第二章『霞が関の月と地獄の艦隊〜泥に塗れた姫君と、影を統べる番犬たち〜』
凍結された算盤
夜明けの月見酒の余韻は、朝日が昇ると同時に容赦なく切り裂かれた。
市ヶ谷の地下、出雲艦隊・情報管制室。
壁一面を覆う巨大なメインモニターは、すべて「血のような赤色」のグラフと警告文で埋め尽くされている。
「……ダミー会社群、六社が完全凍結。四社がデフォルト(債務不履行)認定。ケイマン諸島のオフショア口座も、FBIと中国国家安全部の超法規的措置で差し押さえられた」
パーカーのフードを被った早乙女蘭が、角砂糖を齧るのも忘れてキーボードを叩いている。
彼女の神業的な防壁コードすら、世界最強の国家権力たちが手を組んだ「暴力的なまでの物量攻撃」の前では、時間を稼ぐ砂上の楼閣に過ぎなかった。
「被害総額、ざっと一〇〇億。力武義正の個人資産も……完全に、ゼロになった」
室内に、重苦しい沈黙が落ちた。
当の本人である力武義正は、パイプ椅子に深く腰掛け、赤マルの煙をゆっくりと天井に吐き出していた。
「やれやれ。大国様ってのは、ずいぶんとケツの穴が小せえな。一晩でここまで根回しするとは、恐れ入るぜ」
義正は、笑っていた。
強がりではない。底知れぬ敵の執念に、むしろ心底愉快そうに目を細め、懐から黄金色の包み紙を取り出して口に放り込む。
ガリッ!!
静まり返った管制室に、コーヒーキャンディを噛み砕く甲高い音が響いた。
「義正、さん……」
日野輝夜の声が、微かに震えていた。
モニターに映る赤い数字の羅列。それは、昨日まで確かに存在した義正の「人生」であり「力」そのものだった。
それを、自分の『一滴の血も流さない』という狂った理想が、たった一夜で焼き尽くしたのだ。
「おいおい、姫君。そんな泣きそうな顔をするなよ」
義正は立ち上がり、呆然とする輝夜の頭をポンと無造作に撫でた。
「たった一〇〇億で、第七艦隊のドタマをカチ割って、世界の歴史に名を刻めたんだ。商社マンの投資としちゃあ、最高に安上がりな勉強代だぜ。……それに、俺の算盤はまだ壊れちゃいない」
優しい言葉だった。
だが、輝夜の心臓は、ギリギリと音を立てて軋んでいた。
(私が、奪った。私の理想が、義正さんの居場所を……)
幼い頃、ダムの底に沈んでいった故郷の村。
水に飲まれていく家々を見つめるしかなかった、あの時の無力感と絶望が、冷たい泥水となって輝夜の足元から這い上がってくる。
呼吸が浅くなり、視界の端がぐにゃりと歪む。
「……申し訳、ありません」
輝夜は、深く頭を下げた。
その手にはいつもの備前焼のタンブラーが握られていたが、彼女の指先は、まるで氷点下の外気に晒されたように小刻みに震えていた。
「謝るな」
低い声が、横から飛んできた。
坂上真一だった。彼はハイライトを取り出すこともなく、ただ鋭い、猛禽類のような目で輝夜を見下ろしている。
「これが『戦争』じゃ、輝夜。血が出んから綺麗に終わると思うとったんか? 誰かが無傷で済む裏には、誰かが泥水啜って死ぬ気で盾になっとるんじゃ」
坂上の言葉は、容赦がなかった。
彼は、地獄を知らない無垢な娘が、今初めて『本当の地獄(代償)』の入り口に立ったことを正確に見抜いていた。
「義正は、自分で選んで張ったんじゃ。オドレの月に、己の人生全部をな。……それに報いる気があるなら、震えとる暇はないぞ」
「……はい」
輝夜は顔を上げた。
だが、その瞳から、昨日まで世界を照らしていた「絶対的な自信」の光は失われていた。
完璧だった算盤は凍結された。
そしてこれは、面子を潰された大国による「逆襲」の、ほんの序章に過ぎない。
物理的な弾丸よりも恐ろしい、見えない地獄の業火が、輝夜たちを焼き尽くそうとしていた。




