いずれは蜜の味になれ 上
『水溶性のたからもの』後のナーナとヨランのお話。
ちょっとは進展しているようなそうでないような、しているような。
悲しいことに、お金がなかった。
財布の中身を見る。空だ。
ポケットをめくって、ひっくりかえしてみる。糸くず一つ、出やしない。
「やっちまった」
ぼやいても、ないのだからしょうがない。
目の前の魅力的な画材やインクを口惜しく眺めて、長い長いため息が出た。
よほど哀れっぽく見えたのだろうか。
アミクのその背に、声がかかった。
「もし、そこのお兄さん。お試しでこういうものがある」
振り返って差し出された、真っ黒な光をも飲み込むインク。
アミクは珍しいと一目でわかった。
店に並んだインクとはまた違う。見たこともない、黒々とした艶に魅入られた。
「品代はいらないから使ってみてくれ。美しいものを描くときがいい」
だから、そう言われた言葉も聞き流してしまった。無料でもらえるという喜びに流されて、軽い気持ちで受け取ってしまったのだった。
***
「アミクは、また休みか」
ホシャムが何気なく言った言葉に、ヨランはうなずいた。
「描きたいものがあるってこもってる。反応はあるから、倒れてはないと思う」
芸術家の卵であるアミクは、よく制作のために部屋に篭るため、珍しくはなかった。
ふうん、と気のない返事をしてホシャムが言う。
「依頼でもかさんでんのか? そろそろ出ないと、また講義に置いてかれたって騒ぐんじゃねえの」
「ランディは、用事で学園外に出てるんだったか。となると一人で部屋にいると……ヨラン、アミクはそんなに忙しそうだったのかい」
ホシャムの隣を歩くローガンが、ヨランにたずねてきた。
かつてあった、一人きりで部屋に篭って死ぬ一歩手前になった生徒がいた。そのことを案じているのだろう。
ヨランもそのことが頭を過ぎり、思い出した嫌な記憶に眉が寄った。
「いや。僕は何も。あるとすると……テトスの依頼とか」
「テトスさん? なんでまた」
ホシャムが素っ頓狂な声を上げる。ヨランもそう反応を返せたらいいが、そうもいかないわけがあった。
「……姉関連」
「おお、ジエマさん!」
パッと嬉しそうにするローガンを横に、ヨランは複雑な気持ちを腹に押し込めた。
「ヨランの姉ちゃんのこと前から描きたいって駄々こねてたもんな。なら、張り切ってもしょうがねえか」
「まあ、可愛いものをより可愛く描く努力はするだろう。わからなくもない」
それぞれ感想を言うのにたいして、曖昧にヨランは笑った。
(でも、これで五日目か。一応、また様子を見るかな)
同級で幼馴染に対する心配半分。もう一つは。
(ナーナティカの絵も描いているはずだし。何描いているか、見ないと)
私情半分だ。
割合的にも私情を挟み過ぎだとは思うが、ヨランは小さく首を振ってやましさを追い払った。
(そりゃあ、最初はいいかと思ったけど。でも、やっぱり)
なにせ恋人である。
ヨランの、大事な、恋人なのだ。
その絵を描くためにじろじろ観察されるのが、なんだかだんだんと嫌な気持ちになってしまったのだ。かくも恋愛感情とは面倒くさいと我ながら思うくらいである。
少し前にヨランの年上の彼女の座におさまった、ナーナティカことナーナ。
ナーナは、そんなヨランの気持ちを知らずに呑気に喜んでいた。曰く「お祝い記念なら、受けなくちゃね」と言うのだ。
(お祝い……お祝いだもんな。うん。仕方ない。今日、あとで進捗見に行こう)
そわそわと指先が動いて、右腕に嵌まった腕輪に触れる。
それをローガンが目ざとく見つけたらしい。化粧をほどこした顔をにんまりと変えて、訳知り顔でにやついた。
「……なに」
「いや、恋する顔も可愛いものだとね。何かあったのかい?」
「そっんな顔は、してない。別に何も」
どもりながら言い返せば、ローガンはホシャムと目くばせした。
ホシャムが言う。
「あ。ナーナティカさん」
「嘘言うなよ。そんな音は聞こえてなんか」
――いや、した。
軽やかにかけてくる足音。
体力がないから乱れている息遣いと、ヨランの名前を呼ぶ声。
咄嗟に顔を上げてきょろきょろと見渡すと、忍び笑いがホシャムたちから漏れだす。それを睨みつけている間に、ナーナがスカートをひらめかせて現れた。
