EP 3
月に影は落とさせない
深夜の霞が関。
冷たい春の雨が、アスファルトを黒く濡らしていた。
日野輝夜は、傘も差さずに官舎への暗い道を歩いていた。
疲労で足取りは重く、ハイヒールの音が鈍く響く。
脳裏にこびりついて離れないのは、ネット上で自分を「魔女」と罵る無数の言葉と、義正の口座から消滅した「一〇〇億」という赤い数字だ。
自分の理想が、仲間を傷つけ、国を混乱させている。
その事実が、足に絡みつく泥のように輝夜の心を重く沈ませていた。
彼女は気づいていなかった。
冷たい雨音に紛れ、背後の暗い路地から、三つの「影」が彼女の背中にサイレンサー付きの銃口を向けていることに。
他国が放った、プロの暗殺部隊。
輝夜の命を物理的に絶つことで、日本の指揮系統を完全に沈黙させる——大国の最も直接的で、最も原始的な「回答」だった。
暗殺者の一人が、引き金に指をかけ——。
「——遅ぇよ」
頭上から降ってきた「何か」が、暗殺者の首の骨を無音でへし折った。
「なっ……!?」
残る二人の暗殺者が銃口を上へ向けた瞬間、今度は背後のゴミ箱の陰から、黒い影が獣のような速度で飛び出してきた。
「よそ見すんなや、三流が」
坂上信長だ。
彼は第一空挺団・特殊作戦群の軍用ナイフを逆手に握り、一切の躊躇なく、一人の暗殺者の銃を持つ手首の腱を切り裂き、そのまま顎の骨を下から砕き割った。
悲鳴を上げる間も与えない、完全な制圧。
「おっかねえ。陸のゴリラは相変わらず容赦ないねえ」
最初に上から降ってきた男——平上雪之丞が、折れた暗殺者の体を路地に放り捨てながら、だらしなく笑う。
音速の世界で生きるトップエースの動体視力と身体能力は、地上においても白兵戦の達人たちを凌駕していた。
「ひっ……!」
唯一生き残った暗殺者のリーダー格が、恐怖で顔を引き攣らせ、輝夜の背中へ向けて無茶苦茶に発砲しようとした。
だが。
「……オドレ、誰の月に影を落とそうとしとるんか、分かっとるんか」
暗殺者の背後に、巨大な絶望が立っていた。
出雲艦隊・総司令官、坂上真一。
スーツのネクタイを外し、その下にある分厚い筋肉を隆起させた猛将は、万力のような掌で暗殺者の顔面を鷲掴みにした。
「が、あ……ッ!」
「声を出せば、姫君が振り向いてしまうじゃろうが。静かに寝とれ」
メキィッ! という骨の軋む音とともに、暗殺者の意識は深い闇へと落ちていった。
雨音だけが響く路地裏に、三つの血まみれの肉塊が転がる。
かかった時間は、わずか十秒。
霞が関のすぐ裏で繰り広げられた、本物の「地獄」の日常風景だった。
「片付きましたね、親父」
信長がナイフの血を雨で洗い流し、短く報告する。
「ああ。雪之丞、蘭に連絡してこいつらの『掃除』を手配しろ。絶対に足はつかせるな」
「了解っス。あーあ、せっかくの合コンが台無しだぜ」
ぼやきながらスマートフォンを取り出す雪之丞を横目に、坂上は懐からハイライトを取り出し、カチリとジッポーで火を点けた。
紫色の煙が、血の匂いを消すように路地裏に漂う。
坂上の視線の先には、何も知らずに、ただ冷たい雨に打たれて歩き続ける輝夜の小さな背中があった。
「……親父。あの人、今にも折れそうじゃぞ。俺たちが裏で手ェ下しとること、いつかは——」
「言わんでええ」
坂上は、ハイライトを深く吸い込み、雨空へ煙を吐き出した。
「ワシらは地獄の底を這いずる番犬じゃ。あんな美しい光を、わざわざ泥水に引きずり下ろす必要はない」
坂上の目には、かつて暴走族として広島を火の海にし、戦場で無数の命を散らしてきた男の「狂気」と、一人の少女への異常なまでの「忠誠」が宿っていた。
「姫君は、綺麗な月だけ見とればええんじゃ。……泥被りは、ワシらの仕事じゃけえ」
一切の音を立てず。一切の血を流させず。
男たちは深い影の中に潜み、自分たちの「月」を絶対の暴力で守り抜いていた。
だが、その歪な過保護が、やがて輝夜の心を最も深く抉る刃になることを、彼らはまだ知る由もなかった。




