第十一話 剣聖、黒き竜を断つ
グリセル山脈の麓に辿り着いたのは、出立から四日目の夕刻だった。切り立った岩肌の下に針葉樹の森が広がり、谷から吹き下ろす風が外套の隙間へ入り込んでくる。街道沿いには刈り入れ途中の畑が残されていたが、人の姿はない。村へ通じる道には縄が張られ、公国軍の兵が通行人を砦へ誘導していた。
俺たちはまず砦に入り、ヴォルフガングから預かった書状を守備隊の指揮官へ渡した。兵舎の前には避難してきた住民の荷車が並び、炊き出しの煙が上がっている。
魔物がまだ来ていないからと、誰もが普段通りに暮らしていたわけではなかった。馬を預けている間にも、山へ出ていた斥候が戻り、泥のついた地図を抱えて詰所へ駆け込んでいった。
最新の報告では、群れは複数の谷に分かれながら南下を続けていた。麓へ出てきた小群は防いでいるものの、山中で確認された数には遠く及ばない。どの谷へ大群が下りてくるか、まだ絞れていないのだという。俺は地図を広げてもらい、斥候が最後に魔物を見た場所と、現在の防衛線を確かめた。
「今日は近くの尾根だけを見る。日が落ちるまでには戻る」
ガレスにそう伝え、俺はリゼと砦を出た。残る団員には装備の点検と、翌朝の支度を任せてある。四日間の移動を終えたばかりだ。夕闇の山へ全員を連れ込み、道も分からない場所で疲れさせるつもりはなかった。
「思ったより静かね」
林へ入ると、リゼが声を落とした。足元の松葉が靴の下で乾いた音を立てる。砦では途切れなかった人の声が、ここでは聞こえない。鳥の声も少なかった。俺たちは足を止めて風の向きを確かめ、斥候から教わった細道を進んだ。
最初に死骸を見つけたのは、リゼだった。倒木の向こうを指差し、身を低くして近づいていく。斜面の窪みに、角の折れた鹿や、小型の翼を持つ魔物が折り重なっていた。踏み潰された腹、ねじれた脚。地面には幾種類もの足跡が重なり、南へ続く下草が帯のように倒れている。
「群れに巻き込まれたのね。小さいのは、踏まれてる」
俺は一体の死骸の前で膝をついた。脇腹が大きく焼け、肉の表面が黒く縮れている。踏まれた傷とは違った。その周りには、火の粉を散らしたような焦げ跡が続いていたが、少し離れた枯れ枝は燃え残っていた。森全体が火事になったのではなく、狭い範囲へ強い熱が浴びせられたらしい。
「火を吐く魔物か、魔術か」
「逃げ遅れたところを焼かれたの?」
「その可能性はある。だが、ここだけでは決められない」
リゼが死骸の位置を地図へ記している間に、俺は斜面の上を見た。焼けた木の向こうにも足跡は続いている。追っていきたいが、谷底はもう薄暗かった。傷跡と群れの進んだ方向を確かめ、俺たちは来た道を引き返した。
※ ※ ※
砦へ戻ると、ガレスたちが中庭の隅に寝場所を整えていた。
公国軍の連絡役も呼び、見つけた痕跡を地図に書き込む。群れが通った方向、焼けた死骸の位置、踏み荒らされた道の幅。分かったことを順に伝えると、連絡役は南側の守備兵へ知らせるため、詰所へ戻っていった。
「明日は、この尾根を使って奥を見る」
俺は群れの通った谷から少し外れた道を指で辿った。地元の斥候によれば、途中に古い見張り小屋があり、そこまでは馬を連れていけるらしい。
ガレスには小屋を足場に隊をまとめてもらい、俺とリゼが更に先へ進む。要所には連絡役を残し、砦への道も確保するつもりだった。
「奥へ行くなら、戻る道を先に見ておけよ」
ガレスは地図の谷筋を見比べながら言った。小屋へ魔物が近づいた場合には、俺の帰りを待たず、彼の判断で隊を動かしてもらう。
合流する場所と、連絡が途絶えた場合の動きを相談して決めると、ガレスはようやく地図から手を離した。
「分かった。こっちは足場を固めておく。魔物を見つけたからって、追いかけ回すなよ」
「ああ、追われている原因を探す。群れの後ろを確かめたい」
その夜、俺は炊き出しの火の傍で、剣帯の緩んだ糸を締め直していた。砦の門を兵が行き来するたび、金具の擦れる音がする。
山が静かだった分、ここで交わされる短い報告や、荷を下ろす物音がよく耳に残った。俺たちが持ち帰った地図は、すでにこの砦の仕事に使われ始めている。
