第九話 剣聖、副官の座を賭ける
副官格の話をヴォルフガング本人から聞いたのは、リゼに伝言を頼んでから、更に十日ほどが過ぎた頃だった。その間、俺は普段通りに依頼をこなしていたが、黒鳶亭で顔を合わせる古参たちから、仕事の進め方について尋ねられることが増えていた。団長が何か話しているのだろうとは思っていた。だから、奥の一室に呼ばれ、机の上に契約書が用意されているのを見ても、さほど驚かなかった。
ただし、幹部たちが集まる前に、確かめておきたいことがあった。名だけの副官になりたいわけではない。何を任され、どこまで自分で決められるのか。椅子に腰を下ろした俺がそれを尋ねると、ヴォルフガングは待っていたように、机の上の紙をこちらへ向けた。
「まず任せたいのは、戦闘に関わる部分だ。団員の鍛錬と、お前が引き受けた任務の作戦、現場の指揮。帳簿や人の出入りまで、いきなり全部押し付けるつもりはない」
戦場で兵を動かすことなら、経験はある。だが、この団で誰がどんな働きをしてきたのか、負傷している者が何人いるのかさえ、俺はまだ十分に知らなかった。そこを古参から教わりながら、まず得意な仕事を受け持つ。そういう話なら、現実味があった。
「任された隊の動かし方は、俺が決めていいんだな。退く必要があると判断した時も」
「ああ。現場でしか分からんことまで、俺の返事を待たせる気はない。ただし、戻ったら理由は聞かせろ。団内の鍛錬についても、各隊を預かる連中と日程を合わせてもらう」
依頼を受けるかどうかは、これまで通り、内容と報酬を聞いてから決められる。契約傭兵という立場は残し、団内で引き受ける仕事も相談の上で定める。一度受けた務めを放り出さないことや、内容が変われば話し合うことも同じだった。報酬の取り分に変更はなく、鍛錬や団内の打ち合わせに充てる時間には、別に手当が出る。俺は紙面を追いながら、口頭の説明と食い違いがないかを確かめた。
「外との折衝は、当面俺が受け持つ。お前を公国の役人の前へ引っ張り出す話ではない」
「分かった。その条件なら、話を進めてくれ」
俺の返事を聞いてから、ヴォルフガングは扉の外へ声をかけた。やがて長机の周りに、団の主だった幹部たちが腰を下ろす。剣帯を外さずに座る者、持ち込んだ帳面を膝へ置く者。知った顔もあったが、長く話したことのない相手の方が多かった。彼らにとっても、俺はまだ、噂になるほど剣の立つ新参者でしかない。
「ユリウスを、副官格に据えたい。まずは戦闘と鍛錬の面で、俺を補佐してもらう」
椅子の軋む音が止まった。契約を交わしてから、まだ日が浅い。古参たちを差し置いて役職を受けることに、誰もが納得しているとは思わなかった。俺が何を任されるのか、ヴォルフガングが説明を終えるのを待って、机の向こうにいた男が口を開いた。
「団長、強さを疑っているわけではありません。ですが、団の内情を知らない人間に、いきなり人を預けるのは性急では」
屈強な体格に、左頬を横切る古傷。両腕には使い込まれた革の籠手を着けていた。ガレスという名の古参で、何度か同じ卓で食事をしたことがある。団員たちが遠征の支度について相談を持ちかけている姿も見ていた。今の問いも、俺を追い払いたいというより、任せた後に困らないかを確かめようとしているように聞こえた。
「だから、お前たちにも教えてやってほしい。東部の仕事で、こいつは敵を倒した後、地元の警備兵を呼んで捕虜と荷を引き渡した。リゼからも話を聞いている。腕だけを見て決めたわけじゃない」
「分からないことまで、知った顔で命じるつもりはない」
俺が言うと、ガレスの視線がこちらへ移った。数十人を相手に勝てることと、彼らの暮らしや仕事を知っていることは別だ。戦いで役に立てる自信はあっても、団を支えてきた者の働きまで、剣一本で代われるとは思わなかった。
「団の決まりや、隊ごとの癖は教えてもらいたい。その上で、任された現場では責任を持つ」
ガレスはしばらく俺を見ていたが、やがて机に置いていた手を引いた。ほかの幹部からも、誰がどの仕事を教えるかという話が出た。すぐに親しくなれるわけではなくても、話し合える余地はある。そのことに安堵しかけたところで、ガレスが腰の剣へ目を落とした。
「なら、もう一つ頼みがある。一度、俺と手合わせしてくれ」
「何を確かめたい」
「報告書だけじゃ、どんな剣を使う男かまでは分からん。これから前を任せるなら、自分の目で見ておきたい」
さっきまでとは違う、剣士の目だった。団の決まりを覚えるのは、この先の仕事になる。だが、俺の剣を見たいというなら、その場で応じられた。ヴォルフガングも、口を挟まずに俺の返事を待っていた。
