第十話 剣聖、公爵の使者と会う
副官格に就いてから、一ヶ月ほどが過ぎていた。午前は鍛錬場で団員の剣を見て、午後はガレスと次の仕事に出す顔ぶれを相談する。誰が盾役に向き、誰なら長い見張りを任せられるか。剣の腕だけでは決められないことが、団には幾らでもあった。左肩の傷が治りきっていない男を護衛に加えようとして、ガレスに止められたこともある。本人が平気だと言っても、その言葉だけで判断してはいけないのだと覚えた。
依頼の受け付けや公国の有力者との折衝は、引き続きヴォルフガングが担っていた。俺が受け持つのは、引き受けた任務の作戦と現場の指揮、それに団員の鍛錬だ。戦場で兵を動かした経験はあるが、蒼鷹の内情にはまだ疎い。ガレスから教わり、必要があればほかの古参にも尋ねた。指示を出す前に相手の顔を思い浮かべられるようになるにつれ、帳面に並ぶ名前も、ただの人数ではなくなっていった。
その日も、翌週の鍛錬に使う木剣を調べているところへ、団員が呼びに来た。黒鳶亭へ向かうと、ヴォルフガングが奥の廊下で待っていた。手には封を切った書状がある。俺に気づいても、いつものように軽口を叩かなかった。
「公爵家から、使者が来ている」
クロムトリア公国を治める公爵家。公国軍から仕事を受けることはあっても、そこから直接声がかかるとは思っていなかった。書状の蝋印へ目を落とすと、ヴォルフガングは折り目を戻し、懐へ収めた。
「団を立ち上げてから、直々に使者を寄越されたのは初めてだ。東部の一件が目に留まったらしい」
「それで、俺も呼んだのか」
「新しい仕事の話がある。お前に現場を任せられる内容か、席で聞いておいてほしい。交渉は俺がする。出てもらえるか」
何を求められているかも分からないまま、公爵家の期待だけを背負わされるのは困る。俺がそう言う前に、ヴォルフガングは返事をするのは話を聞いてからだと付け加えた。その言葉を確かめ、俺は頷いた。
使者を待たせていたのは、幹部会にも使っている奥の一室だった。長机には古い杯の染みが残り、窓際の棚には帳簿が積まれている。いつもと違うのは、卓に茶が用意され、部屋の外に護衛らしい男が一人立っていたことくらいだ。仕立てのよい外套を着た客は、俺たちが入ると椅子から立ち上がった。
「お待たせした。こちらは副官格のユリウスだ。戦闘に関わる仕事を任せている」
「お時間をいただき、ありがとうございます。宰相補佐官のヨハン・ライナーと申します」
壮年の男だった。丁寧に頭を下げる動作にも、椅子を引いて座り直す時にも無駄がない。腰には細身の剣を帯びていたが、それ以上に目についたのは、外套の裾に残る乾いた泥だった。街へ着いてから、さほど時間を置かずにここへ来たのかもしれない。
「先日の東部における王国兵の不正工作について、公爵閣下は貴団の働きを高く評価しておられます。指揮官の身柄と命令書を確保していただけたことで、抗議にも確かな裏付けができました」
ヴォルフガングが礼を述べると、ヨハンは傍らの革袋から地図を取り出した。挨拶を長引かせる気はないらしい。卓へ広げた地図の上に、報告書を重ね、その端を指で押さえる。
「本日は、北方の異変についてご相談に参りました。グリセル山脈の南麓で、魔物の大規模な移動が続いています」
示されたのは、公国北部の国境地帯だった。山脈の東寄りにはエルデシア王国との境が通り、南側には幾つもの谷が口を開けている。谷から下りた先には村と街道があった。地図に引かれた幾本もの矢印は、山側から公国の内陸へ向かって伸びていた。
「群れは南下しているのか」
「はい。複数の谷で確認されており、斥候の見積もりでは、見えているだけでも千を超えるとのことです。この報告が書かれたのは三日前ですので、今は更に増えている可能性もあります」