魔物を追い立てて兵を動かし、守りが薄くなった場所へ別の部隊を入れる。魔王軍が使ったことのある手だった。だが、焼けた死骸だけで、その作戦が行われているとは言えない。山に火を吐く魔物が現れ、ほかの獣を追い散らしているだけかもしれなかった。俺は剣帯を引いて縫い目を確かめ、明日見るべきものを頭の中で絞った。
※ ※ ※
翌朝、俺たちは夜明けとともに砦を出た。古い見張り小屋に馬と荷を置き、ガレスへ留守を任せて山へ入る。連絡役の二人には、先の尾根へ上がってもらった。そこからなら小屋側へ旗を送れるし、俺たちが進む斜面も見渡せる。リゼは目印になる岩の形を覚え、何度か振り返りながら歩いていた。
奥へ進むほど、群れの通った跡ははっきりしてきた。
土の露出した斜面を、削れた足跡が幾筋も横切っている。岩の間に挟まって死んだ魔物もいた。焼けた死骸は、谷の北側へ向かうほど増えていたが、同じ場所に長く留まって争った様子はない。何かに襲われ、そのまま逃げ続けているように見えた。
砦を出てから半日ほどが過ぎた頃、靴底から細かな振動が伝わってきた。俺は手を上げてリゼを止め、谷を見下ろせる岩陰へ寄った。遠くで鳴っていた低い音が、足で地面を叩く音だと分かるまで、さほど時間はかからなかった。
谷を、魔物が埋めていた。
肩をぶつけ合い、倒れた個体を踏み越えながら、南へ押し寄せていく。木々の向こうにも列は続き、最後尾が見えない。
千という報告より多そうだったが、ここから正確に数えることはできなかった。リゼが息を詰め、来た方角を振り返る。
「この谷、下の防衛線へ繋がってる」
「ああ。知らせる必要がある」
言い終わる前に、群れの奥で黒い火が上がった。逃げ遅れた魔物が炎に呑まれ、周囲の個体がいっそう激しく前へ押し出される。
その後ろから、十数メートルはあろうかという巨体が姿を現した。漆黒の鱗。地面を抉る四肢。首を振るたび、牙の隙間から火の粉が零れた。
竜に似た魔物だった。だが、その額に刻まれた紋様を見た瞬間、俺の目は鱗から離れた。角の根元を縫うように伸びる線と、中央で幾重にも重なる輪。前の生で、魔王軍が使役していた魔物に見た刻印だった。
「あの額の印は、隷属の刻印だ。魔王軍が使っている」
リゼが顔をこちらへ向けた。俺は岩陰から、もう一度巨体を見た。竜は目の前の魔物を食うでもなく、横へ逃げようとした一団へ火を吐いている。焼かれた群れが向きを変え、谷の下へ押し戻された。闇雲に暴れているだけではない。少なくとも今は、逃げる先を一方へ絞るように動いていた。
「あれが、群れを追い立てている」
「すぐに戻りましょう。ガレスたちにも、砦にも知らせないと」
俺は南へ続く谷を見下ろした。狭くなる出口の向こうは、麓へ下る道だ。
このまま竜まで下りれば、兵が群れを防いでいるところへ、あの火が浴びせられる。砦へ知らせることは必要だった。だが、返事を待ってから引き返したのでは、ここで止められる相手をわざわざ防衛線へ通すことになる。
「リゼ、連絡役のところへ戻れ。群れの進路と、竜がいることを伝えてくれ。ガレスには谷へ下りず、尾根を押さえるように」
「あんたは?」
「あれを止める。追い立てる奴がいなくなれば、少なくとも、後ろから群れを押し出されることはなくなる」
リゼはすぐには頷かなかった。岩陰から覗く横顔に、黒い火の明かりがかすかに映る。俺は谷の西側を指差した。群れが通る場所より一段高く、岩場が最後尾の近くまで続いている。
「あそこから後ろへ回る。お前たちは群れと戦わなくていい。軍へ知らせてくれ」
「……戻る時は、こっちの尾根よ。忘れないで」
俺が頷くと、リゼは身を低くして来た道を戻った。彼女が岩の陰へ消えるまで見届け、俺は剣を抜いた。刀身へ魔力を通す。調査の先で戦うと決めたのは俺だ。その判断がどういうものだったかは、戻ってから自分の口で話す。
※ ※ ※
岩場を駆け抜け、群れの後方へ向けて斜面を下りた。途中でこちらに気づいた魔物が、牙を剥いて飛びかかってくる。踏み込みながら一閃すると、細い首と前脚がまとめて宙へ跳ねた。倒れる身体を越え、次の一歩で別の個体の胸を貫く。足を止める理由にはならなかった。
谷底へ近づくと、逃げ場を求めて斜面を上ろうとする魔物まで入り混じった。右から爪が伸び、左では大きな角が振り下ろされる。
