EP 10
夜明けに乾杯を
市ヶ谷・防衛省庁舎の屋上。
吹き抜ける夜風は冷たかったが、そこに集った者たちの纏う空気は、どこか熱を帯びていた。
「——本当に、一発の銃弾も撃たずに生還させちまうとはね」
屋上のフェンスに寄りかかり、平上雪之丞が缶ビールを煽る。
その隣では、早乙女蘭がパーカーのフードを深く被り、板チョコを無表情で齧っていた。
少し離れた場所では、力武義正が黄金色の飴玉を転がし、桜田リベラが水筒に淹れてきた温かいダージリンティーの香りを嗅いでいる。
「おう、揃っとるな」
屋上の重い鉄扉が開き、巨大な影が二つ、姿を現した。
出雲艦隊・総司令官の坂上真一と、泥にまみれた迷彩服姿の坂上信長だった。
「信長さん!」
振り返った日野輝夜の顔に、今日初めて、年相応の安堵の色が浮かぶ。
「……アンタが、日野補佐官か」
信長は、目の前の小柄な女性を見下ろした。
霞が関の特権階級。温室育ちのお姫様。そう思っていた。
だが、通信機越しに聞いたあの声、そして第七艦隊すら退かせたという規格外の戦果。
目の前に立つ彼女からは、どんな猛将にも劣らない、底知れぬ「覇気」のようなものを感じる。
「無事にお帰りで、何よりです。お怪我は?」
「……かすり傷一つ、ありゃせんよ。アンタの『魔法』のおかげでな」
信長は照れ隠しのように鼻の頭を掻き、ふと標準語から広島弁に戻って笑った。
「親父から散々、地獄に浸かれって言われてきたが……アンタの戦い方は、地獄よりよっぽど恐ろしいわ。参った。俺の負けじゃ」
信長が、深々と頭を下げる。
誇り高き第一空挺団のレンジャーが、霞が関の官僚に敬意を示した瞬間だった。
「顔を上げてください。私はただ、あなたが明日も美味しいお肉を食べられるよう、算盤を弾いただけですから」
輝夜の悪戯っぽい微笑みに、信長は目を丸くし、やがて腹の底から快活に笑い声を上げた。
「違いねえ。生きて食う肉が、一番美味えからな!」
「まったく。若い連中はどうしてこう、騒がしいのかね」
背後から、重厚な革靴の音が響く。
与党幹事長、若林幸隆だった。
彼はスーツのポケットからピースを取り出し、ゆっくりと火を点ける。紫色の重い煙が、夜風に乗って空へと溶けていく。
「見事な初陣だったな、輝夜。これで米中露のトップは、お前さんという『毒』をたっぷり味わった。明日からは、世界中がお前さんの首を狙って、あらゆる政治的・経済的な罠を仕掛けてくるぞ」
「望むところです」
輝夜は、持参していた小さな木箱を開けた。
中から取り出したのは、無骨だが温かみのある備前焼のぐい呑みセットだ。
「私の趣味は、陶芸と……月を見ながら、皆で美味しいお酒を飲むことです。今日はその、前祝いですから」
輝夜が、日本酒の小瓶からトクトクと酒を注ぐ。
ぐい呑みが、坂上へ、信長へ、義正へ、そして若林へと手渡されていく。(蘭とリベラ、雪之丞にはジュースや茶が振る舞われた)
「……世界中を敵に回した夜に、月見酒たぁ。ウチの姫君は、とんでもない度胸をしとる」
坂上が、ハイライトを胸ポケットにしまい込み、ぐい呑みを掲げた。
「だが、悪くない夜だ」
義正が笑い、信長が頷き、リベラが優しく微笑む。
輝夜は、自分のタンブラーを両手で持ち、見上げた。
東京の明るい夜空の向こうで、白く輝く冷たい月が、夜明けの気配を帯びた空に溶けようとしていた。
(……ねえ、お父さん、お母さん。私、見つけたよ。私が守るべき、新しい居場所を。そして、一緒に歩いてくれる人たちを)
備前焼の土の感触が、もう冷たくない。
仲間たちの体温が、確かにそこにあった。
「皆が、自分の居場所で輝いて」
輝夜の澄んだ声が、屋上に響く。
「夜には笑い合い、明日、笑顔で『おはよう』と言える世界のために」
地獄を知る男たちと、地獄を許さない女たちが、一斉に杯を掲げた。
「「「乾杯!!」」」
カチン、と。
小さな、だが確かな音の重なりが、新しい時代の幕開けを告げていた。
輝夜は一人、杯を干しながら東の空を見つめる。
夜明けは近い。
「おはよう、と言える世界まで……あと少し」
彼女の背後には、彼女の純粋な狂気に魅せられ、その「月」を守るためならいつでも命を捨てる準備ができた、最強で最悪の『地獄の軍団』が立ち並んでいた。
霞が関の天才補佐官と、欠陥だらけの猛者たちによる、世界をひっくり返すための戦いは、まだ始まったばかりである。
【第一章:霞が関の月と地獄の艦隊 完】