千を超える。それだけの数が一つの谷を下ってくれば、途中の集落などひとたまりもない。俺は報告書を手元へ寄せ、確認された魔物の種類を追った。下位種が大半を占めていたが、中位種の名も幾つかある。上位種と思われる影を見たという記述には、遠方からの目撃につき未確認、と添えられていた。
「異なる種が、争わずに動いているのか」
「小競り合いはあるようです。ただ、普段なら縄張りを離れない種類まで、同じ方角へ移動しています。隊列を組んでいる様子はなく、何かに追い立てられているように見えたと、斥候は報告しています」
群れを組まない魔物まで、獲物や縄張りを捨てて逃げている。事実なら、頭数以上に厄介だった。山で食料が失われたのか、強大な魔物が現れたのか。それとも、何者かが意図して麓へ追い出しているのか。移動している群れだけを倒しても、原因が残れば次が下りてくる。
「魔王軍の姿は確認されているのか」
「現時点では、されておりません。ただ、王国の南方戦線が後退していることもあり、国境を越えて流入した可能性は調べる必要があります」
俺は地図の東側へ視線を移した。山脈が王国との境に近いことと、南方の戦場から魔物が来たことは、同じ意味ではない。どの道を通り、いつ山へ入り込んだのか。そこが繋がらなければ、もっともらしい推測で終わる。
「王国側から越えてきた足跡や、部隊の痕跡は」
「その確認を含めて、お願いしたいのです」
ヨハンは曖昧に頷いて済ませず、調べられていない範囲を地図の上で示した。谷が入り組み、既存の斥候だけでは追いきれていないらしい。ヴォルフガングが腕を組み、南側に描かれた砦の印へ目を向けた。
「公国軍は、どう動いている」
「街道と麓の集落へ通じる道に兵を出し、防衛線を整えています。避難の準備も進めていますが、兵を調査へ回しすぎれば、群れが下りてきた時に支えられません。貴団には別働の調査隊を出していただき、群れの進路と、その背後で何が起きているかを確かめていただきたい」
千を超える群れを、傭兵だけで迎え撃てという話ではなかった。公国軍が麓を固めている間に、こちらは山側の様子を探る。群れの近くへ踏み込む以上、調べる者にも、包囲される前に切り抜けられるだけの腕が要る。
「東部での働きを拝見し、戦えるだけでなく、得た情報を持ち帰れる方々だと判断しました。現地の砦では、補給と負傷者の受け入れ、それに連絡役を用意します」
ヴォルフガングは報酬の記された紙へ目を通し、次いで任務の範囲を確かめた。調査中に遭遇した小規模な群れへの対処や、避難路の確保は含まれる。だが、大群との戦闘まで請け負うものではない。俺も地図から顔を上げ、現場で確かめておくべきことを口にした。
「群れが予想より速く動いていた場合は、調査を切り上げて知らせに戻る。それで構わないな」
「もちろんです。戻らずに戦い続けられては、こちらも次の判断ができません」
ヨハンの返答を聞いて、ヴォルフガングが頷いた。
「その条件で編成を検討する。正式な返事は今日中に届けよう」
使者は承知したと答え、地図と報告書を残して部屋を出た。護衛の足音が廊下の向こうへ消えると、ヴォルフガングは椅子へ深く腰を下ろした。公爵家との繋がりを得られる仕事だ。受けたいと思っているのは、書面を見直す顔から分かった。それでも、俺に向けた最初の言葉は催促ではなかった。
「どう見る」
「群れの数より、移動の原因が気になる。追われているなら、その後ろに何がいるかを確かめたい」
