僚ではないらしい。微笑みの裏に刃を隠す、実に大陸的な戦術だ」
向かいに座る男——ロシア大使、ヴィクトル・オルロフが、太い鼻を鳴らした。
「ふん。張大使、君はあれを東洋の兵法だと言うのかね。私に言わせれば、見事な『マスキロフカ(軍事的欺瞞)』だ」
オルロフが咥えているのは、ロシアの安タバコ『ベロモルカナル』だ。
大使という身分に似合わぬ、喉を焼くような粗悪な煙。だが、極寒の収容所をも生き抜いた彼にとって、この煙こそが「油断ならない現実」を繋ぎ止める命綱だった。
「法と経済の網の目を縫い、出雲艦隊という『暴力』を解き放つ準備を整えつつある。……美しい嘘だ。世界を欺くには、まず自分たちの狂信的な正義を信じ込まねばならない」
張大使が、ふふ、と静かに笑う。
「どう動きますかな、オルロフ大使」
「決まっている。出る杭は打つ。それも、再起不能なまでにな」
大国が、極東の小さな島国を見据え、その巨大な顎を開こうとしていた。
*
霞が関、与党幹事長室。
若林幸隆は、分厚い報告書の束をパラパラと捲りながら、呆れたような、それでいて愉快そうなため息をついた。
「おいおい、輝夜。お前さん、たった一週間で米・中・露のトップの尻尾を踏んづけやがったな」
部屋の中央に立つ日野輝夜は、表情一つ変えずに答えた。
「踏んだのは尻尾ではありません。彼らの『利益線』です」
輝夜の凛とした声が、幹事長室に響く。
「義正さんが構築した裏ルートと、リベラさんが引いた法的な防衛線。そして蘭さんの情報統制。これにより、出雲艦隊は他国からの干渉を受けず、完全に独立した作戦行動が可能になりました」
「ああ、違げえねえ。見事なもんだ。……だがな、輝夜」
若林が、ピースに火を点ける。
紫色の重い煙が、輝夜と若林の間に立ち込めた。
「怒った大国は、理屈じゃ止まらねえぞ。奴らはすぐにでも、目に見える『暴力』で威嚇してくるだろうぜ。小賢しい真似をした罰としてな」
「予測済みです」
輝夜は、一歩だけ若林に近づいた。
その瞳には、一切の迷いがない。夜空に浮かぶ、冷たくも絶対的な月光のような意志。
「武力による威嚇には、それ以上の覚悟で応じます。……坂上司令の『地獄』を、私が最前線で証明する番です」
「……はっ。言うようになったじゃねえか」
若林は、ピースの煙を深く吐き出し、口角を吊り上げた。
「上等だ。世界中を敵に回す覚悟があるなら、俺が政治の泥は全部被ってやる。存分に踊ってきな、ウチの姫君」
輝夜の打った一石は、静かだった国境線のチェス盤をひっくり返した。
一切の犠牲を出さず、誰一人泣かせない。その純粋すぎる理想(狂気)を通すための、本物の戦いが今、幕を開けた。




