EP 5
伝統の金曜日
金曜日。
海上自衛隊にとって、それは単なる週末の前日ではない。
長く過酷な航海の中で曜日感覚を失わぬよう、一週間の区切りとしてカレーを食す「儀式」の日だ。
だが、その儀式は市ヶ谷の地下を離れ、意外な場所でも執り行われていた。
「——ほうら、信長。オドレ、野菜が残っとるぞ。レンジャー訓練通ったんなら、人参の一本くらい根性で飲み込め」
「うるせえな親父! 俺はもう子供じゃねえんだよ。あと、そのエプロン姿で威張るな、威圧感がバグってるだろ!」
東京・練馬区の一軒家。
広い庭を持つその邸宅の台所では、日本屈指の猛将が、あろうことか「フリルのついたエプロン」を巨体に纏わせ、巨大な鍋をかき混ぜていた。
坂上真一。
出雲艦隊を率いる男は、今、一人の父親として戦っていた。
「……あら。信長くん、お父様にそんな口を利いてはダメよ? 美味しいお出汁が台無しになっちゃう」
居間のソファで優雅に紅茶を啜るのは、首席国際法務官、桜田リベラだ。
傍らでは五歳の息子・優太が、苺ミルク飴を頬張りながら、坂上の娘・千姫と楽しげに遊んでいる。
そこへ、若林の紹介で案内された輝夜が、控えめに足を踏み入れた。
「失礼いたします。……その、本日はお招きいただき……」
輝夜は、目の前の光景に絶句した。
霞が関の冷徹な政治家も、市ヶ谷の鬼司令官も、ここにはいない。
ただ、生活の匂いと、スパイスの香りが混じり合う、暴力的なまでの「日常」がそこにあった。
「おう、輝夜か。遅かったのう。さあ、座れ。今、最高の一皿を出してやる」
坂上が、自身で焼き上げたという淡い色調の萩焼の皿に、黄金色のカレーを盛り付ける。
それは、彼が数日かけて煮込んだ、命のスープの結晶だった。
輝夜の前に、皿が置かれる。
湯気と共に立ち上る香りが、彼女の鼻腔をくすぐり、胃の奥を温める。
「……いただきます」
スプーンですくい、一口運ぶ。
甘い。そして、鋭く辛い。
何時間も炒められた玉ねぎの慈愛と、厳選されたスパイスの刺激。
それは、坂上という男の人生そのもののような味がした。
不意に、視界が滲んだ。
脳裏に蘇るのは、長野の山奥。
ダムに沈む前の、古びた実家の食卓。
「おはよう」と笑い合い、夜には月を見ながら明日を語った、あの日々。
心臓が、熱い鉄を流し込まれたように激しく脈打つ。
喉の奥が震え、指先に熱が宿る。
「……どうした、お嬢ちゃん。口に合わんかったか?」
坂上が、タバコの代わりにコーヒーキャンディを転がしながら、静かに問いかけた。
その目は、戦場での鋭さを消し、どこか悲しげな光を湛えている。
「いえ。……あまりに、温かくて」
輝夜は、溢れそうになる涙を堪え、真っ直ぐに坂上を見た。
「坂上司令。あなたは、この場所を守るために、あの地獄に立っているのですね」
坂上は、一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから短く鼻で笑った。
「……ワシはな、特攻で死んだジジイの血を引いとる。地獄の住人よ。だがな、輝夜。このカレーを食うガキどもの笑顔だけは、誰にも汚させん。そのためなら、ワシは何度でも仁王になる」
坂上はそう言うと、エプロンのポケットから一本のハイライトを取り出した。
だが、娘の千姫に「パパ、煙たい!」と叱られ、苦笑いしてそれを仕舞い込む。
その光景を見て、リベラが静かに、だが氷のような声で言った。
「そうね。この子たちが地獄に行かなくて済むのなら、私はどんな法の網を潜っても、修羅になって見せるわ」
リベラの瞳には、母としての愛と、法を司る者としての狂気が同居していた。
輝夜は、強く確信した。
この人たちは、壊れている。
あまりに深い地獄を知り、あまりに強い愛を持っているがゆえに、自分を削って世界を支えている。
ならば。
「……決めました」
輝夜は、最後の一口を飲み込み、凛として立ち上がった。
「坂上司令。リベラさん。私は、あなたたちに地獄を歩ませない。……あなたたちが守ろうとしているこの場所を、私が、国家という盾で完全に守り抜いて見せます」
輝夜の宣言に、その場にいた全員の視線が集まる。
「私は、皆の『月』になります。夜の暗闇を照らし、誰も道に迷わない、平和な夜明けを連れてくる月です」
その瞳に宿った意志の強さに、猛将・坂上真一は、背筋に走る戦慄を隠せなかった。
(……この女、本気か。地獄を知らん理想論が、これほどの熱を持つとはのう)
「ふん。……なら、ええわ。お前さんの『月』がどれほどのもんか、ワシらが最前線で特等席で見せてもらうけえ」
坂上が、悪戯っぽく、だが全幅の信頼を込めて笑った。
金曜日のカレー。
それは、地獄を歩む者たちが、ひとときの人間を取り戻す聖域。
その聖域の中心で、日野輝夜という一筋の光が、より一層強く、静かに輝き始めていた。




