第35話 ルナの「神速」覚醒
「速い……! 私の目でも、追いきれないわ!」
セレナが焦りの表情で杖を構え直す。彼女が放った風刃魔法は、ただの空気を切り裂くだけで、標的にはかすりもしなかった。
第90層のボス部屋。
俺たちの前に立ちふさがったのは、巨大な三つ首の魔獣『雷光のキマイラ』だった。
全身から青白い稲妻を放ち、その巨体からは想像もつかないほどの速度で、部屋中を光の矢のように縦横無尽に駆け抜けている。
ジジジジジッ!
と大気が裂ける音がした次の瞬間には、クララの絶対障壁の真横から、鋭い爪が襲いかかる。
「くぅっ! 右だぞ! いや、もう後ろだ!」
クララが大盾を振り回すが、ボスの速度が速すぎて、障壁の展開が一歩遅れている。十倍の防御力があっても、攻撃を受け止めきれなければ意味がない。
「主様、私が抑えます!」
ルナが果敢に地を蹴り、ボスの軌道上へと躍り出た。
十倍の敏捷バフを得たルナの動きも、人間を遥かに超越した超高速だ。だが――。
バチチチッ!
「きゃっ!?」
鋭い雷光が走り、ルナの肩から血が噴き出す。ルナは床を転がり、何とか距離を取ったが、その表情には明らかな焦りがあった。
「ルナ!」
「大丈夫、です……。でも、奴の速度は……私の十倍の速度でも、まだ遅い……!」
キマイラは雷そのものと化して移動している。音速を超えるルナの動きすら、雷光の速度の前には遅れを取っていた。
『グオオオオオオオ!』
キマイラが次の突撃の体勢に入る。狙いは負傷したルナだ。
「――させるか! ルナ、そこから動くな! 魔改造契約、書き換えを行う!」
俺は叫びながら、ルナへと駆け寄った。
「主様!? 危ないです、下がって!」
「いいから俺を信じろ!」
俺はルナの背後に回り込み、彼女の首元、純白に輝く契約紋へと直接右手を押し当てた。
頭の中に、デバッグ用のコードが超高速でスクロールする。
『警告:対象のパラメータが一時的に制限値に達しています』
「リミットなど、俺の管理者権限で書き換えてやる! 制限コード、解除! 契約カテゴリ:獣王の咆哮を削除! 新規契約カテゴリ:『神速の契約』を上書きインストール!」
俺の右手が激しく発光し、ルナの体内に膨大な魔力パスが再構築されていく。
「あ、熱い……! でも、身体が……羽のように軽い……!」
ルナの純白の契約紋が、今度は青白い雷のような鋭い光へと変化した。
『制限解除:敏捷パラメータのバグ倍率を十倍から『神速』へ移行します』
システムコンソールの冷淡なメッセージが、俺の頭の中に響いた。
その瞬間、キマイラが雷光をまとってルナへと突撃してきた。
だが、ルナの目には、その光景が全く違って見えていた。
「……遅い」
ルナが静かに呟く。
彼女の世界は、完全に静止していた。
突撃してくるキマイラの顔に走る電流の揺らぎさえも、止まった水滴のように静止して見える。十倍の敏捷性をさらに超越した『神速』の領域――それは、時間そのものを引き伸ばす空間知覚の極限だった。
ルナはゆっくりと魔剣『閃光の白牙』を構え、歩き出す。
静止した世界の中を、青白い雷の尾を引きながら、ルナの身体が滑るように移動した。
and、キマイラの懐へと滑り込み、一寸の狂いもない軌道で魔剣を振り抜いた。
「――神速一閃」
ルナが魔剣を鞘に収めると同時に、世界の時間が再び動き出す。
バチィィィィン!
激しい雷光が炸裂した。
しかし、それはキマイラの攻撃ではない。ルナの移動によって生じた衝撃波と、魔剣の閃光だった。
キマイラの巨大な三つの首が、同時に宙を舞い、胴体から青い血を噴き出しながら床へと崩れ落ちる。
どさりと重たい音が響き、キマイラは一歩も動くことなく絶命した。
「……うそ。今、何が起きたの?」
セレナが目を丸くして、その場にへたり込んだ。
「旦那様、ルナが一瞬で消えて、気づいたらボスが死んでたぞ……。ウチの目でも、残像すら見えなかった……」
クララが呆然と口を開けている。
「ふふん、これが主様と私の、新しい絆の力です!」
ルナが嬉しそうに胸を張り、俺の元へと飛びついてきた。
「わっ、ルナ、危ないって」
「主様、ありがとうございます! なんだか今なら、光にだって追いつけそうな気がします!」
犬耳をパタパタさせながら、ルナが俺の胸に顔を擦り付ける。
「はは、無事でよかったよ。でも、これからはあまり無理しないでくれよ。心臓に悪い」
俺が彼女の頭を優しく撫でると、ルナは幸せそうに目を細めて喉を鳴らした。
『神速の契約』。
俺の『契約魔改造』は、ピンチの局面でさらに進化を遂げた。
深層のボスさえも一撃で葬るルナのチートな速さを手に入れ、俺たちはさらにその絆を深めるのだった。




