第二話 剣聖、王都を捨てる
王都を出るまでの間、俺は余計な人目を引かないよう気を配った。朝の人出が増える前に宿を発ち、人通りの少ない裏路地を選んで歩いた。まだこの時代の俺は、剣聖どころか、名も知られていない一介の傭兵に過ぎない。だが、記憶にある未来の知識と、この身に宿った十年分の技量を持ったまま人前に出れば、いずれ誰かの目に留まることは避けられないだろう。バルドーのような男に目を付けられるのは、それこそ二度目の破滅への近道だ。
安宿を引き払う際、女将が怪訝そうな顔で俺を見た。
「兄さん、随分と急な話じゃないか。宿代はまだ三日分残ってるよ」
「気にしなくていい。行く当てができたんだ」
返金は求めず、俺は荷袋を担ぎ直した。女将は戸口まで見送りに来て、道中で腹を壊すなよ、と声をかけた。行き先も、急ぐ理由も尋ねなかった。その気軽な別れに救われて、俺は一度だけ振り返り、片手を上げた。今の俺にあるのは、僅かな路銀と古い剣、それに十年分の経験だけだ。失うことを恐れるほどの財産がないのは、旅立つには都合がよかった。
王都の門をくぐりながら、俺は自分の記憶を整理し直していた。今から二ヶ月もしないうちに、魔王軍は南方戦線で大規模な侵攻を開始する。エルデシア王国の穀倉地帯であるヴェルダ平原が焼き払われ、数万人が餓死する寸前まで追い込まれる大災害だ。前回の俺は、その報を聞くやいなや単身で戦場に駆けつけ、魔王軍の将の一人を討ち取ることで侵攻を食い止めた。それが「剣聖」という称号を得る最初のきっかけだった。
だが今度は、行かない。
門の外へ出ると、街道は幾つかの方角に分かれていた。南へ向かう荷馬車の列を見送った拍子に、ヴェルダ平原で炎に包まれた村々が蘇った。あの時、間に合わなければ、あの村も焼けていた。そう思った家の軒先まで覚えている。俺は目を伏せ、剣帯の位置を直すふりをして、荷馬車が遠ざかるのを待った。
助けて、称えられて、利用されて、最後には切り捨てられる。その道へ戻るのが、恐ろしかった。ヴェルダ平原の民には悪いが、王国が自分の力でどうにかするべき問題だ。かつての俺が命を懸けて守ろうとしたものを、今度は見捨てる。そう決めたはずなのに、この胸の痛みだけはどうにも消えてくれなかった。
俺は王都から南西へ、隣国クロムトリア公国の方角へと歩みを進めることにした。エルデシア王国内に留まる限り、いずれヴェルダ平原の一件に巻き込まれかねない。ならば、国そのものから距離を置くのが最も確実だ。幸い、この時代の俺はまだ何者でもない。国境を越えることに、何の障害もなかった。
歩き始めてしばらくすると、背後の城壁が木立に隠れた。軍の使者が追ってくる気配も、行軍を急かす号令もない。道端で荷紐を結び直しても、誰かを待たせる心配はなかった。気がつけば、肩から力が抜けていた。腹が減れば休み、暗くなれば宿を探す。その程度のことを自分で決められるだけで、道はずっと歩きやすくなった。
街道を三日ほど歩き続けた頃、俺はクロムトリア公国の玄関口にあたる自由都市アーレンハイムに辿り着いた。エルデシア王国とは違い、この街は特定の国家に属さない自治都市で、様々な種族と国籍の人間が入り乱れる商業都市として栄えていた。ここまで来れば、俺の顔を知る者はそういないだろう。王家の命令だけで人を捕らえられる土地でもない。
石畳の大通りには、荷車が何台も連なっていた。隙間を抜ける行商人が肩の籠を揺らし、店先では釣り銭を巡って笑い声交じりの口論が起きている。以前この街を訪れたのは、任務で通り過ぎた僅かな間だけだった。道順を確かめるのに忙しく、脇の店に何が並んでいたのかさえ覚えていない。今度は足を止めても、咎める者はいなかった。
大通りの露店では、色とりどりの香辛料や見慣れぬ果物が並び、様々な言語が飛び交っていた。エルフの行商人が獣人の子供と値切り交渉をしている光景など、王都では決して見られなかったものだ。国境の垣根がなく、種族も国籍も関係なく人々が行き交うこの街の空気は、俺にとってひどく新鮮に感じられた。誰も俺の過去を知らず、誰も俺に何かを期待していない。それだけで、肩に乗っていた見えない重荷が少しだけ軽くなったような気がした。
