いずれは蜜の味になれ 下
任せてと確かにナーナは言った。
そのナーナがしたことに、ヨランは逸る動悸を懸命に抑えていた。
(意識はされているはずなのに、なんだこれ……)
背中にあたる柔らかな感覚。潜めた吐息。首元に回された華奢な腕。
動くたびに良い匂いの髪が擦れる。
胴回りの、ふわふわとした感触の挟むもの。そこまで考えそうになって、ヨランは自分の頭の中で煩悩を懸命に消し飛ばした。
「姿消しも、意識逸らしも問題ないわ。私の重さも姿勢保持も魔法で補助できたし、大丈夫よね? さあ、行きましょう」
(ぜんっぜん! 大丈夫じゃないんだよなあ!)
ヨランの背中でナーナが小声で意気込んでいる。
信頼は、とても嬉しい。嬉しいが、同時に信頼されすぎて辛い。
付き合いたての、それも意識をしている恋人に体を預けられる喜びと、無防備な相手に湧く苛立ちと邪念がぐるぐると渦巻く。
寮に入る前に「背中を向けて」とナーナに言われてから、まさかとは思っていたのだ。
そのまさかが現実になってしまった。
自分で歩くより早く、足音も誤魔化せるからと、おぶさってきた。
「ヨラン? 早く行かないと」
「わかっています」
この一言を返すだけで、どれほどの葛藤があるかわからないのだろうか。
(いや。ナーナティカは呪いで緊急時だと思っているから、絶対そこまで考えてないな……考えてたら、顔に出る人だ)
ナーナは優等生で、なんでもそつなくこなすようでいて、恋愛面はそうでもない。
以前、そういうことは考えないようにしていたとヨランに語ったこともある。それに、今でもたまに思い返すが、付き合うきっかけの様子もとても慣れたものじゃなかった。
ほのかな願望が入り混じっていることも否めないが、ヨランから見たナーナはそういう面がある女性だった。
ヨランは、せめて自分の煩すぎる心臓の音が聞こえないことを祈りながら、ナーナを背に足を踏み出した。
無心で寮のなかを進む。
アミクの部屋はヨランも何度か通ったことのある部屋だ。
寮内には講義に出ない生徒も多くはないがいる。それを必死で避けて、早足でずんずんと進む。早く進むためにさらに抱き着かれて、変に唸らないようにするのが大変だった。
視界も後ろに意識を少しもいかないように、気を遣って前だけを見る。
「ここです」
アミクの部屋の前についたとき、どっと疲れたのをヨランは感じていた。
そろりと背中からナーナが降りてくる。わずかに惜しいと思う気持ちをまた吹き飛ばして、ヨランはまず声をかけた。
「アミク! いるだろ、用事がある!」
ノックを数度。声掛けももう一度してみるが、反応はない。
ヨランの耳には、集中しているような息遣いと筆を走らせる音が聞こえるばかりだ。
「ヨラン、開けてもらっても?」
「はい。今」
ポケットからヘアピンを取り出して変化の魔法をかける。
ナーナを後ろに下がらせて、ヨランは鍵を作って開けた。
部屋のドアが空いて見えた光景は、異様だった。
足の踏み場がないほど紙が散乱している。
入ってすぐ、足先に紙が当たってヨランは目を見張った。
(これ、アミクの絵か?)
ヨランの知るアミクの作品とは似ても似つかない絵だ。描けるだけ描いたといわんばかりの、荒々しくところどころ雑にごまかしたもの。その絵のすべては、女性である。
それも、学園の女生徒たちを無造作に描いている。
(あ、姉さん)
ジエマの絵は段違いに多い。見渡しても何点かすぐに見つかるくらいだ。
というよりも、容姿が整った女生徒の絵が多い。そのなかにナーナの絵を見つけて、ヨランの眉間に皺が寄った。
「やっぱり。ヨラン、あの使っているインクが呪いの媒介具になっているみたい」
後ろから魔法で探っていたらしい。ナーナがこそっと声をかけてきた。
「インクから……乗り移って、さらに覗こうとして描いている。随分こなれた魔法だから、常習なのかしら」
魔法の仕組みがのぞける目をこらして、ほっそりとしたしなやかな指先が一方を示す。
「アミクは媒介具を使って、呪いの中継に無理やりさせられたのよ。腕を見込まれたのかもしれないわね」
「殴ってでも止めましょうか」
「意識はないみたいだからやめてあげて。辿れなくなっちゃう」
「じゃあ、手を止めさせます。それならいいでしょう」
自身の姉を好き勝手に消費させられるのも業腹だが、ナーナもその対象に入っていることがもっと腹立たしい。
散らばる紙を踏んで、ヨランはアミクの腕を掴んだ。
「アミク、起きろ」
返事はなく、どろりとした真っ黒な目でこちらを見上げてくる。じろじろとアミクを通して見られている感覚に、不快感が走る。
アミクの口が開いた。そこからは、全く知らない男の声が漏れ出た。
「……なんだ、女……じゃない。男か」
「はあ?」
聞き捨てならない。
今の言葉の抑揚には明らかにわずかな躊躇いがあった。
(まさか今、勘違いされそうになったのか)
ますます腹が立つ。
ただでさえ、ヨランは自分の容姿が男臭くないことを気にしている。恋人と付き合って尚更、頼りがいのある容姿でないことを悔しく思っていたのだ。
険のある眼差しを気にしたそぶりもなく、ぶつぶつとアミクの形をした男が文句をいう。
「困るんだよな。男は。女性の柔らかな流体こそが至高なんだ。それも熟れ切る前が一番いいんだ。完成しきる前の美しさがないと。困るんだよ」