前の生でも、強い魔物が棲みついたことで、周辺の獣や魔物が一斉に動いたことはあった。魔王軍がその習性を利用し、守備兵を別の場所へ誘い出した戦場も知っている。ただ、グリセル山脈で何が起きたかという記憶はなかった。当時の俺は王国の戦場を渡り歩いていた。公国の異変を知らずにいたとしても、不思議ではない。
「王国の戦況が原因だという線は、どうだ」
「あり得る。だが、まだ根拠が足りない。今分かっているのは、山から魔物が下りていることだけだ。王国のせいだと決めて調べれば、ほかのものを見落とす」
言いながら、俺自身にも念を押した。あの国が余計なことをしたのだと考えたくなる気持ちはある。だが、腹立ちを根拠に進路を決めて、連れていく者を危険に晒すわけにはいかなかった。東部では命令書が見つかった。今回は、まだそれに当たるものがない。
ヴォルフガングは地図に置いていた指を引き、少し黙ってから俺を見た。
「現地の指揮を頼みたい。引き受けるか」
下位の魔物が主体なら、数だけで俺が後れを取るとは思わない。問題は、俺が一方の谷で戦っている間に、別の谷から群れが抜けることだった。同行する者を好き勝手な場所へ散らせば、剣が届くまでに犠牲が出る。何を確かめ、どこまで進み、どう知らせるか。出発前に詰めておくべきことは見えていた。
「引き受ける。リゼと、ガレスを付けてほしい。あとは長く山道を動ける者を選ぶ。大人数で踏み込むより、身軽な隊の方がいい」
「編成は相談して決めろ。退くかどうかは、お前に任せる。公爵家の依頼だからと、団員を置いて帰るなよ」
「そのつもりはない」
王国を離れても、隣国の戦況まで消えてなくなるわけではない。そのことは、東部で王国兵の命令書を読んだ時に分かっていた。今回も関係しているなら、確かめて対処する。今ここにある暮らしを守るために必要な仕事だと判断したから、俺は引き受けた。
その日のうちに、任務の範囲と報酬、現地で受けられる支援を書面で確認し、ヴォルフガングが正式な返事を届けた。出立は三日後。それまでの間も、現地から届く報告は団へ回してもらうことになった。
※ ※ ※
出発の朝、黒鳶亭の裏手には、乗馬と荷駄用の馬が並んでいた。俺とリゼ、ガレスを含む十数名。人数を増やすよりも、斥候を務められる者や、悪い足場でも仲間に遅れず動ける者を選んだ。麓の砦で補給を受けるとはいえ、途中で道が塞がれることもある。携行する食糧と矢は余裕を持たせ、その分、持ち運ぶ必要のない荷を減らした。
この三日間、ガレスとは何度も編成を練り直した。剣が立つだけで、山道に慣れているとは限らない。普段は別々の隊で働く者を組ませる以上、合図の使い方も揃える必要があった。鍛錬場で前後の位置を入れ替え、斥候が戻る時にどこを空けるかまで確かめる。些細に見える行き違いほど、敵の前では取り返しがつかなくなる。
現地から追加で届いた報告には、魔物の移動が続いていること。まだ麓の防衛線へ大群が押し寄せたわけではない。だが、前の報告になかった谷でも姿が確認されていた。俺はその箇所を地図へ書き足し、砦に着いたら最新の状況を聞くことを、全員に伝えていた。
「緊張してるの?」
馬の腹帯を確かめていると、リゼが隣へ来た。すでに自分の荷はまとめ終えているらしく、手には短く巻いた縄だけを持っていた。俺は締め具を留め直し、彼女へ顔を向けた。
「この顔ぶれをまとめて預かるのは初めてだからな。動きは、まだ見ておきたい」
「あんたなら、前に出た魔物を片っ端から倒せば済むと思ってた」
「俺が斬っている間に、別の道を抜けられたら困る。先を見てくれる奴が要る」
リゼは巻いた縄を荷袋へ押し込み、少し口元を上げた。頼まれた役目が分かっている顔だった。俺の剣を目の前で見ても、それで自分の仕事がなくなるとは思っていない。こういうところは、ガレスとよく似ていた。