冒険者ギルドの看板を見つけ、俺は迷わずその扉をくぐった。木造りの広間には、鎧姿の冒険者たちが数人たむろしており、酒精の匂いと汗の匂いが入り混じっていた。受付には、赤髪の若い女性が座っている。
「登録かい? 仕事探しなら、先に名前を聞かせてもらえる?」
「ユリウスだ。手っ取り早く稼げる依頼を探している」
受付嬢は俺の全身を一瞥し、値踏みするような目つきをした。装備は最低限、目立った武具も持っていない。おそらく彼女の目には、金に困った駆け出しの傭兵としか映っていないだろう。それで構わなかった。むしろ、そう見られる方が都合がいい。
「そうだねぇ、新人向けの依頼なら、街の外に出没してる角兎の間引きくらいかな。あとは、東の森に住み着いた盗賊団の討伐依頼もあるけど、これは新人にはお勧めしないよ。もう三パーティが返り討ちにあってる」
「その盗賊団の依頼を受ける」
受付嬢は目を丸くした。
「話、聞いてた? 三組続けて追い返されたんだよ。あんた一人で行くつもり?」
「問題ない」
俺が短く答えると、彼女はしばらく俺の顔をまじまじと見つめた後、諦めたようにため息をついて依頼書を差し出した。
「賞金の懸かった連中だから、討伐に参加する資格は問わないよ。ただ、報酬はギルドが現地を確認してからだ。それでも行くなら、引き際だけは間違えないでおくれ」
依頼書に記された報酬は、安宿ならしばらく暮らせる額だった。一度まとまった金を得れば、その後は目立たない依頼を選べる。俺は被害の出た街道と、おおよその人数を確かめてから、依頼書を折り畳んだ。力が残っていることは分かっていても、若返った身体での間合いは一度確かめておきたい。森までの道を教わり、俺はギルドを出た。
※ ※ ※
東の森へ入り、商隊が襲われた場所から足跡を追った。踏み荒らされた下草と、荷車の轍を辿るうち、半刻ほどで粗末な柵に囲まれた野営地が見えてきた。中には二十数人の男がいる。街道を見下ろす斜面に見張りを置き、柵の出入り口は二ヶ所に絞られていた。以前の討伐隊は、近づく間に気づかれたのだろう。
俺は木陰に身を伏せ、しばらく様子を窺った。中央の天幕から出てきた大柄な男が、酒樽に手を伸ばしていた部下を怒鳴りつけている。
「まだ開けるんじゃねえ。西に出した四人が戻ってからだ。日暮れまで待て」
右耳が半ば欠け、顎には斜めに傷が走っていた。依頼書に描かれていた頭目の特徴と合う。外へ出ている仲間が四人。そいつらの始末までつけなければ、この仕事は終わらない。
見張りの位置を確かめ、俺は剣の柄を握った。魔力を刃に通しながら、木陰を出る。
「誰だ、てめえ!」
入口の男が槍を突き出してきた。穂先を身の外へ逸らし、踏み込んで喉を斬る。男が崩れ落ちた時には、俺はもう柵の内側へ入っていた。
「敵だ! 囲め!」
怒号とともに、数人が武器を手に立ち上がった。振り下ろされた斧を半歩で躱し、伸びきった腕の下から胸を貫く。剣を引き抜く勢いのまま身を返し、背後へ回ろうとした男の首を斬った。
商隊の護衛を囲んで仕留めることには慣れているのだろう。前の者が押さえている間に、横や後ろへ回ろうとする動きには迷いがなかった。だが、その前衛が一太刀も持たないとなれば、話は別だ。
倒れた仲間を避けようとして足が止まる。その隙に、次の一人へ踏み込んだ。十年間、魔王軍の将たちと刃を交えてきた目には、誰がいつ斬りかかるか、構えだけで見当がつく。乱戦に付き合う必要はなかった。
頭目は部下の背後で剣を抜いたまま、じりじりと柵の裏口へ退いていた。俺がそちらへ向き直ると、逃げきれないと悟ったのか、叫び声を上げて斬りかかってくる。
刃を合わせると、相手の剣が大きく弾かれた。空いた胸元へ切っ先を突き込む。頭目は何か言おうとして口を開き、そのまま膝から崩れ落ちた。
