EP 5
泥まみれの聖域
「来い」
若林は、紙切れが舞う執務室で輝夜の細い腕を強引に掴むと、そのまま深夜の廊下へと引きずり出した。
抵抗する気力すら残っていない輝夜を公用車に押し込み、激しい雨が打ちつける深夜の都内を走らせる。
到着したのは、練馬区にある坂上真一の一軒家だった。
深夜だというのに、台所の明かりが点いている。玄関を乱暴に開けて入っていく若林の背中を、輝夜はふらつく足で追った。
扉の向こうに広がっていたのは、いつもの「金曜日のカレー」の匂いだった。
だが、その日、エプロン姿で巨大な鍋の前に立っていた坂上の背中は、まるで仁王像のように冷たく、重圧に満ちていた。
「……夜分にすまんな、坂上。使い物にならなくなったガラクタを拾ってきたぞ」
若林がピースの煙を吐き捨てながら言うと、坂上は無言で火を止め、二つの深い皿にカレーをよそった。
いつもなら萩焼の美しい皿を使うはずが、今日出されたのは、何の装飾もない無骨なステンレスのボウルだった。
「食え」
食卓に座らされた輝夜の前に、スプーンと一緒にそれが置かれる。
「……食べられ、ません。私には、そんな資格は……」
「ええから、食え!!」
ビクンッ!
坂上の怒声が、家中にビリビリと響き渡った。
戦場で部下を死地に送る時の、血を吐くような司令官の声。
輝夜は震える手でスプーンを握り、無理やり一口、カレーを口に運んだ。
——塩辛い。
いつもの玉ねぎの甘さはなく、喉が焼けるように辛く、しょっぱかった。
泥水をすすっているような、そんな味がした。
「……美味しいでしょう、お嬢ちゃん」
坂上が、輝夜の向かいにドカリと腰を下ろした。
その目は、暗殺者の頭を叩き割った時と同じ、極限の修羅の目だ。
「アンタの綺麗な『月』のおかげで、ワシらは裏でコソコソと血の匂いを消し、義正は全財産をドブに捨てた。……これが、アンタがワシらに食わせとる『泥』の味じゃ」
輝夜の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
カレーの味が分からないほど、涙がステンレスのボウルに落ちていく。
「ごめんなさい……っ、私のせいで、みんなが……。私が、みんなを地獄に……!」
子供のように泣きじゃくる輝夜。
その姿を、坂上と若林は冷徹に見下ろしていた。
やがて、坂上がテーブルの上に、ゴトリと何かを置いた。
血に塗れた、軍用のサバイバルナイフだった。昨夜、信長が暗殺者を仕留めたものだ。
「勘違いするな、小娘」
坂上の低い声が、輝夜の鼓膜を容赦なく打つ。
「ワシらは、オドレの同情を引くために泥を被っとるんじゃない。ワシらは、日本という国を守るための『暴力』であり『道具』じゃ」
坂上は、テーブル越しに輝夜の胸倉を掴み、強引に顔を上げさせた。
涙でぐしゃぐしゃになった輝夜の瞳に、坂上の本気の眼光が突き刺さる。
「道具が勝手に壊れたり、錆びたりしたからって、持ち主が泣いてどうする! 『私が悪かった』と自己満足の悲劇のヒロインぶって、全てを放り出すんか!?」
「……っ!」
「ワシら地獄の番犬を解き放ったのは、オドレじゃ! なら、最後まで責任持てや! ワシらを地獄の底まで使い潰してでも、あの綺麗な夜明けを連れてこい!!」
ドサリ、と。
坂上が手を離すと、輝夜は咳き込みながらテーブルに伏せた。
――持ち主。使い潰す。
その言葉が、輝夜の脳裏で何度も反響した。
彼らは「守られている」わけではない。自分という人間を、日本を守るための『最高の剣』として自ら選び、命を預けているのだ。
それなのに、自分は勝手に罪悪感に押し潰され、彼らの覚悟まで泥で汚そうとしていた。
「……若林のタヌキ親父が、オドレを何でこんな深夜に連れてきたか、分かるか」
坂上が、ハイライトを取り出して火を点けた。
「泣き言を吐くなら、ここ(聖域)に置いていけ。外に出た瞬間から、二度と泣くことは許さん。……どうする、日野輝夜」
輝夜は、荒い呼吸を繰り返しながら、ステンレスのボウルを見つめた。
涙で薄まった、塩辛くて泥のようなカレー。
輝夜は、スプーンを使わず、両手でボウルを掴んだ。
そして、一気に口の中に流し込む。
辛さが喉を焼き、胃が痙攣しそうになる。それでも、彼女は最後の一滴まで飲み干し、乱暴に口元を手の甲で拭った。
顔を上げた彼女の瞳には、もう一滴の涙もなかった。
「……ごちそうさまでした」
声は低く、そして、どこまでも静かだった。
「目が覚めたか、姫君」
若林が、満足げにピースの灰を落とす。
「はい。……私は、致命的な勘違いをしていました。私一人が綺麗な光でいれば、皆が救われるなどと、浅ましい夢を見ていた」
輝夜は立ち上がり、坂上の置いた血塗られたナイフを、素手で握りしめた。
白い掌に、乾いた暗殺者の血がべったりと付着する。
だが、彼女はそれを拭おうともしなかった。
「坂上司令。若林幹事長。……私はもう、二度と誰も見捨てないし、自分の手も汚さないなんて甘いことは言いません」
彼女の瞳に、新しい光が宿る。
それは、世界を優しく照らす無垢な満月ではない。
血と泥に塗れ、あらゆるものを切り裂いてでも進む、鋭利な『三日月(修羅)』の光。
「私を使い潰す大国に、それ以上の地獄を見せます。……皆さんは、私のために、徹底的に泥を被ってください」
その言葉に、坂上は獰猛な笑みを浮かべた。
若林もまた、獣のような声で喉を鳴らして笑った。
挫折した少女は死んだ。
ここから先は、本当の意味で地獄を統べる、一人の絶対的な『女王』の反撃が始まる。