「構わない。場所は?」
「裏の鍛錬場だ。今なら空いている」
※ ※ ※
黒鳶亭の裏手には、団が借りている鍛錬場があった。踏み固められた地面に、木剣を立てかけた棚と、水桶が幾つか並んでいる。俺とガレスが向き合う頃には、話を聞きつけた団員たちも集まってきた。リゼとの手合わせも、東部での戦いも、ここにいる大半の者は見ていない。ガレスへ声をかける者が多いのは、普段から彼の剣を知っているからだろう。
夕日を受けて、大剣の厚い刃が鈍く光った。ガレスは両手で柄を握り、正眼に構える。身体の大きさに任せて振り回す剣ではなかった。肩に余計な力は入っておらず、こちらが踏み込めば、すぐに切っ先を合わせられる位置を保っている。俺も腰の剣を抜き、相手の足元を見ながら構えた。
「手加減はせんぞ」
「ああ。来てくれ」
ヴォルフガングの合図で、ガレスが踏み込んだ。間合いに入る直前まで剣先を動かさず、最後の一歩で斬撃へ移る。見せかけの隙に誘われれば、そのまま押し切られる剣だった。鍛錬場の端から、誰かが短く息を呑む音が聞こえた。
だが、切り返しまで含めて、その動きは見えていた。俺は半身をずらして刃を躱し、振り抜こうとする腕の内側へ入った。ガレスが後ろ足へ体重を戻すより早く、踏み込んだ足首を払い、剣の腹を上腕へ押し当てる。足場を失った巨躯が傾いたところで、空いた左手で胸元を掴んだ。そのまま倒れる勢いを殺して片膝をつかせ、喉元で切っ先を止めた。
大剣の先端が地面を擦った。合図から、数秒も経っていない。ガレスは剣を握ったまま、俺の切っ先を見下ろしていた。頭から地面へ落とすことも、腕を折ることもできたが、手合わせでそうする必要はなかった。相手が動きを止めたのを確かめてから、俺は胸元を離した。
「……今、どうやって入った」
「踏み込んだ後、次の一歩に移る前だ。あんたの剣が戻るのを待たなかった」
周りから声は上がらなかった。少し離れた場所で、リゼが腕を組んで立っている。彼女だけはさほど驚いていないようだったが、ガレスの足元と俺の剣へ、交互に視線を向けていた。俺は一歩退き、切っ先を下げた。
「続けるか」
「いや、十分だ」
ガレスは立ち上がり、膝についた土を払った。唇を引き結んだ顔には、まだ悔しさが残っている。それでも、俺の肩越しに団員たちを見ると、皆に聞こえる声で言った。
「俺の負けだ。文句はない」
ようやく、見物人の間からざわめきが起きた。何が起きたのか隣の者へ尋ねる声もあれば、俺の足運びを真似しようとする者もいる。全員が俺を上役として認めたわけではないだろう。だが、ガレスが口にした敗北を、軽く扱う者はいなかった。
「団のことは、これから覚えてもらうぞ」
「そのつもりだ」
互いに剣を鞘へ納めてから、差し出された手を握り返した。ガレスの掌は硬く、指の付け根には厚い皮ができている。彼は一度だけ強く握り込むと、さっき足を払われた辺りを見下ろして、苦い顔で笑った。俺はその場所を軽く足で示し、踏み込む向きをもう一度見せた。
その後、俺たちは奥の部屋へ戻り、職務の範囲を書き加えた契約書をあらためて確認した。幹部たちから出た疑問にも答え、教わる仕事と引き受ける仕事を決めていく。ヴォルフガングに最後の返事を求められ、俺は「この条件で引き受ける」と告げて署名した。そこで初めて、副官格への就任が決まった。
※ ※ ※
その夜、黒鳶亭の奥では、二つの卓を繋いでささやかな祝いの席が設けられた。表側では旅人や荷運びたちがいつも通り食事をしており、俺たちの席にも焼いた肉やパンが次々と運ばれてくる。ガレスは杯を片手に、さっき足を払われた箇所を何度も確かめていた。
「あんな剣、いったいどこで身につけたんだ」
「色々あってな」
「そればかりだな、お前は。まあいい。明日は団の仕事を教えるから、その後で、もう一度さっきの踏み込みを見せてくれ」
ただ持ち上げられるより、その頼み方の方が嬉しかった。俺は承知したと答え、勧められた酒を受け取った。負けたことに不満がないわけではないだろう。それでもガレスは、俺から学べるものを探している。こちらも、その姿勢に応えたいと思った。
前の生にも、俺を信じてくれた兵や騎士はいた。戦場で背中を預け合った時間まで、偽物だったとは思いたくない。ただ、その信頼を理由に次の戦いを引き受け続け、断る言葉を失っていったことも確かだった。今、ガレスと交わしているのは、明日互いに何を教えるかという話だ。それだけの約束を、気負わずに交わせるのがありがたかった。