裏口へ走った残りの男たちにも、追いつくまで数歩とかからなかった。柵を越えさせる前に斬り伏せる。最後の一人が倒れると、野営地から人の声が消えた。
剣を抜いたまま天幕と物置を調べ、潜んでいる者がいないことを確かめた。それから倒れた男たちを一人ずつ確認し、まだ息のある者には止めを刺した。
二十四人。
頭目の天幕には、奪った金の分配を記した帳面があった。直近の欄に並ぶ名は二十八人分。さっき聞いた四人が、まだ戻っていない。
俺は柵の入口を見渡せる木陰へ入り、待った。日が傾いてくると、森の奥から男たちの話し声が近づいてきた。槍を担いだ者が二人、剣を下げた者が二人。見張りの姿がないことに気づき、先頭の男が足を止める。
「おい、何が――」
声を上げるより先に、俺は木陰から踏み込んだ。先頭の男を斬り伏せ、振り向いた二人目の胸を貫く。残る二人は武器を構えたが、俺の刃を防ぐことはできなかった。
四人とも、息が絶えたことを確かめた。これで二十八人。帳面の人数とも一致する。俺は四人の遺体を野営地へ運んだ。
剣に付いた血を拭い、刃こぼれがないことを確かめて鞘へ戻した。魔力を解いても、指に震えは残っていない。若返った身体でも、踏み込む距離や力加減に狂いはなかった。これなら食うには困らない。
念のため、そのまま夜明けまで周囲を見張ったが、ほかに戻ってくる者はいなかった。木々の間が白み始めた頃、腰を下ろしていた倒木から立ち上がる。
この力で南へ向かえば、という考えが浮かんだ。
敵将を討つことも、バルドーのいる城へ乗り込むことも、今の俺ならできるだろう。だが、剣が届く相手を倒せば、それで国が救われるわけではない。魔王を討った後、俺を待っていたのが何だったか。忘れられるはずもなかった。
俺は首を振った。
「……関係ない話だ」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
頭目の天幕を改めて調べると、盗品を詰めた木箱の底から、蝋印のついた書状が見つかった。印はクロムトリア公国のものだ。徴税官の署名に、次回の上納額。余白には、指定された街道を夜間の巡察から外す旨が書かれている。商隊の積荷を書き出した紙と一緒に保管されていたことを考えれば、まともな税の取り決めではなさそうだった。
公国の役人が巡察を避けさせ、その間に盗賊が商隊を襲う。稼ぎの一部を役人へ戻せば、次も見逃してもらえる。そういう関係らしい。何度討伐に失敗しても周辺の警備が厚くならなかった理由も、これなら説明がつく。俺は書状を裏返し、差出人の印が掠れていないことを確かめた。
書状と添えられた紙を懐へ収めた。討伐が役人の不利益になるなら、後から俺に面倒が降りかかるかもしれない。その時、何も知らずに事情を聞かれる側へ回るのは御免だった。公国とこの街の関係も、その役人がどこまで手を伸ばせるのかも、まだ分からない。まずは持ち帰り、確かめるつもりだった。
※ ※ ※
街へ戻った俺は、ギルドの受付に分配帳と、頭目が持っていた紋章入りの短剣を置いた。
「東の森の件だ。二十八人討ち取った。野営地を確認してほしい」
受付嬢は俺の顔と、机の上の品を交互に見た。
「……たった一人で?」
「ああ。外へ出ていた四人も、戻ってきたところを仕留めた」
受付嬢は短剣を検め、台へ戻した。
「これだけじゃ、連中が死んだ証拠にはならないよ。盗品や仲間の持ち物なら、生きていたって持ち出せるからね」
「分かっている。案内する」
俺は野営地までの道順と、頭目の特徴、遺体の数を伝えた。受付嬢はそれを書き留め、奥の職員を呼んだ。
確認に出たのは、ギルドの調査員と街の衛兵たちだった。以前の討伐で逃げ帰った冒険者も一人、頭目の顔を確かめるために同行した。俺を先頭に立たせたまま、衛兵の一人はしばらく剣の柄から手を離さなかった。昨日登録したばかりの男を、報告一つで信用するほど不用心ではないらしい。
野営地に着くと、彼らは手分けして遺体を調べた。頭目の顔を見た冒険者が頷き、衛兵が手配書と照らし合わせる。ほかにも人相の知れた数人がいたらしく、確かめるたびに調査員の紙へ印が増えていった。