「ああ、ヨラン! いいところにいてよかった」
努めて冷静を心がけてヨランはナーナを迎えた。
「ナーナティカ。何かあったんですか」
「実はちょっと。あっ、こんにちは。ヨランを借りてもいいかしら」
言葉を濁した後、ナーナはヨランの傍に立つホシャムとローガンを見て願い出た。すぐにホシャムたちはうなずいた。
「どーぞどーぞ」
「いくらでもどうぞ」
こういうとき、驚くほど息が合う友人たちは揃ってヨランを前面に押し出した。
「うちのヨランをよろしくお願いします」
「良い奴なんです」
「えっ、ええ、そうね。知っているけど、ええと?」
戸惑うナーナがうなずいている。ぱちぱちと丸い目が瞬いて、何を思ったのか「あっ」と小さく声を上げて姿勢を正した。
「ご挨拶もせずにごめんなさいね。ヒッキエンティア寮のナーナティカ・ブラベリです」
「存じております。ローガン・ナッタイドです。ヨランの同室です」
「ヨランからめっちゃ話を聞いてます。ホシャム・ヒエズです」
きりっとした顔で返す友人二人を見て、ヨランは我に返った。
「なっ、ナーナティカ。急ぎの用事なら、すぐ行きますから」
「あら。私の話ってなあに?」
「それはですね」
ホシャムが軽い調子で言う。ローガンは愛想のいいナーナの顔をほうっと見ている。あれは可愛らしいものと判断して愛でている顔だ。
「ナーナティカ」
ヨランはますます焦ってナーナの腕を取った。
ついでに軽くホシャムを小突き、ローガンの足を踏んでから、急いでその場を離れる。
ひゅうとからかい混じりの口笛。応援の言葉もあるがヨランの青さを微笑ましそうにしているものだ。
(聞こえてるんだよ!)
カッと熱くなった頬を見られないように、ナーナの前を早足で進む。
そのまま腕を引いて、適当な場所を探す。講義の移動する生徒たちがいない廊下の行き止まりを見つけて、誰も近づかないことを確認してから止まる。
それから一呼吸おいて、振り返り腕を離した。
「友人がすみません」
「気にしていないわ。でも、私の話を聞かせてくれたってよかったのに」
「それは、その」
「ふふ、冗談。ヨランのことだから悪口ではないのでしょう?」
ナーナは小さく笑った。
たったそれだけなのに、落ち着いたと思った気持ちが上向く。どうにもまだ、付き合い始めの浮かれ気分は抜けきらない。ヨランはむずむずする唇を動かしてたずねた。
「あの、それでどうしたんですか」
「ああ。あのね、アミクのことなのだけど」
「アミクが何か?」
「最近、寮から出ていないって本当かしら。モナから聞いたの。ちょっと確認したくて」
どうやらアミクが部屋に籠り切りで作業していることを気にしてくれたらしい。
モナからというと、以前アミクがモデルを頼んでいたことの縁からかもしれない。ヨランは、なるほどと納得して口を開いた。
「はい。ここのところ制作中だとかで、五日くらい部屋に籠っています。倒れてはいないと思いますが、今日ちょうど見に行こうと思っていて」
「じゃあ、私も行っていいかしら」
「えっ」
ヨランはナーナを見た。
ナーナはにこやかな様子ではなく、眉を下げて何かを憂慮している表情だった。それだけで、何かあるのだとヨランは悟った。
「アミクに何かあったんですか」
「いえ、今のところちゃんと見ないとわからないのだけど……そうね」
ナーナは腕を組むと、ううん、と悩まし気に唸る。そうして少し迷った後、言いにくそうに口を開いた。
「知らないうちに呪いの援助をしているかもしれなくて」
「呪いを、アミクが? いったいどんな」
あの能天気な幼馴染は間違っても人を呪うような性格ではない。
ここ最近会った時も思いつめたり悩んだりする様子だってなかった。
ヨランが問い詰めれば、ますますナーナは苦慮していますと言わんばかりに目を伏せた。
「……その、ね。覗きの」
覗き。
ナーナの口からこぼれた単語を、脳が咀嚼して意味ある単語として理解するまで、凍ったみたいにヨランは固まった。
(のぞき。覗き? アミクが、覗き? とうとうやってしまって……いや、ナーナティカも見たのかあいつ。覗いて、見たと?)
