第2話 犬耳少女の救済
「冷たっ……はぁ、はぁ……重いな」
激しさを増す雨の中、俺はルナを背負って泥だらけの路地を必死に歩いていた。
財布の中身は文字通り空っぽだ。宿屋に泊まる金など一銅貨も残っていない。だが幸いなことに、俺には帰る場所があった。王都の場末、スラムの入り口近くにある、月額銅貨十五枚の安アパートだ。
きしむ木製の階段を上り、鍵の壊れかけたドアを肩で押し開ける。
「ルナ、大丈夫か。今ベッドに横にするからな」
背中から降ろした彼女の体は、冷たい雨のせいで氷のように冷え切っていた。
シーツの上に横たわったルナは、弱々しく耳を伏せ、浅い呼吸を繰り返している。泥と血で汚れた顔は青白く、今にも息が途絶えてしまいそうだった。
「……う、……ぅ……ある、じ……さま……ルナは……もう……」
「喋るな。息を整えるんだ。今、助けるから」
俺は彼女の側に膝をつき、その首元に刻まれた「奴隷紋」を見つめた。
赤黒く脈打つ不気味な紋様。それは所有者の絶対命令を強制し、逆らえば激痛で精神を破壊する呪いの鎖だ。通常の手段では外すことも、書き換えることもできない。
「だが、俺の『契約魔改造』なら……!」
俺は前世の記憶を呼び起こす。ブラック企業でシステムのバックドアを探し、バグを修正していたあの感覚。この世界の契約魔法も、一種のプログラムのようなものだ。脆弱性は必ずある。
俺はルナの首輪に両手をかざし、自分の残り少ない魔力を注ぎ込んだ。
「システムアクセス……権限譲渡の書き換えを開始する」
頭の中に、複雑に絡み合った光の数式が浮かび上がる。
奴隷紋の深部に眠る「命令・苦痛」のコードを見つけ出し、それを「共有・支援」へと書き換えていく。
「主従関係の強制を解除。魔力パスの相互接続を確立。バフ付与の常時乗算化を設定。……よし、書き換える!」
俺の叫びと共に、ルナの首輪からパチパチと青白い火花が散った。
赤黒い紋様が激しく明滅し、やがて濁った色が抜け落ちていく。
「きゃっ……!? あ、あつい……身体の奥が……!」
ルナが短い悲鳴を上げ、体を弓なりに反らせた。
「すまない、ルナ! 今、俺の生命力と付与魔法をそっちに流す! 耐えてくれ!」
俺は自身の生命力を魔力に変換し、パスを通じて彼女へと注ぎ込んだ。ただの生命力付与ではない。契約魔改造によってルナの肉体とパスが同調した今、俺のバフは彼女の自己回復力を「十倍」に増幅させている。
純白の光がルナの全身を包み込んだ。
泥と血に汚れていた傷口が、シュウシュウと音を立てて塞がっていく。打撲の青あざが消え、荒かった呼吸がみるみるうちに穏やかなものへと変わっていった。
やがて光が収まると、ルナの首元にあった赤黒い奴隷紋は、透き通るような純白の美しい紋様へと変化していた。
「はぁ……はぁ……終わった、か……」
魔力を使い果たした俺は、その場にへたり込んだ。頭が割れるように痛い。
「……あれ? わたし……痛くない……?」
ベッドの上で、ルナがゆっくりと上体を起こした。
彼女は自分の両手を見つめ、何度も握ったり開いたりしている。先ほどまでの死にそうな様子が嘘のように、その頬には健康的な赤みが差していた。
「傷が、全部消えてる……。首輪の、あの嫌なズキズキする痛みもありません……。主様、これは一体……?」
ルナが信じられないといった様子で、潤んだ瞳を俺に向けた。
「君の奴隷紋を書き換えたんだ。これからは、俺の魔力と君の魔力が繋がっている。君が傷つけば俺の魔力で癒やすし、君が戦う時は俺の付与魔術が何倍にもなって君を強化する」
「魔力をご共有……ですか? そんな魔法、聞いたことがありません……」
「俺だけの特別なスキルさ。だからルナ、君はもう死なない。誰かに道具として使い潰されることもないんだ」
俺がそう言って微笑むと、ルナの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
彼女はベッドから這い出ると、床に膝をつき、俺の足元に深く頭を垂れた。
「ルナは、多くの主人に仕えてきました。みんな、わたしを叩き、獣と呼び、死ぬまで戦えと言いました。……あなた様のように、優しくしてくれた人は一人もいません」
肩を震わせながら、ルナは絞り出すような声で続けた。
「この命、あなた様に捧げます。ルナはあなたの剣となり、盾となります。どうか、そばに置いてください……!」
「頭を上げてくれ、ルナ。俺もパーティーを追放された身でね。今は一文無しなんだ。だから主従関係っていうより、これから一緒に生きていくパートナーとして、よろしく頼むよ」
俺が手を差し伸べると、ルナは驚いたように顔を上げ、恐る恐るその手を握り返した。
その手は、先ほどとは違ってとても温かかった。
「はい、主様……! ルナ、一生ついていきます!」
犬の耳を嬉しそうにパタパタと動かすルナを見て、俺の心にも温かいものが灯る。
だが、現実的な問題は山積みだった。
外は少しずつ明るくなり始めている。朝だ。そして、俺たちの手元には一銅貨もない。
「さて、感動の対面のところ悪いんだが、ルナ。俺たちは今、今日のご飯代すら怪しい状態だ」
「えっ、そうなんですか……?」
ルナが丸い目をさらに丸くした。
「ああ。だから、少し体が休まったら早速ダンジョンに行こうと思う。ギルドで簡単な依頼を受けて、日銭を稼ぐんだ」
「はい! ルナの体はもうすっかり元気です! すぐにでも行けます!」
頼もしい返事だ。俺は彼女のステータスプレートがどうなっているか、確認してみることにした。契約魔改造を経たことで、俺のプレートから従者である彼女の数値が覗けるようになっていたのだ。
「どれどれ、ルナのステータスは……」
俺が虚空に浮かび上がった半透明のプレートに目を落とした瞬間、心臓が跳ね上がった。
名前:ルナ
職業:獣王剣士(覚醒)
レベル:15
体力:450(+4500)
魔力:80(+800)
攻撃力:120(+1200)
「……は?」
カッコ内の数値は、俺とのパス接続によるバフの上乗せ値だ。
乗算バフが『契約魔改造』のせいでバグを起こし、本来のステータスが「十倍」に跳ね上がっている。
レベル十五のルナの攻撃力が、Sランク冒険者すら凌駕する領域に達していた。
立ち上がったルナの周囲の空気が、彼女の無自覚なプレッシャーによってパキパキと鳴り始める。
「主様? どうされましたか?」
不思議そうに小首をかしげるルナを見つめながら、俺は冷や汗を流すことしかできなかった。




