EP 6
反撃のブラック・スワン
市ヶ谷・防衛省地下、情報管制室。
徹夜でサイバー攻撃の防衛に当たっていた早乙女蘭の足元には、エナジードリンクの空き缶が散乱していた。
力武義正は充血した目で、自身の凍結された口座データ——「ゼロ」の羅列を無言で睨みつけながら、何本目かもわからない赤マルを吹かしている。
重苦しい疲労と、敗北の気配。
それが、自動ドアの開く音によって一掃された。
コツ、コツ、コツ。
迷いのない、鋭いハイヒールの足音。
入ってきた日野輝夜の姿を見て、室内にいた全員が息を呑んだ。
彼女がいつも手にしていた、無垢な理想の象徴である「備前焼のタンブラー」はない。
代わりに彼女の右手に握られていたのは、乾いた血がこびりついたままの、黒いサバイバルナイフだった。
輝夜は管制室の中央卓まで歩み寄ると、そのナイフを、ガンッ!と机の中央に突き立てた。
「……姫君?」
義正が、タバコを咥えたまま目を丸くする。
輝夜の纏う空気が、昨日までの「霞が関の優等生」のそれとは根底から変質していた。
瞳の奥にあるのは、冷徹な理性に、どす黒い「泥」と「狂気」を混ぜ合わせたような、底知れぬ絶対零度の光。
その後ろには、番犬の如き威圧感を放つ坂上真一と、若林幹事長が控えている。
「現状報告を」
輝夜の声は低く、よく通った。
「敵のサイバー攻撃は第七波。国内のインフラはギリギリ持ち堪えてるけど、私の防壁もあと数時間で抜かれる。義正のダミー口座は全滅よ」
蘭が、キーボードから手を離さずに答える。
「ご苦労様でした。蘭さん、これより防衛プロトコルを全破棄してください」
「……は?」
蘭の指が止まった。
「破棄したら、日本の送電網も通信網も完全にダウンするわよ。原始時代に逆戻りだね」
「構いません」
輝夜は、突き立てたナイフの柄に手を置き、冷酷に言い放った。
「殴られ続ける時間は終わりました。これより、こちらから敵の急所を的確に、かつ修復不可能なレベルで『破壊』します」
輝夜はタブレットを操作し、メインモニターに巨大な世界地図と、複雑な金融ネットワークの図を表示させた。
「作戦名『ブラック・スワン』。狙うのは、ウォール街と上海市場を支配する超高速取引(HFT)アルゴリズム、および敵国の『国家年金基金』の中枢です」
義正が、弾かれたように立ち上がった。
商社マンとして世界の金融を知り尽くしている彼だからこそ、その言葉の異常さが瞬時に理解できた。
「おいおい……! 年金基金ってのは、その国の国民の命綱だぞ! そこを攻撃するってことは、軍隊相手の戦争じゃねえ。敵国の『一般市民』を完全に経済的飢餓に追い込むってことだぞ!?」
昨日まで「誰も血を流させない」「誰も犠牲にしない」と理想を語っていた少女の口から出たとは到底思えない、悪魔の作戦。
だが、輝夜は微塵も揺らがなかった。
「彼らが私たちの『日常』を奪うなら、私たちも彼らの『明日』を奪います。……私に泥を被せまいと、あなたが全財産を捨ててくれたように。坂上司令たちが、裏で血を流してくれたように」
輝夜は、義正の目を真っ直ぐに見据えた。
「私一人が綺麗でいるための戦いは、昨夜で終わりました。これからは、皆さんの血と泥を、私がすべて引き受けます。……義正さん、あなたが失った一〇〇億、明日までに一〇〇〇倍にして敵の国庫から毟り取ります。算盤を弾きなさい」
静寂。
義正は、目の前の「女(修羅)」をじっと見つめた。
折れたのではない。絶望したわけでもない。彼女はただ、自らの理想を叶えるために「綺麗事」を完全に壊したのだ。
義正の喉の奥から、ククッ、と低い笑い声が漏れた。
それはやがて、狂気を帯びた大笑いへと変わる。
「……ハハハハッ! 最高だ! てめえら、聞いたか! 俺たちの姫君が、世界中から身包み剥がしてこいってよ!」
義正は、懐から黄金色のコーヒーキャンディを取り出し、ボリボリと音を立てて噛み砕いた。
算盤が、再び猛烈な勢いで弾き始められた。
「蘭! 俺が今から世界の金融市場に、大量の『空売り(ショート)』を仕掛ける! と同時に、お前は防衛省に向けられているDDoS攻撃のトラフィックを逆探知して、その莫大なデータを敵の中央銀行のサーバーへ『反射』させろ!」
「……なるほど」
蘭が、新しい角砂糖を口に放り込んだ。
虚ろだった彼女の瞳に、極上のパズルを与えられた子供のような歓喜の光が灯る。
「敵の攻撃を利用した、超巨大なトロイの木馬。……そんな無茶苦茶なルーティング、私以外に書ける人間はいない。……最高に、美しいウイルスだね」
ターンッ!!
蘭のエンターキーが叩きつけられ、モニターの赤い警告画面が、一瞬にして漆黒の「攻撃プログラム」へと切り替わった。
「親父、俺たちの出番は?」
入り口で腕を組んでいた信長が、獰猛に笑って尋ねる。
「待機じゃ」
坂上が、ハイライトの煙を吐き出しながら答えた。
「姫君の放つ『見えない核爆弾』が着弾した直後、敵は必ず狂ったように物理的な報復に出る。そこからが、ワシら地獄の番犬の仕事じゃ」
輝夜は、机に突き立ったナイフから手を離し、モニターを見上げた。
大国が仕掛けた理不尽な暴力に対し、日本は「倫理」も「常識」もかなぐり捨てた金融のブラック・スワンで応戦する。
「カウントダウンを開始します。……世界に、本当の地獄を教える時間です」
泥に塗れた月の輝きが、世界市場の崩壊という名の夜明けを連れてこようとしていた。