連携して挟み込もうとしているのではない。それぞれが目の前の邪魔なものを殺して、先へ進もうとしていた。俺は角の下を抜け、首を斬り上げた。その身体が倒れ込む隙間へ入り、こちらを追う牙を背後に置き去りにした。
同時に届く攻撃は、数に限りがある。群れの全てを一度に相手にする必要はなかった。足場を選び、斬った相手がどちらへ倒れるかまで見て進む。
魔物が重なって道を塞ぐ前に、その脇を抜けた。前の生で何度も潜り抜けた乱戦に比べれば、刃を入れる隙は幾らでもあった。
百体は斬っただろうか。返り血を浴びた肩越しに、黒い巨体がこちらを向いた。竜の目が、逃げる群れから俺へ移る。額の刻印が赤く脈打ち、巨体が踏み出した。足元の魔物が踏み潰され、その音に怯えた群れが左右へ割れた。
尾が、地面すれすれを薙いだ。
俺は跳び越え、西側の岩場へ着地した。追ってきた竜の喉が膨らむ。開いた顎の奥に火が見えた瞬間、横へ踏み切った。黒い炎が直前までいた岩を包み、表面を赤く焼く。熱が外套の端を舐めたが、身体には届かなかった。
狙いはこちらへ移っている。俺は群れから更に離れるように走り、岩壁を背にして足を止めた。竜が首を低くし、前脚を振り上げる。爪の向きと肩の沈み方を見れば、どこへ叩きつけるつもりかは分かった。狙われた場所から半歩外れ、地面が砕けるのと同時に、伸びた前脚の内側へ踏み込んだ。
下から見上げると、鱗の継ぎ目が首の付け根へ続いている。普通の刃なら、そこへ差し込むだけでも難しいだろう。俺は柄を握り直し、刀身に通していた魔力を一気に強めた。刃の輪郭が白く光り、降りかかる石の破片が、その光の中で砕けた。
「終わりだ」
地を蹴り、持ち上がった首へ斬撃を叩き込んだ。
鱗を割る感触は一瞬だった。肉と骨を断ち、剣先が首の向こうへ抜ける。開きかけた顎から炎が漏れたが、こちらへ吐きつけられることはなかった。切り離された頭が岩へ落ち、遅れて胴が横倒しになる。足元を揺らす衝撃を膝で受け流し、俺は巨体から距離を取った。
首を失った身体が数度痙攣し、やがて動かなくなった。額の刻印からも光が消えていく。俺は頭と胴を見比べ、もう動かないことを確かめてから、谷の下へ顔を向けた。
魔物は、まだ走っていた。
後ろから火を浴びせる存在が消えても、すでに勢いのついた群れが、その場で止まるわけではない。
横の斜面へ逃げるものも増えたが、南へ走り続ける個体も多かった。散ったから安全になったなどと考えて、ここを離れるわけにはいかなかった。
俺は谷が狭まる場所へ走った。通過しようとする大きな個体を先に斬り、倒れた身体を避けるために後続が足を緩めたところへ入る。
飛び越えてきた魔物は空中で断ち、岩の間を抜けようとしたものには切っ先を届かせた。背後から新たな群れを押し込む竜は、もういない。しばらく斬り続けるうち、途切れなかった足音に、少しずつ間が空き始めた。
それでも、俺が下りる前に谷を抜けた群れまでは戻せない。麓の方から遠い角笛が響き、続いて、兵の喊声が聞こえた。リゼたちの知らせが間に合っていれば、あちらも進路を絞って迎えられるはずだった。俺は次に迫ってきた魔物を斬り伏せ、谷の出口を渡さないことに集中した。
※ ※ ※
ガレスたちと合流できたのは、谷を駆け下りてくる魔物の姿がまばらになってからだった。連絡を受けた彼らは尾根を伝って近づき、こちらの合図を待っていたという。リゼも一緒だった。岩場へ下りてくるなり、俺の肩から脚まで視線を走らせる。
「怪我は?」
「ない。返り血だ」
「そう。……なら、先に言ってよ」
短く息を吐いた彼女の横を、ガレスが通り過ぎた。切り離された竜の頭と、横倒しになった胴の間で足を止める。剣を抜くでもなく、しばらくその傷口を見ていた。あとから来た団員も同じ場所へ目を向け、誰からともなく足音が止まった。
「これを、一人でやったのか」
「追い立てていたのは、こいつだ」
「そういうことを聞いてるんじゃねえよ」
ガレスは首の切断面へ近づき、割れた鱗の厚みを指で示した。隣にいた団員が自分の槍を見下ろし、何も言わずに握り直す。
「周囲の警戒を頼む。谷を抜けた群れの状況も聞きたい」
