第十二話 剣聖、公国に名を刻む
アーレンハイムに帰還してから三日後、俺たちは再び黒鳶亭に呼び出された。応接間には、あの時と同じヨハン・ライナーの姿があったが、以前とは違い、その表情には隠しきれない緊張が滲んでいた。窓の外に広がる空は、あの日と同じように澄み渡っていたが、部屋の中に流れる空気はまるで違うものだった。
「まず、此度の任務、見事な成果に感謝申し上げます。魔王軍の意志を宿した個体の討伐、並びに背後関係の解明。公爵閣下も、報告書に目を通されて大層驚いておいででした」
「予想以上に厄介な相手だったが、何とか片付けられた」
ヴォルフガングが応じると、ヨハンは深く頷いた。
「実は本日、もう一つお伝えしたいことがございます。此度の一件を受け、公爵閣下は国境防衛体制の抜本的な見直しをお考えです。その中で、貴団を公国軍とは別枠の『特別警備部隊』として正式に登録し、然るべき権限と予算を与えたいとのご意向です」
その言葉に、部屋の空気が一気に色めき立った。ヴォルフガングでさえ、驚きを隠しきれない様子で身を乗り出していた。
「それは……つまり、うちの団を公国の公的な組織として認めるということか」
「その通りです。無論、完全な軍属ではなく、あくまで独立した契約組織としての立場は維持されます。ですが、これまでとは比較にならないほどの支援と発言力を得ることになるでしょう」
「具体的には、どのような権限が付与されるのだ」
「国境地帯における独自の索敵権限、緊急時における公国軍施設の利用許可、そして何より、公爵閣下直属の相談窓口としての立場です。魔王軍絡みの脅威が確認された場合、貴団は真っ先に情報を得られるようになります」
ヨハンの説明を聞きながら、俺は密かに感慨を覚えていた。半年前まで、名も知られていない一介の傭兵に過ぎなかったこの俺が、こうして国家の防衛体制の一角を担う組織の中心にいる。誰かに与えられた地位ではなく、自分たちの実力だけで勝ち取った立場だ。剣聖という称号を戴いていた頃には、決して味わうことのなかった種類の達成感が、胸の奥にじんわりと広がっていくのを感じた。
「団長の判断に従う」
俺がそう告げると、ヴォルフガングは満足げに頷いた。
「よし。ヨハン殿、有難い話だ。謹んでお受けしよう」
※
正式な認可が下りるまでには、更に数週間を要した。その間、俺たちは通常の依頼をこなしながらも、団の体制を整えるための準備に追われることになった。新たな団員の募集、装備の増強、公国軍との連携訓練。組織が大きくなるということは、それだけ多くの調整と労力を必要とするということを、俺はこの数週間で身をもって学んでいた。
副官という立場上、俺自身もこうした準備の一端を担うことになった。新規団員の面接、装備調達の交渉、更には公国軍との合同訓練の日程調整。剣を振るう以外の仕事に忙殺される日々は、これまでの俺にとっては未知の領域だった。だが、こうした地道な積み重ねの一つ一つが、団の基盤をより強固なものにしていくのだということを、俺は肌で感じ取っていた。剣の腕だけでは測れない種類の力量が、組織を動かす上では確かに必要とされているのだ。
ある日の夕刻、依頼から戻った俺は、ギルドの酒場でミレイユから思いがけない話を聞かされた。
「聞いた? あんたのところの傭兵団、正式に公国の特別警備部隊になったんだって? 街中じゃ、その噂で持ちきりよ」
「耳が早いな」
「そりゃそうよ。これだけ大きな話、隠しておける方が難しいわ。それにしても、あんたがここに流れてきた時は、まさかこんなことになるなんて思ってもみなかったわね」
ミレイユの言葉には、素直な驚きと、それを上回る祝福の色が滲んでいた。半年前、名も知らぬ流れの傭兵として登録に訪れた俺のことを、彼女はよく覚えているのだろう。
「あの頃のあんた、本当に何も持ってなかったものね。装備も最低限、身分証も怪しいものだったし」
「今もそう変わらない」
「いいえ、全然違うわよ。今のあんたは、公国のお偉方から直々に声がかかるような立場になったんだから」
ミレイユはカウンターを拭きながら、どこか誇らしげな口調で続けた。この街のギルドで、俺を最初に迎え入れてくれた彼女にとっても、この変化は感慨深いものなのかもしれなかった。
「感慨深いか」
「そりゃそうよ。この街で、ゼロから成り上がっていく人間を見るのは、そう頻繁にあることじゃないもの」
