EP 4
月の黒点
深夜の防衛省・情報管制室。
誰もいない青白いモニターの光の中で、日野輝夜は一人、キーボードを叩いていた。
義正の凍結された資産を補填し、止まりかけた出雲艦隊への補給を再構築するための、新しい法案とダミーネットワークの設計。
だが、疲労で霞む頭では、数字がただのノイズのように滑り落ちていく。
「……あなたの認識には、致命的なバグがある」
不意に、背後から声がした。
振り返ると、ダボダボのパーカーを着た早乙女蘭が立っていた。彼女の指先には、珍しく角砂糖がない。
「蘭さん。こんな時間まで残って……」
「これを見て。私が霞が関周辺の監視カメラから拾って、復元したデータ」
蘭が輝夜のタブレットにUSBを差し込むと、強制的に一つの動画ファイルが再生された。
——昨夜の、冷たい雨の路地裏。
無音の映像の中で、輝夜自身の背中に向かって、銃を構える男たち。
そして、上空から降ってきた雪之丞が首を折り、信長が顎を砕き、最後に坂上真一が、巨大な掌で男の顔面を叩き割る光景。
「っ……!?」
輝夜の心臓が、ドクン、と痛いほど跳ねた。
喉が急激に干上がり、指先から急速に体温が奪われていく。
「彼らは、あなたを守るために『掃除』をした。……それから、力武義正」
蘭は無表情のまま、別のウィンドウを開いた。
そこには、真っ赤な数字で埋め尽くされた財務データがあった。
「彼が失ったのは一〇〇億じゃない。ダミー会社群の連鎖倒産を防ぐため、個人名義で五〇〇億の負債を被ったの。彼は今、社会的に完全に『死んだ』状態よ」
「嘘……」
「嘘じゃない。世界は数字でできている。これが結果よ」
蘭はそれだけ言い残し、静かに管制室を出て行った。
天才エンジニアである彼女にとって、隠蔽されたデータを提示することは単なる「情報共有」に過ぎなかった。
だが、それが輝夜の心にどれほどの致命傷を与えるか、蘭は理解していなかった。
誰もいない部屋で、輝夜はタブレットの画面を凝視したまま、動けなくなった。
画面の中で、坂上の巨大な手が、暗殺者の命を無惨に散らしている。
その血は、間違いなく自分を守るために流されたものだ。
——ゴォォォォォッ。
耳鳴りがした。
違う。これは、水の音だ。
幼い頃、ダムの底へと沈んでいった故郷の村を飲み込んだ、あの冷たくて重い、絶望の濁流の音。
呼吸ができない。
肺が空気を拒絶する。視界が極端に狭まり、全身から冷や汗が噴き出した。
輝夜は、震える手でデスクの上の備前焼のタンブラーに縋り付いた。
だが、いつも彼女に冷徹な思考を取り戻させてくれたそのザラリとした土の感触は、今の彼女には、死者の骨を撫でているかのように恐ろしく感じられた。
(私が、殺させた)
タンブラーが手から滑り落ち、床で鈍い音を立てて転がった。
(誰も犠牲にしないなんて、嘘だ。私が綺麗な『月』でいるために、あの人たちに泥水を飲ませ、血で手を汚させて……義正さんの人生まで奪って!)
理想という名のメッキが、無惨に剥がれ落ちていく。
自分は、ただの傲慢な子供だった。
地獄を知らない小娘が、皆をさらに深い地獄の底へと引きずり込んでいるだけだったのだ。
輝夜は、ふらつく足で自分の執務デスクへ向かった。
引き出しから、官僚機構のロゴが入った真っ白な便箋を取り出す。
——辞表。
震える指でペンを握り、文字を書き殴る。
私がここから消えれば、これ以上、誰も血を流さずに済む。私が元の「何者でもない小娘」に戻れば、世界は元の軌道に戻る。
そんな強迫観念(誤った信念)に急き立てられるように、便箋を文字で埋めていく。
ポツリ、と。
白い紙に、染みができた。
視界が滲んで、文字が見えない。自分が泣いていることに、輝夜は初めて気がついた。
その時だった。
ガンッ!!
執務室の扉が、蝶番が吹き飛ぶほどの勢いで蹴り開けられた。
ビクッと肩を震わせた輝夜が顔を上げる。
そこに立っていたのは、深夜だというのに完璧にスーツを着こなした、与党幹事長・若林幸隆だった。
だが、いつもの飄々としたタヌキ親父の面影は微塵もない。
そこにあるのは、国という巨大な獣を御してきた、生きた権力の「本性」。
若林は、ゆっくりと部屋の中へ足を踏み入れた。
纏っている空気が、物理的な質量を持って輝夜を圧迫する。息をするだけで喉が焼け焦げそうな、凄まじい怒気。
彼は無言で輝夜のデスクに近づくと、涙で滲んだ「辞表」を拾い上げた。
「……若林、幹事長……私は、もう……」
輝夜の震える声は、最後まで続かなかった。
ビリィッ!!
若林が、辞表を真っ二つに引き裂いたからだ。
そして、紙切れを雪のように輝夜の頭上からばら撒き、胸ポケットから取り出したピースに火を点けた。
「……ふざけた真似してんじゃねえぞ、小娘」
紫色の重い煙が、凍りついた執務室に満ちていく。
月が完全に地に堕ちた夜。
政治という名の本物の「魔王」が、挫折した姫君の前に立ちはだかっていた。