宴の途中、リゼが隣の椅子へ腰を下ろした。向こうの卓で幹部たちと話している団長を見てから、少しだけ顔を寄せてくる。
「団長、さっき『数年後には団を任せられるかもしれん』なんて言ってたわよ。まだ副官になったばかりなのに」
「気の早い話だ」
「でしょうね。酔ってはいたけど、まるきり冗談でもなさそうだったわ」
団を任せる。今日まで隊ごとの仕事さえ知らなかった俺には、随分と遠い話だった。ヴォルフガングの方を見ると、ちょうどこちらへ杯を掲げてきた。期待しているのは分かる。だが、その期待に今すぐ返事をする必要はない。俺は杯を少し持ち上げて応じ、目の前の皿へ手を伸ばした。
ガレスが戻ってきたのは、肉を半分ほど食べ終えた頃だった。卓に杯を置き、俺の隣に立ったまま、今度は落ち着いた声で話しかけてくる。
「これから一緒に出る仕事が楽しみだ。俺も、あの程度で転がされてばかりじゃいられんからな」
「古参が新参に先を越されて、面白くはないだろう」
「負けたのは悔しいさ。だが、お前が強いからって、俺の仕事がなくなるわけじゃない。今日も話しただろう。団のことは俺が教える。その代わり、剣は教わる」
そう言って笑う顔には、無理に機嫌を取り繕う様子がなかった。俺を認めることと、自分の積み重ねてきたものを捨てることを、同じには考えていないのだろう。彼が明日教えると言った仕事を、俺はまだ一つもこなしていない。副官殿と呼ばれるたびに浮つきかけた気持ちが、そのことを思い出すと落ち着いた。
夜が更けるにつれ、表の席からも大きな声が聞こえるようになった。行商人らしい男が、近くの客へ王国の噂を話している。エルデシアという名に、俺は杯を口へ運ぶ手を止めた。
「南方の国境が、また危ういらしいぞ。魔王軍が新手を送り込んできて、王都から急遽増援が向かったとか」
「間に合うのか、その増援は」
「さあな。腕の立つ将軍や騎士団長まで、ここ数年で失脚だの左遷だのって話だからな。誰かさんの粛清好きが祟ったんじゃないかって、向こうじゃ言われてるらしい」
真っ先にバルドーの顔が浮かんだ。もっとも、商人は名前を挙げていない。誰が処分され、どんな事情があったのかも、この話だけでは分からなかった。前の生で俺を追い詰めた手口を思えば、疑いたくもなる。俺が知らないところで、似たようなやり方で追い落とされた者がいたのかもしれない。
この時代の王家や貴族たちが重ねた判断が、今の戦況にどう影響しているのか。確かめる価値はあった。王国の混乱は、東部の盗賊騒ぎという形で既に公国の街道へ及んでいる。遠い国の話だと、聞き流せるものばかりではない。詳しい情報が必要なら、明日、ヴォルフガングの持っている報告を見せてもらえばいい。
それでも、あの国へ助けに戻るつもりはなかった。情勢を知り、この土地で何が起きるかを考えることはできる。今夜の席を立って、王国の戦場へ駆け出す理由にはならない。俺は止めていた杯を口に運び、隣から向けられるリゼの視線に気づいた。
「どうしたの。急に黙って」
「明日の仕事が増えそうだと思ってな」
リゼは少しだけ眉を上げたが、追及はしなかった。彼女の向こうでは、ガレスが若い団員へ、俺にどう転ばされたかを説明している。大げさに腕を振った拍子に杯が倒れかけ、慌てて受け止める姿に笑いが起きた。俺もつられて口元を緩めると、リゼはそれを確かめたように、小さく息を吐いて椅子に座り直した。
「お前も、いつか副官格を狙うのか」
「まさか。私はまだ、斥候としての腕を磨きたいの。人の仕事を取りまとめるより、先に行って確かめる方が性に合ってるわ」
そう答えた後、リゼは杯の縁へ指を添え、言葉を探すように視線を落とした。いつもの歯切れのよさが途切れたので、俺は続きを待った。表の席の噂話よりも、今はこちらの声を聞いていたかった。
「でも、あんたの傍で、これからも色々見ていきたいとは思ってるけどね」
最後だけ少し早口になった。こちらを見るようで見ない、その横顔をからかう気にはなれなかった。東部の坑道で背後を任せた時も、押収した書類を大事そうに抱えていた帰り道も、彼女は自分の役目を果たしていた。これからも同行してくれるなら、俺にとっても心強い。
「なら、次も頼りにしてる」
リゼはようやくこちらへ顔を向け、小さく頷いた。窓の外には月が高く昇り、卓の上にはまだ料理が残っている。誰かが俺を副官殿と呼び、ガレスが明日の集合時刻を念押ししてきた。俺は返事をしながら、もう少しだけ、この席に座っていようと思った。