よし、記憶がなくなるまで殴ろう。場合によっては家の薬も使おう。
即座に判断して、ヨランはナーナの手を取って握った。
「殴ってきます」
「いや、あのね、ヨラン。きっと不可抗力で絶対気づいていないものだし」
「殴ってきます。待っててください。今すぐ行ってきます」
「待って待って待って! 私は、私は大丈夫だから!」
手を放して素早く背を向けたヨランを後ろから抱き着いて捕まえて、ナーナが早口で言う。
「ヒッキエンティアの女子寮は私が対処したから。見られる前に全部防いだから。問題はそこじゃないのよ」
「そこじゃない? ナーナティカを見られたよりも何か問題が?」
「えっ、あの、ありがとう。んんっ、そのね、聞いてヨラン」
言い返すと、ナーナの頬にぱっと朱がはしった。恥じらいとお礼に気勢がそがれて、ヨランは足を止めた。抱き着かれた体が離れていく。
ナーナはほつれた髪を手で軽く流してから、息を整えて話した。
「問題は、ジエマが私に相談してきたことで」
「あっ」
「そこで魔法で探ってみたら、アミクかしらとなって」
(アミク。短い人生だったな)
ヨランの怒りは、ほんの少しだけ憐憫に変わった。
姉のジエマ・レラレに惚れこんでいるナーナの片割れ。双子のティトテゥスことテトスが浮かんだためである。
テトスがその暴挙を知ってしまったなら、間違いなくアミクはひどい目にあう。間違いない。
「今はまだ気づかれていないはず。ティトテゥスには話さないよう言い含めたから、まだ時間は稼げるけれど」
「……でも、ナーナティカ。男子寮に入るのは」
基本的に、学園のどの寮も男女と別れている。むやみな異性の出入りは規則で禁じられている。
何より、ヨランも気が気ではない。
躊躇うヨランに、ナーナは一歩近づいてこちらを見上げてくる。
「でも、呪いよ。見つからないように、どうにかできないかしら。ジエマもだけど、他の女子も不安になってしまうし、何よりアミクも心配でしょう」
「そう、ですけど」
「それに、前も入ったことがあったじゃない。ほら、色抜き歯形でも」
「あれは、テトスもいたからで。僕とナーナティカの二人だけで入るのは」
恋愛感情も育ってないあのときと今を比べられても困る。
しかしナーナはめげずにさらに一歩近づいてくる。
「もし何かあったら、ヨランがかくまってくれるでしょう? ねえ、お願い」
好意を寄せている異性に、頼られて即座に駄目と言えるだろうか。
少なくとも、ヨランは言えない。言えるわけもなく、澄んだ青い瞳を見返す。
「駄目? あなたなら頼りにできると思ったけど。厚かましかった?」
「ぐ、うぅ」
こんなに自分はちょろかっただろうかと思いながら、出かかった大きな溜息を飲み込みうなだれた。
「……はい。わかり、ました」
「ありがとう、ヨラン! 早速行きましょう」
「えっ、今からですか」
「ティトテゥスが嗅ぎつける前に終わらせなきゃ。今は、実習講義に出ているからいい機会なの。ジエマのいるコウサミュステとの合同講義だから、絶対休まないはずだわ」
それなら間違いなく邪魔にはこないだろう。
ジエマのいる講義という説得力にヨランは納得した。
「じゃあ、あの。絶対に僕から離れないで、あと姿も隠してくださいね」
「明るいところで見られると、まずいものね。ええ、任せて」
思案気に唇を片手で触れて、ナーナは微笑んだ。
なんとはなしに、ヨランは不安が過ぎったのだった。