「任せて。見えたものは、ちゃんと持ち帰るから」
そう言って、先行する斥候役の団員たちへ歩いていく。その背を見送ってから、俺は鞍へ上がった。前の生にも、斥候の報告で救われたことはある。だが、誰が行っていたのか、顔も知らないまま受け取った報告も多かった。今は、誰を送り出すのかを自分で決め、その帰りを待つ立場にいる。
ガレスが馬を寄せてきたのは、荷駄の最後の紐を締め終えた頃だった。団員たちの支度を見回し、俺にだけ聞こえる声で言う。
「団長は、この仕事を次に繋げたいと思っている。公爵家から直に声がかかったんだ。しくじりたくはないだろうな」
「ああ」
「だからこそ、変な手柄を狙うなよ。戦って戻らない調査隊じゃ、雇った方も困る」
その言葉に、俺は昨日読み返した任務の書面を思い出した。群れの進路と原因を確かめ、現地の軍へ知らせる。戦う必要があれば戦うが、目の前の敵を倒すことだけに気を取られれば、別の場所にある脅威を見逃す。ガレスは、その役目を忘れるなと言っているのだった。
「分かっている。隊の前は頼む。俺は中央から全体を見る」
ガレスは頷き、主隊の先頭へ馬を進めた。リゼたちが先行し、その姿が街道の向こうへ遠ざかった頃、俺たちも動き出す。ヴォルフガングは戸口に立ったまま、片手を上げた。俺も短く応じ、手綱を持ち直した。
街を出てしばらくは、商隊と何度もすれ違った。荷台に積まれた樽や穀物袋を見ていると、地図に引かれた道が何を運んでいるのか、よく分かる。北の街道が塞がれれば、ここを通る荷も減る。黒鳶亭へ届く食糧や、団員たちが買う矢の値にも響くだろう。山で起きていることは、まだ見えないだけで、すでに俺たちの生活と繋がっていた。
道の先を確かめに行っていたリゼが戻ったのは、家並みが途切れ、畑が広がり始めた辺りだった。先の分岐まで異常がないことを報告すると、彼女は馬の速度を落とし、俺の隣に並んだ。
「ねえ。今回も、エルデシアが関わってると思う?」
「まだ分からない。山で何が起きているかを見てからだ」
「そうね。……あんた、団に入る前も、王国との関わりを気にしてたでしょう。今回の話、嫌じゃなかったのかと思って」
何気ない口調だったが、こちらを見る目には気遣いがあった。俺の過去を知って尋ねているわけではない。これまでに口にした言葉や、王国の話を聞く時の顔を覚えていたのだろう。俺は前を進む隊列へ視線を戻し、どう答えるかを少し考えた。
「王国のために働くつもりはない。だが、この土地に被害が出るなら、放っておく理由もないだろう」
「それで、引き受けたのね」
「ああ。俺が決めた」
リゼは頷き、それ以上は尋ねなかった。やがて前の団員が振り返って手を上げると、次の道を確かめてくると言い残し、馬を進めていった。追い越される際、荷駄を引く若い団員が道を空ける。鍛錬場で合わせた動きが、そのまま街道でもできているのを見て、俺は小さく息を吐いた。
遠く、北の空に山並みが霞んでいた。グリセル山脈の麓で、何が魔物を動かしているのか。前の生の記憶を辿っても、答えは出ない。だが、分からないまま進む仕事なら、これまでにも幾度となくあった。地図を確かめ、先を調べ、必要なところで剣を抜く。経験が役に立つのは、知っている未来をなぞる時だけではないはずだ。
俺は一度後ろを振り返り、最後尾まで隊列が続いていることを確かめた。ガレスに教わった顔も、鍛錬場で剣を見た顔も、この中にある。山へ連れていき、仕事を果たし、また黒鳶亭へ連れ帰る。引き受けた責任を思い浮かべながら、俺は馬を北へ進めた。
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