俺が言うと、ガレスは顔を上げた。団員を二人ずつ振り分け、尾根と谷の下へ目を配らせる。警戒が行き渡ったのを確かめ、俺は刃の血を拭って剣を鞘へ戻した。
リゼは連絡役に渡した内容を報告してくれた。群れの進路と、火を吐く竜の存在。ガレスが砦へ伝令を走らせ、公国軍はこの谷の出口へ兵を回したらしい。ただし、麓の戦いがすべて終わったかどうかは、まだ分からなかった。
俺たちは竜の頭部へ戻り、額の刻印を調べた。表面に塗られただけの印ではなく、鱗と、その下の肉にまで線が刻まれている。リゼが紙へ形を写す間、俺は焼け残った線を指し示した。首を断ったことで額の紋様は残っていた。持ち帰る記録としては、こちらの記憶だけで説明するより役に立つ。
「これが、あんたの言っていた刻印なのね」
「ああ。砦の術者にも見てもらう。死骸は、軍に場所を伝えて保全してもらおう」
「魔王軍が、群れを麓へ向かわせていたってこと?」
「竜が使役されていたことと、実際に群れを追っていたことは報告できる。誰がどこから連れてきたかは、まだ分からない」
公国の守備兵を山側へ集めるためだったのか。それとも、この竜と群れだけで麓を押し潰すつもりだったのか。
刻印から、そこまで読み取れるわけではない。王国の南方戦線との繋がりも、竜の来た道を調べなければ分からなかった。俺は報告に書くべきことと、見立てに留めることを分けながら、周囲に人の足跡がないかを探した。
日が傾く前に、公国軍の兵が谷へ上がってきた。麓では到達した群れを食い止めているが、脇の林へ散った魔物が残っているという。俺たちは死骸と刻印を引き継ぎ、見張り小屋へ戻る道でも、街道側へ出ようとする魔物を討った。竜を倒した一撃より、その後の確認と移動の方が長くかかった。
砦へ戻ってからも、すぐに帰途へは就かなかった。守備隊の指揮官へ経過を伝え、翌日は周辺に残った群れの掃討を手伝った。
軍の術者からは、記録にある魔王軍の隷属術と刻印の特徴が一致するとの返答があった。現地での検分も進めるという。俺は写しと地図に、自分が見た竜の動きを書き添えた。
公爵家への急報は、砦から早馬で送られることになった。ヴォルフガングにも写しを届ける。俺が調査の途中で竜の討伐へ踏み切った理由も、報告から省かなかった。ガレスたちをどこに残し、何をリゼに託し、どの時点で剣を抜いたのか。結果だけを伝えれば済む立場ではないことは、引き受ける時から分かっていた。
やがて、少なくとも調べた谷では、新たに大群が下りてくる動きが途絶えた。周辺の見張りと、山の奥へ続く痕跡の調査は公国軍が引き継ぐ。残る魔物への警戒は必要だったが、兵が持ち場を固め、こちらの報告を受け取ったのを確かめて、俺たちは帰還することになった。
山道を下りながら、ガレスが馬を寄せてきた。しばらく黙って俺の腰の剣を見ていたが、やがて呆れたように笑う。
「あんたみたいなのが、なんでうちに流れてきたんだろうな」
「巡り合わせだ」
「そいつには感謝しなきゃならんな。団長も、あの報告を読んだら目を剥くぞ」
荷駄には、書面と刻印の写しが包んである。話が公爵家へ届けば、蒼鷹に向けられる目も変わるだろう。俺一人の名前が広まることにも、今まで以上に気を配る必要があった。目立つことへの用心がなくなったわけではない。それでも、あの谷で竜を見送ればよかったとは思わなかった。
「仕事が増えるかもしれんな」
ガレスが言った。俺は前を進む団員たちを見た。リゼが道の先を確かめに出て、別の団員が荷紐の緩みを知らせている。往路と同じ顔が、同じ隊列の中にあった。
「受けるかどうかは、戻ってから相談すればいい」
「違いない」
ガレスは笑って、主隊の先頭へ戻っていった。山から吹いてくる風はまだ冷たかったが、行きよりも日差しが暖かく感じられた。俺は手綱を持ち直し、仲間たちの馬に歩調を合わせた。黒鳶亭へ帰れば、まず報告をして、それから温かい飯を食う。今回の仕事を終えた後にしたいことが、それくらいはっきりしているのが、今はありがたかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
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