わずかにアミクの意志があるのではというほど、女性への並々ならぬ熱がある。
(呪いにあっさり負けてるの、そのせいもあるんじゃ)
そう思わずにはいられない。
呆気に取られながらも、そんな輩にナーナを対面させるわけにもいかない。
ヨランはそのままアミクの腕を取って、抵抗する力を利用して転ばせた。護身術の応用である。
もがこうとする背中の上に腰を下ろして、片腕を捻り上げ、もう片方の腕で頭を抑え込んだ。
「ナーナティカ、どうですか」
「うん……ええ、いけるわ」
ナーナの声が淡々と響く。
「橋の街。裏通りのお家なのね。規制された品を扱うには、用心が足りないんじゃないかしら」
「なっ」
「あちらの貴方の体、動かせないようにしましょう。≪体よ留まれ。動くな。意識を分離せよ≫……はい、おしまい。しばらく自分の体の前で、自分のスケッチをしてはどう? 自警団が来る前に逃げられると思わないことね」
ぱちん。
ナーナが指を鳴らした。音が響くと同時にインク瓶が割れた。
引き攣れた男の声が叫ぶ。しかしその声も大きく響くことはない。
ひ、ひっ。
数回しゃくりあげるような呼吸音がして、アミクの体は弛緩した。ヨランが力を抜いても、起き上がるそぶりもない。かわりに、数秒とたたずにいびきが聞こえてきた。
「寝かせておいたわ。あの様子だと、アミクを寝かせずに描かせていたみたいだもの」
「あの、呪いを使った犯人は」
「そうね。ティトテゥスに回収を任せましょうか……ちょっと待ってね」
目を閉じてナーナは何やら念じている。
おそらく声にも出さず、魔法を通じて双子に声を届けているのだろう。ぴく、と時折眉を動かすのは言い合いでもしているのかもしれない。
その間にヨランはアミクの体を引いてベッドに運んで寝かせることにした。
ひょろ長いアミクの体は、力を抜いていることもあってそこそこの重量だ。半ば引きずるように運んで適当に寝かせる。
ついでに散らばる紙を集めておく。
ナーナは腕を組んで苛立たしそうに指先が動いている。確実に言い合いをしている。
「……終わったわ」
それは犯人の命だろうか。社会的には間違いなく終わるだろうが。
ヨランは集めた紙束を抱えて、ナーナを見る。ヨランの考えていたことを見通したのか、緩く笑っている。
「まあ、命は保証するでしょ。あとで私たち文句言われるかもしれないけれど」
「でしょうね」
「あとね」
ナーナがヨランに近寄って、目の前に立った。
「あの。ヨラン、あのときおぶさるのはどうかってティトテゥスが言って……わ、私もあの、そこまで考えてなくて」
まごつきながら組んだナーナの指先が、腹のあたりでもじもじと動いている。
そろそろと青い瞳が彷徨って、こちらを見ない。かと思えば下を向いて目じりが赤く染まる。
「今思えば、わっ、わたし、ごめんなさい!」
「いえ、全然」
むしろ遅れながらも、ちゃんと意識をしてくれたのだとヨランは安心した。
そして一方で、ナーナの恥じらう様子から目が逸らせない。気もそぞろになりかけて、つい、脳で思った言葉がそのまま口から出てしまった。
「腹は立ったけど、嬉しかったので」
「うれ……しい?」
「色々っ、いや、気にしないでください。本当に。ぜんぜん」
「そ、そう?」
(あっっぶない! 余計なこと言うところだった!)
ぐっと堪えて、ヨランはどうにか優しく見えるように笑顔を作った。
「頼ってくれたのは、嬉しいですから」
「じゃあ、お礼を」
「いいですよ。むしろ、僕やアミクがあなたにするべきです」
「ううん。あの」
ナーナの言葉がしぼむ。
何やら葛藤でもあるのか、ぎゅうと一度目をつぶって握り合わせた指先に力が入っている。
ヨランの良く聞こえる耳が、「大丈夫、できるわ」や「私だってちゃんと」といった鼓舞する言葉を拾う。
そして震えるまつげを上げて、きっとこちらを強く見つめてくる。射貫かれたみたいに、止まったヨランに向かって、さらにすたすたと足早に近寄ってきた。
「ナーナティカ、あの、何か」
「お礼」
言葉少なに言って、さらにぐっとナーナが近づく。
なんなんだ。
ヨランがわずかに体をびくりとさせた一瞬。
頬に唇があたった。
「あの、お礼になるかわからないけど。じゃ、じゃあ、ありがとうヨラン。あとは自分で帰るから」
動揺を隠さないナーナは、慌ただしく魔法を使って身をひるがえした。
ばさばさと音を立てて、紙束が落ちた。
部屋から出て行く姿を呆然と見送って、頬に手をあてる。
何もない。だが、先ほどあった感触が残っている。
「……は? え」
遅れて、じわじわと火がついたみたいに顔が熱くなった。いや、全身から湯気でも出たみたいだった。
ヨランはよろよろと数歩たたらをふんで、また「は?」と声をこぼす。
そして、数秒後。
慌ててその背を追いかけるために、部屋から飛び出したのだった。
その後のアミク。
自身の体の不調に驚きながら、目が覚める。
変な夢を見た。そう思いながら描きかけていたはずのキャンバスに向かう。
なぜかない描きかけの絵。そして床に散らばる描いた覚えのない女性たちのスケッチの山。
しかも自分の筆致では決してない。
しばし考えて、アミクはそっと自分の資料用にファイリングするのだった。あとで幼馴染にバレて烈火のように怒られることも承知の上で、しまいこんだのだった。