ゼロから成り上がる、か。その表現は、俺の現状を的確に言い表しているように思えた。王国から一方的に与えられていた地位や称号とは違い、この公国で築き上げてきたものは、全て自分自身の手で勝ち取ってきたものだ。その事実が、今更ながらに胸に重みを持って迫ってくる。
※ ※ ※
特別警備部隊としての正式な発足式典が執り行われたのは、それから半月後のことだった。
公爵家の紋章を掲げた式典会場には、公国軍の高官や、公国内の有力な商人たちが多数列席していた。
会場を彩る旗や垂れ幕には、蒼鷹傭兵団の紋章と公爵家の紋章が並んで掲げられており、この団がいかに公国内で重視されるようになったかを、視覚的にも如実に物語っていた。
「まさか、こんな大掛かりな式典になるとはな」
式典の合間、ガレスが呆れたように呟いた。かつては辺境の小さな傭兵団に過ぎなかった蒼鷹傭兵団が、今やこれほどの規模の式典で祝われる存在になっている。この団の変遷を古くから見てきたガレスにとって、感慨もひとしおなのだろう。
「俺がこの団に入った頃は、団員も三十人そこそこだった。それが今じゃ、公爵家の紋章と並んで祝われるような組織になっちまった」
「それだけの実績を積み重ねてきたということだろう」
「あんたが来る前から、団長は着実に地盤を固めてきたさ。だが、ここまでの飛躍を遂げたのは、間違いなくこの半年のことだ」
「これも、あんたが来てからの変化だな」
「俺一人の力じゃない。団員全員の積み重ねだ」
「相変わらず謙虚なことだ。だが、あんたが来る前と後じゃ、団の勢いがまるで違う。それは誰の目にも明らかなことだぜ」
ガレスの言葉に、俺は特に反論しなかった。事実として、この数か月で団の状況は大きく変わった。だが、それは俺一人の功績というよりも、実力主義という土台の上に、それぞれが自分の役割を全うしてきた結果だと、俺は思っていた。
式典の壇上で、ヴォルフガングが公爵家からの正式な認可状を受け取る場面を、俺は少し離れた場所から見守っていた。誇らしげに認可状を掲げるヴォルフガングの姿に、集まった団員たちから歓声が上がる。
かつて食い詰め者や枠組みから弾き出された者たちの寄せ集めだったこの団が、こうして公の場で認められる瞬間を、誰もが待ち望んでいたのだろう。
誰かに命じられて剣を振るうのではなく、自分たちの実力で築き上げてきた組織が、こうして公に認められていく。
この光景を目にしながら、俺は改めて、この道を選んだことへの確信を深めていた。剣聖という称号を戴いていた頃、俺の周りに集まっていた栄誉や称賛は、常に王家という後ろ盾があってこそのものだった。
だが今、目の前で繰り広げられているこの祝福は、誰かの後ろ盾によるものではなく、この団自身が積み重ねてきた実績への、正当な評価に他ならない。
※ ※ ※
式典の後、俺は宿の部屋で一人、この数か月の出来事を振り返っていた。エルデシア王国を見限り、この地に流れ着いてから、まだ一年にも満たない。それだというのに、俺の周囲の状況は目まぐるしく変わり続けている。
窓の外を眺めながら、俺はふと、遠く離れたあの国のことを思い出していた。あの国は今頃、どんな状況にあるのだろうか。魔王軍の南方戦線での消耗、それに加えて、公国相手の不正工作の露見。あの国が抱える問題は、時を追うごとに増えていっているはずだ。
旅の商人から漏れ聞いた話では、王都では近頃、更なる混乱が広がっているという。第三騎士団の一件で失脚した貴族の派閥争いが激化し、宮廷内での権力争いは以前にも増して熾烈さを増しているらしい。
バルドー・エッシェンハイムの立場も、以前ほど盤石なものではなくなっているという噂も耳にした。かつて俺を陥れるために暗躍していたあの男が、今度は自分自身の保身のために、周囲の全てを敵に回しつつある。因果応報という言葉が、これほどしっくりくる状況もないだろう。
商人の話によれば、王国内では既に、増税や徴兵の強化といった、民に負担を強いる政策が次々と打ち出されているという。魔王軍との戦を支えるための財源確保という名目だが、実際には宮廷内の権力争いに費やされる資金も少なくないという噂だった。かつて俺が命を賭して守ろうとした民草が、今はそうした政争の煽りを受けて苦しんでいるのだとすれば、皮肉としか言いようがない話だった。
だが、それに対して俺が何かを感じることはあっても、何かをしてやろうという気持ちは微塵も湧いてこなかった。あの国の混乱は、あの国自身が招いた結果だ。俺が肩代わりしてやる義理は、もうどこにも残っていない。