遺体は、報告したとおり二十八体。全員の死亡を確認し、帳面にある分配人数とも照合した。衛兵たちが天幕の中や周囲の林まで調べ、戻ってくるのを待ってから、調査員がようやく俺へ向き直った。
「話は合っている。討伐の完了を報告しよう。野営地と盗品は衛兵に引き継ぐ」
俺は野営地で耳にした四人の話と、夜通し見張っていたことも伝えた。衛兵の隊長は、当面はここに見張りを置き、街道沿いも捜索すると答えた。
ギルドへ戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。調査員の報告を受けた受付嬢が、銀貨の入った袋を台に置く。
「確認が取れたよ。これが報酬。……あんた、いったいどこで剣を習ったんだい」
「あちこちでな」
俺は受領の署名を済ませ、袋を受け取った。一度の働きで注目されることは覚悟していた。それでも、必要以上に自分から話すつもりはない。続く質問が出る前に、宿を探したいと言って席を立った。
安宿に部屋を取り、荷袋を下ろした。寝台は少し傾いていたが、窓の掛け金はしっかりしていて、扉には内鍵もある。俺は銅貨と銀貨を机に並べ、宿代と食費を差し引いてみた。しばらくは急いで高額の依頼を受けなくても済みそうだ。窓の外から、遅い買い物客を呼び込む声が聞こえた。今夜は温かいものを食べようと思った。
懐から森で見つけた書状を取り出し、俺は改めてその文面に目を通した。徴税官の名は、レオンハルト・シュヴァルツという。その名前にも、記された役職にも、今のところ心当たりはない。これをどう扱うかは、まだ決めていない。ギルドに突き出して正義を気取るつもりもなければ、脅迫の材料として利用するつもりも今のところはない。ただ、こういう裏の繋がりを知っているというだけで、この街での立ち回りは大きく変わってくるはずだった。
前回の俺は、こうした搦め手とは無縁の人生を送ってきた。剣一本で正面から敵に立ち向かい、それで全てが解決すると信じていた。だが、王国の宮廷で繰り広げられていたのは、剣ではなくもっと陰湿な駆け引きだった。バルドーのような男たちは、正面から戦うことなく、書類と密約だけで俺を追い詰めた。
剣で片付かない相手を前にした時、何を持っていれば自分を守れるのか。俺は書状を折り直しながら考えた。まだ使い方が分かるわけではない。ただ、差し出された言葉を信じて剣を置く前に、相手が何を隠しているのかを確かめたいと思うようにはなっていた。
だが、心のどこかで、この平穏がいつまでも続くとは思えない自分もいた。この世界には、俺の知る歴史が刻一刻と近づいてきている。ヴェルダ平原の悲劇、隣国との紛争、そして魔王軍の本格的な侵攻。エルデシア王国が、俺という戦力を失ったままこれらの危機にどう対処するのか――正直なところ、興味がないと言えば嘘になる。
あの国は、俺なしでどこまでやれるのか。
答えを知りたい気持ちがなかったわけではない。だが、そのために王都へ戻るつもりもなかった。俺は街道の方角を思い浮かべ、南へ続く道を頭の中で辿りかけて、やめた。今ここにある銀貨は、あの国とは無関係の仕事で稼いだものだ。明日の宿代も、その金で払う。
それでも、瞼の裏にはヴェルダ平原で燃える村々の記憶が、まだ僅かにこびりついていた。ほどなく、あの土地で何が起きるのか、俺は誰よりもよく知っている。知っていながら、見捨てる。その選択が正しいのかどうか、今の俺にはまだ分からなかった。だが、少なくとも今夜だけは、その答えを考えることから逃げることにした。
机の上の書状を荷袋の底へ隠し、俺は部屋を出た。階下からは肉を焼く匂いがしていた。腹が減っていることに気づくと、張り詰めていた肩が僅かに緩んだ。遠い国の結末を決める前に、まず今夜を、この街で暮らしてみる。それくらいは許されてもいいはずだった。
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