オランダの涙(6)
「光琉は普通の大きさの狼か、山神家の巨大な狼しか見たことがなかった。笹木家の狼は小型だと知っていれば、蓮之助の小さなスーツケースに潜んでいた貴様を見逃さなかっただろう。彼らは力で抑え込まれると弱い。人間でいた方が有利だということになる。筋力が足りないからな。」
ルリはずっと周囲を警戒している。
「時間稼ぎには付き合いませんよ。この建物にも仕掛けをしてあります。死にたくなければ通して下さい。」
小麦は道を開けなかった。
「話は終わっていない。訊きたいことはまだある。蓮之助をどのように脅したのか、時雨とマリアを殺した実行犯は誰か。」
「蓮之助を脅すのは簡単でした。六百年近く生きていれば、後ろ暗いところが数えきれないほどありますから。私は本家のパソコンをハッキングすればいいだけでした。公表されたら小麦様に制裁されるような情報が目白押しです。既にデータを送っておきました。」
ルリは早口で答え、小麦の反対側の階段に向かった。
「行くな!話は終わっていないぞ。」
小麦の気迫に圧され、ルリは立ち止まった。
「時雨を殺したのはマリア、マリアを殺したのは奈美子、絹代を殺したのは未來です。もういいですか?」
小麦は持ってきたバッグをルリに押しやった。ルリは促されるままにバッグを開けた。
「そいつは笹木ハリ。お前の弟で間違いないな?」
ルリは似顔絵を見て固まった。
「これは…小麦様が?」
「いや、私はハリに会ったことがない。それは光琉が描いたものだ。文句なら奴に…。」
小麦は続きを呑み込んだ。ルリがかつてない慈愛に満ちた表情で絵を見つめ、一筋の涙を零したからだ。
「そいつは玉兎の直属の部下だった。貴様も玉兎と関わりがあったのか?」
ルリはまだ呆けている。
「光琉が…この絵を…。」
ルリはハッとした。小麦が急速に距離を詰めてきたからだ。慌てて『石』を手に持つと、階段に向かって駆け出した。
来た。光琉は全神経を集中させていた。チャンスは一度きりだ。ルリが階段に差し掛かった途端に飛び掛かり、ルリの持つ『石』を奪う。失敗すれば呪い殺される。
階段に茶色の髪が見えると同時に、光琉は駆け出した。驚いたようにルリの足が止まる。光琉の手がルリの方に伸びる。もらった。光琉はルリの手を掴もうとした。ルリは階段の横の壁を蹴り、光琉の頭を飛び越えて華麗に踊り場に降り立った。光琉の手は虚しく宙を掴む。
光琉はすぐに振り向いた。ルリと目が合う。失敗だ。ルリが少し念じたら死んでしまう。光琉がルリと向き合って呆然としていると、ルリの持つ『石』が急速に黒くなった。
「ルリ!」
ルリは胸を押さえ、派手に血を吐いた。踊り場の鏡から血がゆっくりと垂れている。ルリは壁にもたれながら、徐々に床へと沈んでいった。光琉はルリが倒れるのをただ見ていた。ルリは完全に動かなくなり、小麦がその傍らに降りていった。
「どうして…?」
ルリはこと切れている。その死に顔は微笑んでいるように見えた。
「逃げ出そうと思えば出来たはずだ。こんな場所で呪っても、何人道連れに出来たか…。」
光琉は顔をしかめた。
「卑怯だよ。勝ち逃げなんて。」
この話において、犯人にはあまり意味がないのですが、急展開すぎるので軽く解説します。読み飛ばしても良いですよ。時雨をマリアが刺し、ルリが止めを刺します。この時剛士に目撃されていました。マリアの父に仕えていた彼は、マリアを庇うために疑われやすい第一発見者となっています。わざわざ時間をずらして。翌日、マリアは凶器のナイフを奈美子に発見されます。二人は揉み合いになり、マリアが刺されるのですが、その時にトキが走り去る様子を見た奈美子は、嘘の証言をしたわけです。
ここまで一族内で問題が生じては、小麦の力を持ってしても収拾がつきません。この一件で笹木家の力は大分衰えます。これから本編は暫く進みません。次回は過去編、その次は閑話になります。ようやく過去編第一弾になります。お楽しみに。