むしろ、俺の意識は完全に、この公国での未来へと向かっていた。特別警備部隊としての立場を得たことで、俺たちの活動範囲と裁量は大きく広がることになる。この先、どのような依頼が舞い込んでくるにせよ、俺はこの場所で、俺自身の物語を積み重ねていくつもりだった。
剣聖という称号を戴いていた頃、俺は常に誰かの期待と、誰かの都合の狭間で剣を振るってきた。だが今は違う。この蒼鷹傭兵団という組織で得た地位は、誰かに与えられたものではなく、自分の意志と実力だけで勝ち取ったものだ。その事実こそが、俺にとって何よりの誇りだった。
夜が更けていく中、俺は窓辺に腰掛けたまま、これから先の展望に思いを馳せていた。特別警備部隊という新しい看板を得たことで、俺たちが対処すべき問題の規模も、より一層大きなものになっていくだろう。だが、その先にどんな困難が待ち受けていようとも、この道を歩み続ける決意に、揺らぎはなかった。
ふと、部屋の扉を叩く音が響いた。開けると、そこにはリゼが立っていた。
「まだ起きてたのね」
「少し考え事をしていた」
「式典の後の宴、抜け出してきたの? みんな探してたわよ」
「少し、一人になりたかっただけだ」
リゼは部屋の中に軽く視線を巡らせると、窓辺に置かれた椅子に勝手に腰を下ろした。
「考え事、って何を?」
「これから先のことを、少しな」
「団のこと? それとも、あんた自身のこと?」
リゼの問いに、俺はしばらく考えを巡らせた。
「両方だ。この団がどこまで大きくなっていくのか、そして俺自身がこの先どこへ向かうべきなのか。まだ、明確な答えは出ていない」
「まあ、焦る必要はないでしょ。あんたはまだ、この街に来てから一年も経ってないんだから。これから先、いくらでも時間はあるわ」
リゼの言葉には、単なる慰めを超えた、確かな実感がこもっているように聞こえた。この街で、この団で過ごしてきた日々を振り返れば、確かにまだ始まったばかりの物語なのかもしれない。剣聖として過ごした十年間の重みに比べれば、今の俺が積み上げてきたものは、まだほんの入り口に過ぎないのだろう。だが、それでも一歩一歩、確実に前へと進んでいる実感だけは、確かにあった。
「そういうお前は、これから先どうするつもりなんだ」
俺が問い返すと、リゼは少し意外そうな顔をした後、窓の外に視線を移した。
「私? そうね……斥候としての腕をもっと磨いて、いずれはこの団の情報部門をまとめる立場になりたいとは思ってる。団長みたいに前線に立つタイプじゃないから、裏方で団を支える方が性に合ってるのよね」
「悪くない目標だ」
「でしょ? まあ、あんたと比べたら地味な話だけどね」
リゼは自嘲気味にそう言うと、椅子から立ち上がった。
「そろそろ宴に戻るわ。あんたも、あんまり根を詰めすぎないようにね」
「分かった」
リゼが部屋を出ていった後、俺はしばらくの間、一人で窓の外を眺め続けていた。この街に流れ着いてから今日まで、実に様々な出会いと出来事があった。リゼ、ガレス、ヴォルフガング、ミレイユ。それぞれが、この新しい人生における確かな彩りとなっている。剣聖として孤高に戦い続けていたあの十年間には、決して得られなかったものだった。
窓の外では、式典の余韻を残す街の灯りが、いつもより煌びやかに揺れていた。遠くから、まだ宴の喧騒が微かに聞こえてくる。この街の誰もが、蒼鷹傭兵団の新たな門出を祝っているのだろう。半年前、ただ一人の流れ者としてこの街に足を踏み入れた時には、想像もしなかった光景だった。
俺は椅子から立ち上がり、壁に掛けた剣を手に取った。この剣と共に歩んできた道のりは、まだ始まったばかりだ。剣聖という重すぎる看板を捨てて選んだこの道が、正しかったのかどうか、その答えはまだ出ていない。だが、少なくとも今この瞬間、俺は確かな手応えと共に、次の一歩を踏み出そうとしていた。
特別警備部隊という新しい立場、そしてこの団と共に築いていく未来。それらの先にどんな困難が待ち受けていようとも、俺はもう、あの断頭台で終わった人生のような結末を迎えるつもりはなかった。今度こそ、自分自身の意志で選んだ道を、最後まで歩み抜いてみせる。
窓辺に差し込む月明かりを浴びながら、俺はそう静かに心に誓った。
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