EP 4
飴を砕く音、算盤の咆哮
赤マルの重い煙と、深煎りブラックコーヒーの焦げた匂い。
霞が関から少し離れた、地下にある隠れ家的なバー。
力武義正は、カウンターの隅で静かにグラスを傾けていた。
二十五歳。最難関国立大学から五大商社の鉄鋼部門へ進んだ元エース。現在は独立し、フリーのフィクサーまがいのコンサルタントをしている。
カラン、と入り口のベルが鳴った。
「珍しいな。今日は蘭も信長もいないのか」
義正は振り返らずに、赤マルの灰を落とした。
隣の丸椅子に腰を下ろしたのは、コートを羽織った日野輝夜だった。
いつもなら「飲み仲間」として笑い合う間柄だが、今日の彼女は違う。纏っている空気が、どこまでも冷たい「官僚」のそれだった。
「個人的な、いえ、極秘の相談があって来ました」
「……嫌な予感しかしないな」
義正はコーヒーを一口飲み、小さくため息をついた。
「出雲艦隊の兵站についてです」
輝夜は手元のタブレットを開き、複雑な航路図と物資のリストを提示した。
「現在の防衛省の正規ルートでは、有事の際、二週間で弾薬と特殊鋼材が底をつきます。若林幹事長の根回しにも限界がある。そこで、民間のダミー会社を経由した、完全に独立した独自の補給ネットワークを構築したいのです」
「おいおい。俺に商社時代のコネを使って、軍事物資の裏ルートを作れって? 冗談だろ。ばれたら俺の首が飛ぶぞ」
義正は目を細め、頭の中で瞬時に「算盤」を弾いた。
リスクは特大。リターンはゼロ。
国家予算からの裏金など、この潔癖な女が用意するはずもない。完全に割に合わない取引だ。
「いくら俺たちが飲み仲間で、俺が君に少しばかり惚れてるからって、これは呑めない。ビジネスの基本は等価交換だ。俺に何の得がある?」
冷徹な拒絶。
だが、輝夜は引かなかった。
「得はありません」
輝夜は、義正の目を真っ直ぐに見つめ返した。
嘘一つない、澄み切った瞳だった。
「あなたには、途方もないリスクだけを背負っていただきます」
「……はっ。交渉のテーブルにつく気もないってわけか」
「ですが」
輝夜の声に、わずかに熱が帯びた。
「あなたが算盤を捨ててくれれば、明日、最前線で弾切れに絶望する命を、百三十人救うことができます。誰かが泥を被らなければ、あの人たちは地獄に取り残される。私は、皆が自分の居場所で笑って『おはよう』と言える世界を作りたい。そのためなら、私は喜んで鬼になります。だから——」
輝夜は、深く頭を下げた。
「どうか、あなたの力を貸してください」
沈黙が落ちた。
バーに流れるジャズの音色だけが、気まずい空間を埋めている。
義正は、じっと輝夜のつむじを見つめていた。
彼女は狂っている。利益も保身も度外視して、ただ見ず知らずの他人のために、本気で世界を変えようとしている。
——損得無しの、無償の愛。
それは、数字と合理性だけで生きてきた義正の心を、最も強烈に揺さぶる「毒」だった。
義正は懐を探り、小さな黄金色の包み紙を取り出した。
コーヒーキャンディだ。
彼はそれを口に放り込むと、奥歯で勢いよく噛み砕いた。
ガリッ!!
静かなバーに、飴の砕ける甲高い音が響き渡る。
それが、力武義正が「本気(計算外)」になる時の、絶対的な合図だった。
「……たく。商社の元エースが聞いて呆れるぜ。完全に赤字確定の不良債権じゃないか」
義正はボリボリと飴を噛み砕きながら、赤マルの火を揉み消した。
そして、悪童のような笑みを浮かべる。
「だが、いいだろう。鉄の調達から燃料のダミールート構築まで、全部俺が引き受けてやる」
輝夜が、弾かれたように顔を上げた。
「義正さん……」
「勘違いするな。これは慈善事業じゃない。俺の全財産と人生を懸けた、特大の投資だ」
義正は、呆然とする輝夜の鼻先を、指で軽く弾いた。
「損得抜きで、賭けてみたくなりましたよ。……あなたの『月』にね」
算盤は壊れた。
理屈と打算で生きてきた男が、狂った理想に殉じることを決めた瞬間だった。
「さあ、そうと決まれば忙しくなる。霞が関の姫君、せいぜいこき使ってくれや」
ニヤリと笑う義正の横顔に、輝夜は小さく、だが力強く頷いた。
これで、知恵(蘭)と金(義正)が揃った。
出雲艦隊という最強の『暴力』を動かすためのピースは、着実に輝夜の手に集まりつつあった。




